第75回 てきすとぽい杯
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あの頃の長電話
投稿時刻 : 2024.04.13 23:33
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あの頃の長電話
浅黄幻影


 むかしむかし、令和や平成が始まるよりずと昔の時代、私は昭和という時代を生きていた。もうあの時代は、最近の進歩・発展のめまぐるしいペースによて、ずいぶんと過去のものになている。きと、昭和に生まれた私が一昔前を想像するとモノクロの絵や動きになてしまうように、今の人たちは昭和もモノクロだたと思ているかもしれない。
 現代人にとてモノクロ時代の人々は何もかもが古めかしい。カメラのレンズを一直線に見つめた人の写真など、私なら思い浮かべる。あるいは、これは私でも理解出来るが、発色のおかしな、どこか赤色が強い現像された写真も、時代を感じる。
 さまざまなものが生まれ、生活の一部・ブームになり、やがて役目を終えて去ていた。変わていくものはいくらでもある。もしかしたら、必要のないものが必要のないものに置き換わているだけかもしれない、そんな風に思えなくもない。
 公衆電話もそのひとつだろう。
 昭和のころ、高校生の私には彼女がいた。初めての恋人だた。彼女は彼女が通う女子高をはさんで反対の街に住み、私たちは学校帰りの短い時間に街角で言葉を交わし、手を握たりしたものだた。暖かく、少し緊張して湿た互いの手のひらを感じたことを私は今も忘れない。
 女の子は話好きなもので、家に帰たあとにも私によく電話をくれた。私の方では電話を受けるに問題なかたし(彼女からかかてくる時間は指定され、電話の近くをうろうろしていた)、彼女のことをそれほど語らなかたので家族にもバレはしなかたが(と、思ていた)、彼女の方では家からかけることはできなかた。交際はまだ許されていなかたし、友達の振りをしてかけたときも何度も長時間話してしまい、ついに夜の電話を禁止された。
 そうなるともう電話は出来ないはずだた。公衆電話を使いに夜に出歩くなんて不良少女も甚だしい、私の方からかけるわけにはいかない。
 そんな折りだた、彼女の家の風呂が壊れた。そう、夜に銭湯に行くのだ。彼女のお母さんはお父さんの帰りを待ち、あとで二人で入りにいく。彼女が一緒に行くのはお姉さんとだた。お姉さんには本当のことを打ち明け、何とかして欲しいと泣きついて、私への電話をこれまでよりずと短くかけてきた。彼女も、そして私も、これまで聞けていた声を求め、わずかな時間で多くのことを話そうとして詰まり、笑い、焦りながら名残を惜しんだ。
 電話は計たところでは約九分。三分十円だたから、三十円使たことになる。あそこの銭湯が七十円だから、なかなかのお値段だた。そんな風にして、お姉さんが見守るなか、裸電球が上でひかている電話(そこは電話ボクスではなく、簡易な板で囲まれていたものだた)で彼女は電話をしてきた。きと、風呂上がりに握りしめた十円玉を慌てて投入していたことだろう。私にしても、彼女からの電話を待つのは楽しみだた。何より、いつまでも長電話でないことも、実を言えばうれしかた。延々と続くのは結構、しんどかたし、ちんと聞いているのかと怒られるのにも困ていた。
 だが、彼女の家の風呂はやがて修理された。夜に外出する口実は消えてしまた。公衆電話からかかてくる電話はなくなり、私は寂しい夜を過ごすようになた。私の公衆電話についての思い出話だ。
 今の時代もやがて過去になていく。今を生きるこどもたちも、未来には「令和なんてずいぶん昔で、あんな時代になんて私は生きられない!」と言われる時代が来るはずだ。あるものは古くなて新しいものに交換され、またあるものは役目そのものが終わて消えていく。ひとつの時代は終わり、新しい時代がやてくる。
 ところで、先日、公衆電話を使う機会があて十円玉を一枚入れてみたが、驚くほど早く切れてしまた。なんと、全国一律で五十六秒しか使えないのだという。
 そこでふと、彼女との電話の話を思い出したわけだが、私の思い出も錆びた十円のようにくすんでいるような気がした。私もまだ今という時代を生きているのだから仕方がないのかもしれないが、すべての昭和がモノクロになるにはまだ時間がありそうだ。
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