しなやかに打撃を放つ
しばらく同居していた僕の母親が死んだ。
数年前、父親が病気で他界し、ひとり住まいは心配だから、と妻に相談し、僕と妻が暮らす中古マンシ
ョンに来てもらい、一緒に住んでいた。母一人を受け入れられる広さは本来、子供が産まれた時のためだったが、まだ僕と妻の間に子供はいなかった。妻が快く引き受けてくれたのがありがたかった。
細かいことに気が付き、僕が幼い頃は鬱陶しいと思ったこともあったが、それでも実の親だ。いなくなると淋しく感じた。長年の生活の拘りが強く、趣味も多数持ち、人付き合いも多かった。今でこそリモートワークなんて言葉も世間で馴染んでいるけれど、母親の年齢でおまけにIT関連の仕事に疎い人間にとって、そんな仕事はまともに扱われなかった。そんな『まともではない』仕事をしている妻には、そのまま母親から文句のようにお小言が降りかかった。
「パソコンでのお仕事なんて心がこもってないわ。誰とも会わないなんて惨めよ」
「それが私には合っているようなんです」
ふたりがそんな会話で対峙しているのを間近で見るたび、ハラハラしつつ、淡い笑みで受け答えをする妻に感心したものだ。
更に母のいない所でも妻は言っていた。
「年を感じさせなくて、いつも自分の部屋の掃除もきびきびとこなしていて凄いわ。私も見習ってできる限り丁寧に壁や床を磨くの。掃除に手こずっていてもお義母さんに教えてもらったやり方で掃除し直したら見事にきれいになるのよ。私はどうも四角い部屋を丸く掃除してしまうようなの」
しかし、そんな元気な母が庭で足を滑らせ転倒し、頚椎を骨折してからすっかり弱り、介護が必要となり最終的には施設へと移った。
家から母親がいなくなり、葬儀をし、慌ただしく日々が流れ、あっという間に悲しみも流れた。四十九日を過ぎると一区切り着き、やっと部屋でビールを飲んだりして落ち着いた。妻は毎日仏壇を掃除し、毎日花の水を替え、線香も切らさず細々とした仕事をしてくれていた。やっと再び、ふたりだけの時間が持てると思えた。仕事を終え、明日は何のスケジュールも入れていない。キッチンで洗い物をしている妻を僕は呼んだ。
「奈美子、たまには一緒にビールでも飲もう」
「待って。もう少しかかるわ」
「洗い物なんて後でいいじゃないか」
カタンと水道口を閉じる音がした。
彼女は自分の分のグラスを持って来て、僕が座るソファの向かいに座った。
「たまには横に来いよ」
僕は少し酔っていたのだろう。妻の体が恋しくなったのだ。
「珍しいのね。野球を観てるんじゃなかったの?」
「観てるさ」
「じゃあ私には別に用事はないでしょう」
「なんだ、素っ気ないなあ。夫婦じゃないか。隣に来るくらいいいだろ」
「上機嫌ね」
そう言いながら、また立ち上がって、リビングから出て行ったが野球中継がいいところだった。両方のチームがなかなか健闘していて面白い。妻が戻ると、軽いつまみを手にしていた。夕飯で食べたサーモンのタルタルソース掛けだ。何となく別の物が食べたかったので、サラミとチーズ、なかったっけ? と、訊いた。
「持って来るわ」
「ありがとう」
相変わらず、さらりと支度をする。これも母親の影響なのだろうか。僕はすぐテーブルの上に出されたサラミとチーズに手を伸ばした。
「それでいいの?」
テレビではちょうど相手チームが同点のツーランホームランを打った。
「ねえ、それでいいの?」
「ああ、うん」
「ねえ、私ずっと考えていたことがあるの」
妻は自分の分のビールを手酌で注ぎ、まだ僕の隣には座らなかった。そして何やらテーブルの上に置いた。その文字を見て仰天した。
「なんなんだ、これは」
「読めないの? 離婚届けの用紙。私の分は記入が済んでいるからあとはあなたが書いてね。明日にでも役所に提出するから」
妻はテレビに背中を向けて悠長にビールを飲んでいる。
「どうしてそんなに余裕綽々なんだ?」
僕は慌てていたので、つい声が上ずった。
「あら、どうしてそんなに驚くの?」
「驚かないやつなんていないだろう。どうしたんだ急に」
「急ではないのよ。私はずっと考えていたことなの」
「僕は今初めて聞いたんだよ」
