ヤスマイルの物語
もはやその時代の言語を読み解く者すらいない、遠い昔の、ある国の話だ。
かの救世主の生まれた土地から、少しばかり東に行
ったあたりに、ほぼ荒地でできた小さな国があった。
国の名を、ヤスマイルという。
とある中国の学者が唱えるところによると、人類史上はじめて、投票によって政を決めた国であるらしい。
ヤスマイルのおもな産業は、岩塩の精錬であった。
人々は塩を国外に売って暮らしたが、なお、売り切れないほどの塩が残った。
そこで王は塩を貯蔵するため、塔を建て、そこに塩を詰め込んだ。
ヤスマイルの岩塩には、かすかな芳香があり、塔の中に入り、その香りを嗅ぐと、誰もが頭が冴え、世界の真実を知ったという。
世界は、全て、塩でできている。
ひんやりした塩の壁に囲まれ、壁をそっと擦って指を舐めると、誰もが、わずかな甘さと、頭のてっぺんまでつきぬける塩辛さ、そしてごくかすかな、艶めかしい香りに酔い、そう思うのだという。
あるいは、ヤスマイルの岩塩とは、何かしらの禁断の成分を含んでいたのかもしれない。
ヤスマイルが塩によって冨を作り、都に豪奢な宮殿が建ち、砂漠と美女を歌う詩が流行を極めていた時、その政党は現れた。
サ=リマス党、という。名前は、塩に帰れ、という意味で、中心にいたのは、マスフラという学者だった。
党員たちは、塩の家を作り、塩の他に何も口にしない断食の修行をした。
そして、ヤスマイルは外国からの文物を捨て、塩に帰るべきだ、と主張した。
結党の一年後、マスフラは、王にひとつの布告を出すよう求めた。
もちろん、世界は塩で出来ている、という布告である。それをヤスマイルの教義とすることが、マスフラの生涯の夢だった。
王は拒んだ。のみならず、マスフラと対立する学者、ガクナルを支持してみせた。
ガクナルは商学者で、貨幣の導入を強く主張していた。ガクナルが試作した貨幣は、小石を加工したものであった。
マスフラは、王がガクナルを選んだことに憤激し、毎日、朝と夕に宮殿を訪れ、王との面会を求め続けた。
数年後、さすがに辟易した王は、こう提案する。
国の民に決めてもらおう、と。
マスフラのサ=リマス党を支持する者は、塩の塊を持参する。
ガクナルのト=ネニス党(世界は多彩なり、という意味である)を支持する者は、小石を持参する。
それを塔の形に積み、高いほうを勝ちとする、と。
こうして、史上初の国政選挙が行われた。
サ=リマス党に清き一票を、と書かれた史上初のポスターも作られ、いまは大英博物館に所蔵されている。
結果は、ガクナルのト=ネニス党の勝利であった。
それでも、サ=リマス党は再選挙を執拗に求め、毎年のように、投票は繰り返された。
人々は、それが何をめぐる選挙なのか、またたくまに忘れていった。
あるのは、ただ、2つの党の終わりなき争いだった。
ト=ネニス党は、百回以上勝ち続けた。なぜなら、彼らの導入した貨幣制度は、もはやヤスマイルに欠かせないものだったからだ。
ヤスマイルの芳香ある塩は、もはやたいした生産もされず、時代に取り残された産業となった。
サ=リマス党の党員は減り、最後は三人しか残らなかった。
が、度重なる選挙の結果、ヤスマイルじゅうに、ト=ネニス党の石の塔ばかりが立ち並ぶことになった。
この醜い石の塔が、あるとき、国民の憤激を買った。あまりにも邪魔で、醜く、役立たずだと。
だが、勝利に慣れたト=ネニス党は、石塔の撤去を断固拒んだ。
そして、百二十一回目の選挙で、史上始めて、サ=リマス党は勝利した。国民はみな、あのひんやりした塩の塔と、甘い芳香を、思い出したのだ。
王は、複雑な面持ちで、民の前に立ち、こう宣言した。
世界は、全て塩でできていて、それ以外は幻である、と。
その瞬間、ヤスマイルは全て塩と化し、国じゅうのありとあらゆる塔は崩れ、人もまた、塩となって地面にばらまかれた。
数日後、塩は砂漠中に舞い、風に乗って世界中に散らばっていったが、ヤスマイルの存在も、記憶も、もはやその塩の中には何ひとつ残らなかった。
だから、ヤスマイルの事実を、さも知っているかのように書いている私も、実のところ、塩でできた幻である。
その証拠に、私の口の中では、生まれてこのかた、その塩の、たまらなく塩辛い味がし続けているのだ。