虫けらの哲学
目の前に投げ出されたスズの肢体を、私はとくと眺めていた。
ぜんたいに肉づきのよい体格ながら、足首は絞
ったように細い。艶やかな質感の黒い肌、つつましく左右対称な大あご、豊満なおしり。ところ構わず撫でさすりたい衝動を、絶え間なく私に引き起こす。
「何をご覧になっているの」
スズはつと振り返り、不思議そうに尋ねた。
「何も見ちゃいませんよ」
「嘘、ずっと見てらっしゃる。何だか背中がぞわぞわしますわ」
彼女は恥じらうように、引き締まった腹部を動かした。甘い香りの樹液に浸され、全身がなまめかしく光る。
「そら、早く食べておしまいなさい。他の者が来ると混み合いますから」
私は、ふらふらと触角を振ってごまかした。鷹揚に見えるよう、口角を上げ目を細めて見せる。スズはまた、樹液の泉へ頭をうずめた。心と体のすべてを、この私に預けて。
スズは、コクワガタの班長(奴らはいつも団体で行動する)が連れてきた、私と同種のメスだった。
「上物が出ましたぜ」
はじめ、私はまったく信用しなかった。鼻持ちならない女をひいきする性癖が、奴にはあるのだ。せんだって紹介されたのは三年も土にもぐった年増、その前はプライドばかり高いすれっからし。そのたび私は、自分の趣味で選ぶなと恫喝し班長を蹴り倒した。
「いや、こんどこそはですね、絶対に旦那のお好きな虫でございますから」
班長はヘラヘラと笑い、自信たっぷりに前脚を揉み合わせた。
五センチ四方に編まれた草籠が、うやうやしく差し出される。天蓋がわりにかぶせられたアケビの花を、ぞんざいにつかんで振り払う。
「はじめまして」
葉を敷き詰めた床に、グラマラスな女が座っていた。
「あの、わたくし、地面から出たばかりで何も分からず……助けてくださる殿方がいらっしゃると聞いて、連れてきていただいたんですの」
伏せがちな目が、黒々と闇を映した。私は鼻から大きく息を吐き、興奮を逃がす。
高慢ちきを『都会的な魅力』等と表現する無神経さには、いつも激しい怒りを覚えていた。男と違い女は大したことを考えられない生き物であるからして、学識を備える必要などハナから無いのだ。大切なのは見目の良さと従順な心持、若干の手練手管。これに尽きる。
「いかがでしょうか」
班長が嫌らしく尋ねた。下がった目じりを殴りつけたくなりつつ、寛容な態度を演じる。
「悪くない」
私は再び、両の鼻腔から大量の空気を吹き出したのだった。
★
「おやおや貴方ともあろうものが、こんな辺鄙な場所へいらっしゃるとは」
洗練された嫌味を含ませながら、私は形ばかりに歓迎の意を表した。
「貴殿もお元気そうで何より。お食事はたっぷりなはずですからな」
野郎と呼ばれる男も、堂々と皮肉をつきつける。
奴は時間通り飛んできた。私とスズが、甘く溺れているさなかに。コクワガタの次はカナブン、その次がカミキリムシ、最後に蛾と蝶。ヒエラルキーに属する虫すべてが、順を追って到着を騒ぐ。
「やあやあ、皆さん今晩わ」
野郎は思い出したように、よく通る声で挨拶をした。観衆は、その巨体に敬意を示し頭を垂れた。
「温度と湿度が双方高くて、気持ちのいい夜ですなあ。スズさんも相変わらずお美しい」
奴はスズの前脚をとり、うやうやしく口をつけてみせる。
「天候がよろしいですわね。皆さん体が大きくなられたところではないかしら。野郎様はいかが?」
スズは朗らかに尋ねた。
「僕はいいんですがねえ。ここに来る途中で、腹を空かせたルリクワガタの一家に会いましたよ」
野郎はふいに振り向き、どんぐり眼を見開いて睨めつける。
「ルリクワガタ? 存じませんなあ」
口腔に残った樹皮を、私はポリポリかき出した。
「知らぬわけはない。跡取りを差し出さなかったせいで、けちなヤナギしか舐めてはならんと貴殿に命じられたと。一家心中を考えるほどに思いつめていましたぞ」
