はつゆき
さて、どうしたものか。
散歩をしながら、おれは考えていた。
悩んでいるというほどのレベルではないけれど、課題があることは明らかだ。
まさか、こんな事態に直面するとは思
ってもみなかった。
まったくマチコさんのお人よしにも困ったものだ。
よりにもよって、おれ以外の犬を飼うことにしてしまうとは。
「ねえ、おじちゃん。あっちへ行こう、あっち」
広々とした公園の芝生に興奮しながら、チビが話しかけてくる。きょうはいつもより寒いというのに、やたらと元気がいい。おれは聞こえないフリをしながら、マチコさんの左側をゆっくりと歩く。チビのリードもにぎっているせいで、満足に杖をあつかえていないのが気がかりだ。
目の見えないマチコさんが安全に外を歩いたり、家の中で簡単にリモコンを探せるように、おれがいるのに。やんちゃな坊主と一緒に散歩では、どうしたらいいのかわからない。
でも、マチコさんは、なんだかとても楽しげだ。ぐいぐいと先に進もうとするチビにリードを引っ張られているのに、おだやかに笑っている。実際、マチコさんはとてもやさしい人なのだ。おれはこの人のパートナーになれて、心の底からよかったと思っている。
「あれ? あら? あらら? マチコさん。どうしたの、その子」
ベンチが並ぶ歩道に差し掛かると、ふとそんな声がかけられた。
「あ、その声は川田さんね。びっくりした? この子、チビっていうの。小さくてぷっくらとして、小熊みたいでしょう」
買い物袋をさげた川田さんは、文字通り目を丸くしていた。チビ はしきりに尻尾をふって、川田さんの顔を見上げている。言われてみれば、ほんとうに小熊みたいだ。実際に小熊を見たことはないけれど、きっとチビみたいにころころしているにちがいない。
「おじちゃん、この人だあれ。少しだけ、おじちゃんのにおいがしているね」
こっちを見たり、川田さんに愛嬌をふりまいたり、チビはなかなか忙しい。少し落ち着かせるべきだろうか。おれはチビに向かって、こっちへおいでと話しかけた。
「この人は川田さん。マチコさんの友だちだよ。うちにもよく遊びに来るから、おまえもちょくちょく会うことになるだろう」
「へえ。でも、この人さっきから、こっちをじっと見ているよ。ぼくの顔に何かついているのかな」
チビは川田さんの足もとに鼻先をくっつけ、くんくんとにおいをかいだ。散歩中もしずかにしているおれとは大違いで、えんりょがない。やれやれ、チビを見る川田さんの視線も、びみょうに心配そうだ。それも当然かもしれない。なにしろ、誰がどう考えても、チビは盲導犬の訓練なんて受けていないんだから。
「チビちゃんって。マチコさん、その名前、まんまじゃないの。それにしても、人なつこそうで可愛い子ね。ただねえ、一緒に散歩してあぶなくないの? この子、ふつうの犬みたいけど」
あははと笑ったあとで、川田さんは素にもどった。こんなとき、人間もあちこちに気を配って大変そうだな、とおれは思う。
「あら、そんな心配しなくても大丈夫よ。わたしには、 ユーリーがいるんだし。それにチビは、面白い子なの。わたしが『ペトルーシュカ』を弾くと、気持ちよさそうに吠えるのよ」
マチコさんの仕事はピアニストだ。チビはピアノの音色が好きなようで、マチコさんが練習をしているときは、そばにぴたりと貼りついている。とくに『ペトルーシュカ』の目まぐるしく変わるリズムがお気に入りらしい。その曲がはじまると、チビはゴムまりを追いかけるようにしてピアノのまわりをぐるぐると走るのだ。
マチコさんはチビが好きなんだな、と思う。音楽仲間の家へ遊びに行ったとき、甘えた鳴き声を耳にして、めろめろになってしまったのだ。マチコさんはいい大人なのだが、そんな風にして、いきなり子犬を連れ帰るようなとうとつな行動をとることがたまにある。
さて、どうしたものか。
おれはこっそりと、もう一度つぶやいた。
冬がどんどん深まっている。さっきも、おれは川田さんの足音に気づけなかった。
これは、まいったな。
盲導犬として、おれは少し歳をとりすぎたのだろう。下手をすると、今年の冬が最後かもしれない。注意力がおとろえた盲導犬は、いつか飼い主に迷惑をかけることになる。
柄にもないことは、つくづく考えるものじゃない。
おれの鼻からは、枯れ葉がまう北風のようなさびしげな溜め息がもれていた。
U・x・U U・x・U
川田さんとの世間話をすませて家に帰ると、マチコさんは部屋のヒーターをつけた。
