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第65回 てきすとぽい杯
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しなやかに打撃を放つ
 投稿時刻 : 2021.10.17 00:41
 字数 : 3353
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しなやかに打撃を放つ
幸坂かゆり🐱


しばらく同居していた僕の母親が死んだ。
数年前、父親が病気で他界し、ひとり住まいは心配だから、と妻に相談し、僕と妻が暮らす中古マンシンに来てもらい、一緒に住んでいた。母一人を受け入れられる広さは本来、子供が産まれた時のためだたが、まだ僕と妻の間に子供はいなかた。妻が快く引き受けてくれたのがありがたかた。

細かいことに気が付き、僕が幼い頃は鬱陶しいと思たこともあたが、それでも実の親だ。いなくなると淋しく感じた。長年の生活の拘りが強く、趣味も多数持ち、人付き合いも多かた。今でこそリモートワークなんて言葉も世間で馴染んでいるけれど、母親の年齢でおまけにIT関連の仕事に疎い人間にとて、そんな仕事はまともに扱われなかた。そんな『まともではない』仕事をしている妻には、そのまま母親から文句のようにお小言が降りかかた。
「パソコンでのお仕事なんて心がこもてないわ。誰とも会わないなんて惨めよ」
「それが私には合ているようなんです」
ふたりがそんな会話で対峙しているのを間近で見るたび、ハラハラしつつ、淡い笑みで受け答えをする妻に感心したものだ。

更に母のいない所でも妻は言ていた。
「年を感じさせなくて、いつも自分の部屋の掃除もきびきびとこなしていて凄いわ。私も見習てできる限り丁寧に壁や床を磨くの。掃除に手こずていてもお義母さんに教えてもらたやり方で掃除し直したら見事にきれいになるのよ。私はどうも四角い部屋を丸く掃除してしまうようなの」
しかし、そんな元気な母が庭で足を滑らせ転倒し、頚椎を骨折してからすかり弱り、介護が必要となり最終的には施設へと移た。

家から母親がいなくなり、葬儀をし、慌ただしく日々が流れ、あという間に悲しみも流れた。四十九日を過ぎると一区切り着き、やと部屋でビールを飲んだりして落ち着いた。妻は毎日仏壇を掃除し、毎日花の水を替え、線香も切らさず細々とした仕事をしてくれていた。やと再び、ふたりだけの時間が持てると思えた。仕事を終え、明日は何のスケジルも入れていない。キチンで洗い物をしている妻を僕は呼んだ。
「奈美子、たまには一緒にビールでも飲もう」
「待て。もう少しかかるわ」
「洗い物なんて後でいいじないか」
カタンと水道口を閉じる音がした。

彼女は自分の分のグラスを持て来て、僕が座るソフの向かいに座た。
「たまには横に来いよ」
僕は少し酔ていたのだろう。妻の体が恋しくなたのだ。
「珍しいのね。野球を観てるんじなかたの?」
「観てるさ」
「じあ私には別に用事はないでしう」
「なんだ、素気ないなあ。夫婦じないか。隣に来るくらいいいだろ」
「上機嫌ね」
そう言いながら、また立ち上がて、リビングから出て行たが野球中継がいいところだた。両方のチームがなかなか健闘していて面白い。妻が戻ると、軽いつまみを手にしていた。夕飯で食べたサーモンのタルタルソース掛けだ。何となく別の物が食べたかたので、サラミとチーズ、なかけ? と、訊いた。
「持て来るわ」
「ありがとう」
相変わらず、さらりと支度をする。これも母親の影響なのだろうか。僕はすぐテーブルの上に出されたサラミとチーズに手を伸ばした。
「それでいいの?」
テレビではちうど相手チームが同点のツーランホームランを打た。
「ねえ、それでいいの?」
「ああ、うん」
「ねえ、私ずと考えていたことがあるの」
妻は自分の分のビールを手酌で注ぎ、まだ僕の隣には座らなかた。そして何やらテーブルの上に置いた。その文字を見て仰天した。
「なんなんだ、これは」
「読めないの? 離婚届けの用紙。私の分は記入が済んでいるからあとはあなたが書いてね。明日にでも役所に提出するから」
妻はテレビに背中を向けて悠長にビールを飲んでいる。
「どうしてそんなに余裕綽々なんだ?」
僕は慌てていたので、つい声が上ずた。
「あら、どうしてそんなに驚くの?」
「驚かないやつなんていないだろう。どうしたんだ急に」
「急ではないのよ。私はずと考えていたことなの」
「僕は今初めて聞いたんだよ」
「うーん、あなたとは価値観が合わないみたいだから」
「頼むからふざけないでくれよ。結婚して何年経てると思てる? しかも親父やお袋まで看取てくれたのに今さら価値観なんてあやふやな」
「そう言われても困るわ」
「僕だて困る」
「そうお?」
「当たり前じないか。何が原因だ?」
「そうね。ひとりになりたいの。ずとお義母さんと一心同体みたいな生活していて疲れちた」
「でももう……終わたことじないか」
僕の一言は歯切れが悪かた。
妻は離婚届を引込めようとはしない。ただ黙て僕の顔を見て頷くのを待ているようだた。
「細かいことを言うときりがないの。強いて言えば私が要介護状態になてもあなたにほんの少しの手伝いも介助も期待できないから」
……僕だて手伝たじないか」
弱々しく僕は言うが、妻によると僕が言う手伝いとは、