もちろん覚えていた。ちんけな身分にも関わらず息子を奉公にはやれないと反発したので、相応の待遇をあてがった。一刺ししなかっただけでも感謝すべき立場なのに、ひどく図々しい話だ。
「そんなに空腹なら、ここへ来て好きなだけ食せばいい話でありましょう。何を藪から棒な」
「来ても食べられるわけはないだろう。これだけ警備されていれば」
私を取り巻くコクワガタの軍団を、野郎は大ぶりなあごで指し示す。
「生きとし生けるものとして恥じらいはないのかッ」
「下々の者に煩わされている暇はないのですよ。我々には秩序を守る役目がある、貴方と同様にね」
この界隈に、オオクワガタやミヤマクワガタ等の大型はあまり生息しない。つまり我らヒラタクワガタ――私と野郎、そしてスズが属する種――がピラミッドの頂点に立っているわけで、粛清は当然の権限である。権利に利権が含まれるのも、また自然の理。何を今更と、私は岩盤のごとく構えた。
「……難しいお話ばかりなさいますのね。カナブンたちが順番を待っていますわ」
スズが、やわらかに水を差した。
振り向くと、カナブンの群れが涎を垂らしながら列を作っていた。コクワガタはというと樹液のおこぼれをむさぼるのに必死で、役目がないがしろになっている。
「おおっと、これは失敬。俺としたことが、迷惑をかけたな」
野郎は機敏に動いて場所を空けた。一瞬で空席に黄金色の虫たちが群がり、カミキリムシの黒い背中もそこに混じった。私は大きく舌打ちし、微塵も動かないことで存在感を示す。女に命令されるのは実に気分がよくない。
四枚の翅を取り出しながら、野郎は顔を近づけ囁いた。
「今日はこのくらいにしておきますが、貴殿、いつか痛い目に合いますぞ」
脅しのつもりか。噴飯ものである。
「そちらこそ、ゆめゆめ油断なされませんよう」
スズに聞こえないよう、こちらも低い声で凄んだ。どんぐり眼をまた見張って敵意を表したまま、奴は樹上へと大きく飛び立つ。
★
馬鹿ほど見晴らしの良い場所を好むというのは真実だ。一本クヌギの上部は、野郎のオンステージだかワンマンショーだかで、毎夜の乱痴気騒ぎとなった。幼虫期を1~2年で切り上げた学のないクワガタや格下の昆虫どもに、奴はえらく慕われている。
「みなさん、楽しそうですわね」
優しく評しながらも、スズはほとんど興味を持たなかった。
「遠慮なさらず、貴女も参加なさっていいんですよ」
「いいえ、わたくし、ああいう場所はちょっと」
品のないものは好まないのだ。大いに満足する。私は、脇に控えたコクワガタのメスたちを指さして微笑んだ。
「では、流行りの美肌術などいかがかな? 釣り鐘草の露を集めさせておきましたぞ」
「まあ! 素敵だわ」
スズは前脚で大あごを挟み、はにかみと喜びを表した。中年女のコクワガタに誘われ、彼女は浮き浮きと、施術の準備がなされた樹のうろへ向かう。重ねられたヨモギの葉の上で、極上のひとときを過ごすことだろう。
さて。
芳醇に湧き出す樹液をからめ取り、私はでろりと舐めた。
さて。
いつか奴はスズを奪うだろう。私の世界を壊しにかかるだろう。野郎には、表舞台からご勇退頂かなければならない。二度と浮上できない場所まで深く、沈めてしまわなければならない。
誰かを痛めつける際には、様々な方向から剣を刺し鋭敏な「痛点」を見つけ、より効率よく打ちのめすことが肝要だ。誰にでも当てはまる痛点というものはない。金。家族。恋人。信念。該当者がのたうち回るポイントを、丁寧に、丹念に、妥協せず探る作業を繰り返す。目隠しをして海に手を突っ込み、誰かが印をつけたミジンコを間違いなく掬い上げる試みに、それは似ている。そう、凡人にはできない。真似をしてはいけない。私は天才なので、やすやすと可能であるが。
目を閉じ、精神世界を泳ぎはじめる。悟ったような無に浸る。