もうじきクリスマスね、とこちらに話しかけながら、コーヒーをいれる。
キッチンにいるときも、おれはマチコさんと一緒だ。コーヒーのいい香りがする。おれはマチコさんが物を落としたりしないか、つねに手の動きを見張っている。
「ねえ、おじさん。なんだか、おかしいんだ」
チビがとなりのリビングで呼んでいた。あまり話しかけないようにとクギをさしているのに、チビはおれとの立場の違いを理解していない。おれはペットではないし、仕事がある。ただ、チビはまだ子供だ。そんな難しい話は、わからなくてもしかたがない。
「おかしいって、何が?」
「えっと、窓の外。今までに聞いたことがない音がしているよ」
ためしに耳をすませてみる。でも、おかしな音なんて聞こえない。夕方をむかえて、窓にはカーテンがかかっていた。おれたちがケンカしていると勘違いしたのか、カップにコーヒーを注ぐマチコさんが、どうかしたのと心配そうな声で聞いてきた。
「今までに聞いたことがない? たとえば、それってどんな感じだ?」
「え? おじさんには聞こえないの? 小さな音がたくさんするんだ。でも、こわい音じゃないから、安心して。やさしくて、ふわっとしているんだよ」
「ふわっと? おまえ、そんなのが聞こえているのか?」
「綿が落ちてくるみたいな音なんだ。どうして、おじさんには聞こえないのかな?」
「なるほどな。その音が何なのか、だいたいわかったよ。そう言えば、きゅうに寒くなってきたものな」
コーヒーカップを手にしたマチコさんが、リビングのテーブルに腰かけた。じっと耳をすませたあとで、あら雪かしら、とつぶやいた。ずっと遠くで走っている車の音も、シャリシャリシャリといっている。今なら、おれにもわかる。外では、この冬はじめての雪がふりはじめたのだ。
「ほら、おじさん。聞こえない? ふわっとしているよ。なんだか、楽しそうだね。ぼく、もう一度散歩に行きたいな」
「ああ、あれは雪がふっているんだ。そして、おまえは空から冷たい雪のふる音を感じ取れた。なあ、チビ、おまえに頼みがあるんだけど、聞いてくれるかな?」
一呼吸おいてから、おれは切 り出した。耳が遠くなった盲導犬は、飼い主を完全に守ることができるのだろうか。マチコさんも耳はいい方だけれど、外を歩けば思わぬ危険と出くわすことだってあるはずだ。
「頼み? めずらしいね、おじさんがそんなことを言うなんて」
「たいしたことじゃない。けれど、大事なことなんだ。もし外を歩いているときに、おかしな音を聞いたら、すぐに知らせてくれないか。自転車の急ブレーキの音、誰かがこっちへ走ってくる音、ビルから何かが落ちてくる音。なんでもいい。そんなものが聞こえたら教えてほしい。そうじゃないと、マチコさんがケガをする かもしれないんだ」
へえ、と小さく声をもらすと、チビは真剣な表情でおれの言葉を繰り返した。
「あぶなそうな音がしたら、すぐにおじさんに知らせるんだね。そうしないと、おばちゃんがケガをしちゃうから」
「そのとおり。マチコさんがあぶない目にあったら、餌をもらえなくなるかもしれない。そうしたら、おまえだって困るだろう?」
うん、と明るくうなずくチビの顔をおれはぺろりとなめた。
考えたら、ほかの犬の顔をなめるなんて久しぶりのことだった。どうしてそんなことをしたのだろう。じぶんでもわからないけれど、勝手にからだが動いてしまったのだ。
マチコさんはふいに立ちあがり、ピアノの前に座った。『サンタクロースがやってくる』のにぎやかなリズムが、部屋の中ではねている。
さて、どうしたものか。
ふだんはしない無駄吠えをすると、マチコさんが驚いたようにこちらを振り向いた。
「あら、ユーリー、どうしたの? あなたが、そんなにうれしそうに鳴くなんて。ケンカをしていたんじゃなかったのね」
おれは床に伏せると、ピアノの調べを聴きつづけた。チビは、まだ頼りない。でも、むかしはおれもそうだった。
「チビ、テーブルの上にのっているあの細長いのはリモコンだ。マチコさんが探しているようだったら、わたしてあげるんだ。ごほうびに、ビスケットがもらえるかもしれないぞ」
盲導犬は人間から訓練を受けるけれど、それだけがすべてじゃない。これからは、おれたちはコンビだ。もう一度、おれはチビの顔をぺろりとなめた。
初雪が何かを祝福するように、しずかに音をたててふっている。鍵盤の上では、マチコさんの指が小鳥みたいに軽やかにおどっている。
メリー・メリー・クリスマス。
少しはやいけれど、おれは心の中でそっとつぶやいた。