第64回 てきすとぽい杯〈夏の24時間耐久〉
 1  5  6 «〔 作品7 〕» 8 
夢の跡
投稿時刻 : 2021.08.22 13:55 最終更新 : 2021.08.22 13:58
字数 : 1000
5
投票しない
更新履歴
- 2021/08/22 13:58:28
- 2021/08/22 13:55:08
夢の跡
わに 万綺




 ……

 雪が降ていますか?

 いいえ、少しも。私たちの街には雪のひとかけらも降りません。
 けれどあなたの心があなたに見せる故郷の景色はきと、一面の雪景色なのでしうから、私は少しも不思議に思いませんよ。

 そこに犬がいますか?

 私は犬という生き物を3Dホログラムを通してしか"経験"していません。
 ですがその暖かさや、私という個人を見つめる眼差しは、陳腐な想像力しかない私にも羨ましく思えます。
 あなたもその存在に幾度となく慰められたことでしう。

 手は寒さに悴んでいますか?

 今のあなたの手は適温に調整された治療室の中にあて不快に思われるところは何一つ観測されませんが、さきほど微かに震えました。
 あたためてあげられたら良いのですけど。

 ……

 強い日差しの下に居ますか?

 私たちの街に着いたのでしう。あなたは大人になり、故郷から逃げるようにこの街へ来ました。
 この街に犬がいないことを少し寂しく思いますね。
 それでもあなたが死ぬまでここでの生活をやめなかたのは、この街の鮮やかさ、騒がしさ、目まぐるしさに心を掴まれたからなのでしう。

 愛しい人の笑顔が見えますか?

 あなたはこの街で家族を持ち、働き、たくさん笑い、たくさん喧嘩をして、たくさん泣いた。
 あなたが心の内で密かに決めていた、配偶者を見送てから死ぬという目標は、無事達成されましたね。
 エメラルド色をした海が見渡せる丘に墓を建てました。

 その色と雪にさす影の色がよく似ていましたか?

 あなたは海と同じくらい、雪のことも好きであり続けましたね。
 それがなんの贖罪にもならないことは分かていたけれど。

 故郷を懐かしく思いますか?

 私は故郷というものを持ち得ません。ただいつの間にか発生し、この世の終わりのその先まで在り続ける"現象"に過ぎないからです。
 だからあなたの限りある命にパケージングされた思い出という名の不確かな出来事の塊にぴたりと寄り添うことができる。

 悲しいと思いますか?
 あなたという個人が果てのない闇の中へ溶けて消えてしまうこと。

 ……

 ありがとう。その言葉を待ていました。
 私たちはあなたの勇気を讃えます。
 だから泣かないで。
 朝になれば、あなたは故郷の雪の結晶になて故郷の土の上に横たわり、
 昼になれば、あなたはこの街の空の青になてあなたの煙を包み込み、
 夜になれば、あなたは真夏の夜の夢の精霊になて、別の誰かの孤独な夢に、ぴたりと寄り添うことができるのだから。

← 前の作品へ
次の作品へ →
5 投票しない