「うーん、あなたとは価値観が合わないみたいだから」
「頼むからふざけないでくれよ。結婚して何年経ってると思ってる? しかも親父やお袋まで看取ってくれたのに今さら価値観なんてあやふやな」
「そう言われても困るわ」
「僕だって困る」
「そうお?」
「当たり前じゃないか。何が原因だ?」
「そうね。ひとりになりたいの。ずっとお義母さんと一心同体みたいな生活していて疲れちゃった」
「でももう……終わったことじゃないか」
僕の一言は歯切れが悪かった。
妻は離婚届を引っ込めようとはしない。ただ黙って僕の顔を見て頷くのを待っているようだった。
「細かいことを言うときりがないの。強いて言えば私が要介護状態になってもあなたにほんの少しの手伝いも介助も期待できないから」
「……僕だって手伝ったじゃないか」
弱々しく僕は言うが、妻によると僕が言う手伝いとは、
私が姑にごはんを食べさせている。食べさせ終えて口を拭い、薬を服用させ、姑を移動させる。食器を片付ける。入浴させる。入浴を終える。服を着せて髪を乾かす。トイレまで連れて行く。その間、あなたは姑がこぼしたであろうテーブルの上のごはん粒を見つけて拾う。そばにあるゴミ箱に捨てる。それがあなたの言うすべての手伝い。
散々行きつ戻りつしながら妻は言う。
「あなたとは価値観が違うみたいだから」
「嫌だ。離婚したくない……」
「どうして? あなたにはもっと合う人だっているんじゃない? 例えば、私がお義母さんを施設に送って行ってあなたが仕事中だった時に会っていた人とか」
「何を言ってる?」
僕は、僕は、確かに浮気……そう、気晴らしがしたかった。正直に言う。
家で親の介護をしている、と少し疲れた顔で言うと優しくしてくれる女がいるくらいには僕は会社で男として見られていたのだろう。まさか知られていたなんて。いや、気づかない振りをしていたなんて。妻の顔は疲労で少しだけ隈が目立った。しかしそんな表情が愛しかった。ビールの酔いなぞ、とっくに冷めていた。
「奈美子、ごめん」
僕は突然、妻に強い欲情を感じて彼女をその場に押し倒した。その拍子にビールのグラスが倒れたがどうでも良かった。奈美子は突然の僕の行動に小さく悲鳴を上げた。
奈美子を抱きしめると、柔らかく懐かしい肌の匂いがそこにあった。他のどんな女とも違う僕と馴染む彼女の匂い。
「やめて。他の女の子とこういうことしたらいいじゃない」
「他の女と君は違う。君が一番大事なんだ。奈美子、ごめん、愛してる。これからふたりで生きて行きたい。君の望むことなら何だってする」
こんな言葉は初めてだった。奈美子すら驚いて一瞬、瞳を見開いた。
「頼む」
僕はカーペットの上に転がっている奈美子に口づけ、ニットの裾から手を入れて彼女の乳房をまさぐった。耳元に熱い吐息がかかる。
「だめ。本当に言うことを聞かなければ許してあげない」
「言うことを聞く。絶対だ」
「絶対ね」
「ああ」
僕らはそのままカーペットをベッド替わりにして抱き合った。
こんな時にそぐわない思考だが、僕はこれまでにないくらい興奮していた。彼女もまたそれを感じ取っていたのだろう。素晴らしく心地良く僕らは揺れた。まだまだできそうだと思っている時、奈美子がふと、口にした。
「お義母さん、何だかんだ元気そうだったけどやっぱり年をとっていたのね。少し強く胸を押したらあっという間に転んでしまって。庭は言われた通りレンガを敷いていたから頭も打ったんでしょうね」
僕の動きが止まる。今、何て言った?
「お義父さんも、食べ方が雑で口でちぎってあまり咀嚼もせずにすぐ飲み込む癖があったでしょう。お餅なんて誰でも心配するような物、警戒するのは判ってたわ。甘いわね。おにぎりの海苔を甘く見てはいけないのよ。年寄りは特に」
待ってくれ。まさか、すべて奈美子が仕組んだことだって言うのか?
「動いて」
奈美子の指令に僕は従った。動揺していると言うのになぜ僕自身は奈美子の言うことが聞けるんだろう。訊きたいことはたくさんある。あるんだ。でも僕のそんな想いをも見抜く彼女の瞳は残酷さを湛え、この上なく美しかった。僕の負けだ。
〈 了 〉