身体的な苦痛には、非常な耐性があるはずだ。それ以前に、あれほどアゴが大きく体格も強靭だと、小型の兵が主力の我が陣営では敗退のリスクが伴う。無粋な豪胆さの裏には、摘みたてのモヤシのような、ごく脆いセンシティブが隠れていると推測された。男性性を装った、強烈な女性性。
古い小説の一節を思い出した。捨てられた新聞の片隅に見つけた抜粋だ。
<精神的に向上心のないものは馬鹿だ>
向上を善と断定する理屈。純化という向上しか認めない愚直。潔癖な男は、自らが掲げる志を盲信し、果たせずに切腹の道へと至る。
世にも阿呆な生きざまだ。ひとりでに嘲りの笑みが零れた。
すべての生物は、自らの欲望を第一義として生きるべきだ。生命とは、その宿り主に采配を任されたものだからだ。永らえるも早死にも、個々人の能力に応じて決まる。押しのけて生き延びること、それがすべて。良心やら正義やら信念やらいうものは、他人の視線を排除すればじつに些末な考えといえるだろう。他者とは、生存を主題としたレースの競争相手である。女であろうが男であろうが。もちろん一匹だけで生きていくのは容易ではない。が、それも連携を装った相互利用にすぎない。
頭上のどんちゃん騒ぎは、いよいよ佳境を迎えたようだった。
♪みみずだって おけらだって アメンボだって
みんなみんな 生きているんだ ともだちなんだ
お決まりの曲が降ってくる。さまざまな種の鳴き声が、ときには涙まで混じって響いた。合唱しているのだ。
可笑しくて腹部がよじれそうになる。もし天変地異が起き一瞬にして食料が尽きたら、奴らはどうするのだろう? かつて心を一つにしたことも忘れ、翅をむしり脚を折り取りむさぼりあうのだろうか。そんなとき、私は最もスマートに肉を手に入れるだろう。可愛い女を手放すことも、下らない理想の崩壊に嘆くこともないだろう。
私は偽善が大嫌いだ。ポジティブという名の無知に基づくものは特に。
目を閉じ、ひたすら考える。思考をめぐらし矛盾を追及し、手落ちのない罠を組み立ててゆく。
★
「ああ、とても心地よくしていただきましたわ」
戻ったスズは、磨き上げた黒真珠のように月光を照返していた。その肌は、こちらの目が痛いほど輝いている。
「お美しい。貴女はすべての男のファンタジーですな」
まあお上手と、スズは(不可能だが)くねらせるように体を動かす。褒めてりゃ機嫌がよいのだから、女とは簡単な生き物だ。
ひときわ大きな歓声が上がった。野郎のオリジナル・バラードが、夜気を縫うように披露される。
♪きみが 好きなのさ
なにもかも あげたいのさ
月も星も 日の光も
音量ばかり大きく音程が酷い。情感たっぷりというやつか。他人のナルシスティックな独白に酔いしれるとは、皆様いかばかりお目出度いのだろうか。むしろ幸せそうでお羨ましい限りだ。そうした事実に気づく者が他にいないという点こそ、私のレベルが傑出している証拠なのだが。
優越感にひたる私に、ふいにスズが問いかける。
「ねえ、どうお思いになって?」
垂れていたよだれを急いで拭った。
「な、なんですかな」
「あの方」
上空を見上げ、彼女は珍しく尖った声を出す。
けげんに感じて、私はスズを見つめた。肩が小刻みに震え、泣いているのかと覗きこむと、大きな瞳は怒りにゆがめられていた。奴のおためごかしを、聡明にも見抜いたか。喜びにあふれて身を乗り出した。
「そうですな、野郎君は若干、世の中というものを誤解しているふしが」
「そんなことじゃないんですの!」
ごく強い口調で打ち切られた。私は驚いて黙る。スズは空を睨みつけた。
「あの方は、誰もかれもを同じように好いていらっしゃるのね。どんな女性も、男性さえも、均等に。美しくても愛らしくても、あの方の心に響いたりはしないんですのね」
