趣味は意外な形で身を助ける
「朝早く、突然で本当にすみません」
「いえいえ。アキラからよく貴方のお話は聞いてましたよ。どうぞ、くつろいでください。ここはアキラの部屋でもあるんですから」
「失礼します」
ふわふわとした茶髪を翻して、女は僕をリビングに通すと、温かい緑茶とガラスの器に盛られた、ヨー
グルトとバナナとジャムの盛り合わせを持ってきてくれた。
「今しがた起きたばかりですみません。慌てて服を着て、それで何も用意できなくて。せめてヨーグルトどうぞ。趣味の手作りなんで、出来があまりよろしくないかもしれませんが」
「そうなんですか。あ、いえ、えっと、いただきます」
「えーっと……」
「サトシです」
「そうでしたそうでした。時々話に聞いていますよ。アキラの弟さんなんですよね」
「貴方は、その……別に兄さんの恋人ではないんですよね」
「えぇ。ただのハウスシェアなんですけど、よく同棲と間違われますね。まぁいい年頃の……って親はよく言いますけど、どうなんでしょうね。自分では賞味期限切れだと思っていますけど。とにかく、まぁ親が言うところのいい年頃の男と女が一つ屋根の下に暮らしていたら、そう思われやすいのでしょうね」
年上には違いないだろうが、僕の目からでも十分若く見える女は、苦笑いしていた。
そんなことはありませんよ、と普段なら世間話に興じるところだが、今はそれどころではなく、僕は彼女に本題を切り出した。
「実は……その、貴方にお願いしたいことがありまして」
「なんでしょう?」
「その前に確認したいのですが、貴方がここ数日で、家を空けたのは、3日前から一昨日までの一泊二日の旅行中の間だけだった。それは間違いありませんよね」
「……えぇ。旅行から帰って以降、私が記憶する限り、家を出ていないのは確かですね。ひょっとしたらコンビニくらいには行ったかもしれませんが」
「ですが、たとえば部屋がこんなに散らかって片付けられるまでの間、まったく気づかないほど、長い期間を家をあけてはいるはずはない。間違いありませんね」
僕は取って置きの写真を、女の目の前に差し出した。
僕が今通されているこの部屋で撮った写真だ。僕と兄さんが、酒瓶を散らかして飲みながら、自分取りしたものだった。
「そうですね、私が記憶する限りでは。アキラから聞いたんですか?」
「はい。それと写真に写っている、部屋の隅のこのくまのぬいぐるみは、あなたが旅行に行かれる前日に、兄さんが買って来たものだと聞いています」
「それも間違いありませんね」
「ということは、この写真は間違いなく、貴方が旅行中に撮られたものだ。貴方はそう証言できますよね」
「どういうことですか?」
「実は、一昨日の朝、北海道にある、俺の家の近くで、恋人が殺されたんです。まだニュースにはなっていないけれど。大喧嘩した後で、警察はきっと俺を疑うはずです。でも俺、一昨日の朝に北海道になんていないですよ。そりゃそうです。兄さんとここで酒飲んでたんです。潰れるまで」
思い当たる節があるのか、女はまたもや苦笑した。
「まぁ、アキラは人を酒で潰すのが上手いですからね。本人に悪気はないみたいですが、あれで何人もの女の子をホテルに連れ込んだ、ちょっとした狩りだって豪語してましたよ。それが彼の趣味なんでしょうね。私には流石に手を出しませんでしたけどね。変にもめて、ハウスシェアできなくなったら困るからなんでしょうが。それにしてもアキラは、私がいない間に貴方を呼んでいたわけですね」
「そうです。俺の家の近くは田舎で、交通機関もほとんどなくて、下手な外国よりもたどり着くのに時間がかかるんです。とてもじゃないですけど、貴方の旅行中に東京にいて、一昨日の朝にあのあたりに帰るのは無理なんです」
「つまり貴方は私に……」
「証言して欲しいんです。アリバイを。兄さんにはもう相談しています。でも兄さんは身内だから、裁判では身内のアリバイ証言は参考にされませんから」
「……でもこの写真、最近なら色々パソコンで加工も出来るといいますし、右下の日付もつけずに撮られたもののようですし、本当に正しいものなのかどうか……」
「フィルムがあります。デジタルじゃなくて銀縁で取ったんです」
「いまどき珍しいですね」
「まさかカメラ小僧の趣味が、こんなところで役に立つ日が来るとは思いませんでしたけど」
「趣味は意外な形で身を助けるものですね」
「まったくです。それであの……お願いできますか?」
「そうですね……。ところで、今アキラはどこに?」
「警察に呼ばれてて……俺のことで。でも今日中には戻るはずです」
「今夜私を飲みに連れて行ってくれると約束していましたからね」
「聞いてます。きっと戻ってくると思います。あの……それで、俺のアリバイを証言はしてくれるんでしょうか?」
女は妙に意味深な目で僕を見つめて、少し間を空けてから口を開いた。
「そのヨーグルト、私が寝る直前に準備したものなんです」
「はぁ……? おいしかったですが」
「おいしかったですか? 不思議ですね。こんなに早く発酵するはずないんですよ。今の時期だと丸一日くらいかかるんです」
「!?」
「そういえば、アキラは昔不眠気味で、バルビツール系の睡眠剤を処方してもらっていた時期があったといってましたね。あれ相当強烈な奴ですよね。まだ、あの引き出しの中に残ってるんですよ……えぇ、あなたとグルで私をだまそうとしたアキラが、昨日私の晩御飯に混ぜたんでしょうね。あぁ、昨日ではありませんか。私が昨日だと思っている日は、実は一昨日ですよね? まだ私は日付を確認してませんけれど、この写真、私が睡眠剤で丸一日寝ている間に、つまり昨日撮ったんですよね? 二人で。殺人が起こったのは、一昨日ではなく3日前。ギリギリ来れるんじゃないですか? 昨日には。この家までに」
僕はとっさに彼女につかみかかろうと立ち上がった。
が、どういうわけか足がもつれて倒れこんでしまった。起きようとしても、体が上手く動かない。
「もちろん、私がニュースを見たり、バイト先へ出かけたりすれば、いずれは日数のずれが発覚するでしょうね。それに対してあなたとアキラが何の対策も立ててない、ってことはありえないわね。多分、今晩飲みに行った時に、アキラは私にお酒を大量に勧めて、酔い潰す予定でしょ。そして翌日起きた時に、アキラが何食わぬ顔で私に言うのよね。『君は丸一日起きなかったんだよ。酔いつぶれて一日寝過ごしたんだ。もう二日目の朝だよ』って。これで時間のずれは埋まるもの」
倒れた僕を見下ろしながら、女は淡々としゃべり続けた。
「えぇ、もちろんそのヨーグルトには私も入れましたよ。あの睡眠剤を。変に暴れられても困りますしね。まったく、本当に『趣味は意外な形で身を助ける』ものですね」
彼女が――警察へ通報するためだろう――ゆったりとした動作で、電話の受話器を取り上げる姿をかろうじて僕のまぶたは写していたが、そこで僕の意識は途切れたのだった。