私が姑にごはんを食べさせている。食べさせ終えて口を拭い、薬を服用させ、姑を移動させる。食器を片付ける。入浴させる。入浴を終える。服を着せて髪を乾かす。トイレまで連れて行く。その間、あなたは姑がこぼしたであろうテーブルの上のごはん粒を見つけて拾う。そばにあるゴミ箱に捨てる。それがあなたの言うすべての手伝い。

散々行きつ戻りつしながら妻は言う。
「あなたとは価値観が違うみたいだから」
「嫌だ。離婚したくない……
「どうして? あなたにはもと合う人だているんじない? 例えば、私がお義母さんを施設に送て行てあなたが仕事中だた時に会ていた人とか」
「何を言てる?」
僕は、僕は、確かに浮気……そう、気晴らしがしたかた。正直に言う。
家で親の介護をしている、と少し疲れた顔で言うと優しくしてくれる女がいるくらいには僕は会社で男として見られていたのだろう。まさか知られていたなんて。いや、気づかない振りをしていたなんて。妻の顔は疲労で少しだけ隈が目立た。しかしそんな表情が愛しかた。ビールの酔いなぞ、とくに冷めていた。
「奈美子、ごめん」
僕は突然、妻に強い欲情を感じて彼女をその場に押し倒した。その拍子にビールのグラスが倒れたがどうでも良かた。奈美子は突然の僕の行動に小さく悲鳴を上げた。
奈美子を抱きしめると、柔らかく懐かしい肌の匂いがそこにあた。他のどんな女とも違う僕と馴染む彼女の匂い。
「やめて。他の女の子とこういうことしたらいいじない」
「他の女と君は違う。君が一番大事なんだ。奈美子、ごめん、愛してる。これからふたりで生きて行きたい。君の望むことなら何だてする」
こんな言葉は初めてだた。奈美子すら驚いて一瞬、瞳を見開いた。
「頼む」
僕はカートの上に転がている奈美子に口づけ、ニトの裾から手を入れて彼女の乳房をまさぐた。耳元に熱い吐息がかかる。
「だめ。本当に言うことを聞かなければ許してあげない」
「言うことを聞く。絶対だ」
「絶対ね」
「ああ」

僕らはそのままカートをベド替わりにして抱き合た。
こんな時にそぐわない思考だが、僕はこれまでにないくらい興奮していた。彼女もまたそれを感じ取ていたのだろう。素晴らしく心地良く僕らは揺れた。まだまだできそうだと思ている時、奈美子がふと、口にした。
「お義母さん、何だかんだ元気そうだたけどやぱり年をとていたのね。少し強く胸を押したらあという間に転んでしまて。庭は言われた通りレンガを敷いていたから頭も打たんでしうね」

僕の動きが止まる。今、何て言た?

「お義父さんも、食べ方が雑で口でちぎてあまり咀嚼もせずにすぐ飲み込む癖があたでしう。お餅なんて誰でも心配するような物、警戒するのは判てたわ。甘いわね。おにぎりの海苔を甘く見てはいけないのよ。年寄りは特に」

てくれ。まさか、すべて奈美子が仕組んだことだて言うのか?

「動いて」

奈美子の指令に僕は従た。動揺していると言うのになぜ僕自身は奈美子の言うことが聞けるんだろう。訊きたいことはたくさんある。あるんだ。でも僕のそんな想いをも見抜く彼女の瞳は残酷さを湛え、この上なく美しかた。僕の負けだ。


〈 了 〉
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