だから何だというのだ。しばらくぴんと来ず、私は口を開けて「はあ」と答えた。
数秒後、隕石が落ちたような衝撃を受ける。
「そ、それは、もしかしてスズ殿……」
「誤解なさらないで!」
スズの大あごの下部が、濃い紫色に染まった。
「わたくしは、自分を特別に想わない殿方など愛しませんわ。決して」
つややかな脚の先を咥え、彼女は激情に身をさらす。
「でで、でも、そんなそぶりは少しも……」
思いの外どもってしまい、私は更に動揺した。スズは媚びることも忘れ、蔑むように吐き捨てた。
「見せるわけないじゃございませんか。そんな恥さらし、絶対にできません」
「恥さらし……?」
「ただ欲しくてたまらないだけです。何故か。あの方には内緒にしてくださいませね」
スズはひたとこちらを見据え、真摯に懇願した。
♪きみを 守るのさ
影や汚れは すこしも似合わない
いつだって 真夏のプリンセス
行こう パラディーゾ 素敵な楽園へ
スズは、観衆が集う枝を見ようともしなかった。メロディを口ずさんだりも、勿論しない。彼女は、ただ目の前の暗闇だけを見つめていた。
野郎の歌は歪み、回転数をいじったように、しだいに音程が不安定になった。バラードは続く。
♪そばにいるよ いつだって
愛しているよ 何もかもを
そうか、そういうことなのか
そういうことか
そういうことか!?
気づけば歌声は、私のそれにすり替わっていた。スズの不貞を申し立てるシュプレヒコールが、天を突き上げるように激しく響く。
そういうことか! スズ、お前もなのか! 結局は体か! 筋肉か! 顔か! ポジティブか! 思いやりか! 正義か!
じわじわと湧く憎しみは新鮮で、私はむしろ爽快さを感じた。頬を張られ目が覚めたような気分だ。
氷河のように冷えた意識が、闇から静かに降りてくる。
やはり女性問題が適当だろう。奴のプライドをずたずたに傷つけ、カリスマ性は地に落ちるはずだ。古い価値観を持つスズも、激しい軽蔑の念を抱くに違いない。実際に体の関係を作らせる必要はない。ただ、それらしい証拠をでっちあげて、歩く拡声器であるキタテハにでも流してしまえばいい。
先日召し上げたばかりのコクワガタに、えらく艶っぽいのがいた。種族違いの不純交際は――オスが大型でメスが小型の場合は特に――絶対のモラル違反だ。生理的な嫌悪とともに、社会から断罪されることだろう。
頭を樹皮にこすりつけ、私はダハダハっと声をあげた。自分の聡明さに、鳥肌をたてて歓喜する。他者の視線などどうでも良かった。スズは私など目に入らないという様子で、前脚をじっと口に含んでいる。
枝の上に転がり、じつに爽やかに、半ば酸欠になりながら、私は笑い続けた。
頬には涙がつたい、それを降り散らしゴロゴロのたうちまわり、なおも私は洪笑した。
「班ーーー長ーーぅ!」
ヒステリックな裏声になったが気にしない。班長は完全に怯えた様子でこちらを伺い、動こうとしなかった。再び声を張り上げる。計画は完全に出来上がっていた。これから起きる悲劇を、順を追ってイメージする。
「班ーーー長ーーぅ!」
何と痛快な。またもこらえることができなかった。吐き気まで覚えながら、私は狂ったように笑う。
さあご覧あれ、これから始まる虫のサーカス。王子様の冒険が始まるよ――失墜し、伴侶も食物も得られず死んでいく野郎を思い浮かべた。<精神的な向上心>を鬱々と抱えながら、秋の風に吹かれて腹を見せ山道に転がる亡骸を。
「何かご用で」
ビクビクした物腰で、班長がすり寄ってきた。私は無言のまま、奴を全力で蹴り飛ばした。
アンコールを求める歓声が、頭上からさざ波のように湧き上がる。野郎は感極まり、「サンキュウ、皆ありがとうっ」等と叫んでいる。
とっとと忌んでしまえ。私は低く、鋭くつぶやく。
小さな呪詛は、無数の星が浮かぶ夜空へ、跡形もなく吸い込まれていった。