狼男と雪女の秘密
ふわふわの泡が、お風呂場の窓から差し込む夕陽でピンク色に染ま
っている。あたしは楽しくなって、さらにお湯をかき混ぜて泡を作る。
勢いがよすぎて、バシャッとパパの顔にお湯がかかってしまったけど、パパは笑いながら手で顔を拭っただけだった。あたしは両手に泡を集めながら言った。
「テレビで見たのと一緒だね。体もお湯の中で洗うの?」
尋ねると、パパは曖昧に頷いてみせた。
「そうだと……思う」
「頭もこの中で洗うの?」
パパは困惑の表情を浮かべた。
「……どうだろう? でも、外国のお風呂って洗い場はないから、多分、そうなんだと思う」
「ふぅーん」
あたしは泡を吹いて飛ばした。ちぎれた泡がひらひらと舞い散る。とってもいい匂い。
「さて、そろそろ体を洗おう。スポンジがいいらしいんだけど、うちにはないから手の平で洗えばいい」
「背中は手が届かないよ」
「パパが洗ってあげるさ。さぁ、後ろを向いて」
パパの大きな手が、やさしく丁寧にあたしの背中を撫でる。くすぐったくてあたしは笑い声を上げた。
やわらかな光が差し込む、早い時間のお風呂があたしは大好きだった。
あたしはシャボン玉を作ろうと指で輪っかを作って、静かに吹いた。
だけど、うまくシャボン玉は作れなくてすぐにパチンと弾けた。
晩御飯のあと、小学校一年生の女の子が連れ去られたというニュースをテレビでやっていた。近所のスーパーに行っていて、母親が少し目を離した隙にいなくなったらしい。
あたしはジュースを飲みながら、そっとパパを盗み見た。パパはじっとテレビを見たまま、とても、怖い顔をしていた。
「今まで大事に育ててきた娘がさらわれるなんて、ひどすぎる。たった一つの大切な宝物を、自分勝手な理由で奪われるだなんて、ひどすぎる。それならばいっそ、目の前で殺されたほうがいい。あきらめがつくから」
その言葉にあたしは驚いて、真っ直ぐパパの顔を見た。
死んでいるより、生きている方がいいに決まっている。どうしてそんな怖いことを言うのかわからなかった。
あたしの視線に気づいたパパは、乱暴にティッシュを掴んで鼻をかんだ。
テレビに目を戻しながら、あたしは何も言わずにジュースを飲み干した。テレビの画面は、明るい音楽の流れるCMに変わっている。
「ママがいなくなったとき、パパは決めたんだ」
唇にコップをあてたまま、あたしは再び横目でパパを見た。パパは少しうつむいて、真面目な顔をしていた。
「絶対に、里美を守ってみせるって。少しでも多くの時間を、里美と一緒に過ごそうって。だから、少しお給料は下がってしまったけど、今日みたいに日曜日は必ず休めることが嬉しいんだ」
「うん……」
あたしは頷いて、パパの方を向いた。パパも顔を上げてあたしを見た。
少し鼻の頭は赤かったけど、もう、いつもの、やさしいパパの顔に戻っていた。
冷たい布団の中に入り込む。
パパの乾いた手で体中を撫でられるのは、とても気持ちがいい。パパもあたしも裸で寝るのがお気に入りだった。
あたしは大きく伸びをして、仰向けになった。
カーテンを開けた窓から外の光が差し込んで、薄明かりの中、ひじ枕をしたパパの顔が見える。静かで、やさしい顔だった。
あたしは安心して大きく息を吸い込み、それから目を閉じた。
低い唸り声で目が覚めた。目を開けると、まだ窓の外は暗くて夜だとわかった。あたしはパパを見た。
「パパ? どうしたの? どっか痛いの?」
布団の中で体を丸めて向こうを向いていたパパの背中が、凍りついたように動かなくなった。あたしは心配になって、起き上がろうと手をついた。
「パパ?」
「――こっちを、見ないでくれ」
かすれたような小さな声で、パパは言った。
「パパ?」
あたしは怖くなった。
「大丈夫だから、ちょっとだけ、動かないでそのままでいて」
こっちを向かないまま、パパは言った。怖かったけど、あたしは覚悟を決めた。
「パパ、変身するの?」
パパの背中が小さく動いた。わずかに首を動かして、肩越しに横顔を見せる。
「……へんしん?」
横になったままあたしは頷いた。
「だって、今夜は満月でしょ? 満月の夜は、狼男は狼になっちゃうんだって。……パパ、狼男だったの?」
「…………」
あたしは急いで言った。本当は狼男なんて、作り話だってわかってる。でも、知らない振りをして大真面目に言ってみせた。
「でも、狼男でもいいよ。パパが狼男でも、あたし、いいから」
張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ気がした。ようやくパパの横顔に、笑みが浮かんだ。
「里美はいつも面白いことを言うなぁ。狼男に変身だなんて、なんで思ったの?」
「教室にあった本に書いてあったの。狼男は満月の夜に変身するって。それでね、銀の鉄砲の弾じゃないと死なないんだって」
パパは低く笑い、体の向きを変えて腕を伸ばした。そのままあたしを胸に抱え込む。パパの体は熱くてちょっと汗の臭いがしたけど、それは嫌な臭いじゃなかった。
「パパは里美になら、鉄砲で撃たれてもいいよ」
「撃たないよ」
あたしはパパの顔を見上げた。薄明かりの中、パパの顎に短い髭が生えているのが見えた。
「だってパパが狼男なら、あたしは狼男の娘だもん」
「そうだな」
小さく笑ったパパはあたしの頭を撫でた。
あたしは指を伸ばして、パパのザラザラした髭を撫でながら言った。
「そして、ママは雪女だったんでしょ? だってママの名前は雪だったんだから」
雪女も作り話だって知ってる。でも、パパをもっと笑わせたかった。
パパはあたしの髪を撫でながら頷いた。
「そうだったのかもしれないなぁ。ママも里美と一緒で、色白だったし」
「雪女だったから、いなくなったの?」
「お話では、雪女はどうしていなくなったんだったっけ?」
あたしの頭の上で、パパは尋ねた。真夜中に聞くパパの声は、いつもと少し違う気がした。
「秘密を話したからだよ。誰にも言うなって言ったのに、昔、お前みたいなきれいな女に会ったことがあるって、言っちゃったんだ」
「……そうか。秘密を話したからか……」
パパは呟くように言って、あたしをもっと強く抱き締めた。
――そんなパパが、あたしは大好きです。四年二組、○○里美」
作文を読み終った後、あたしは気付いていなかった。先生の顔がかすかに引きつっていたことに。
数日後、男の人二人と、一人の女の人が家に来た。
男の人達がパパと話している間、あたしは隣の部屋で女の人に色々聞かれていた。
ママはいつからいなくなったのか。学校から帰って、パパが家に帰ってくるまで家で何をして遊んでいるのか。寂しいことはないか。いつもお風呂は誰と入っているのか。寝る時はどうやって寝ているのか。
女の人は口に笑みを浮かべて、でも、眼鏡の奥の目はとても怖くて、あたしはほとんど返事ができなかった。
その人達はその後も何回か家に来た。そして、別の人も家に来るようになって、それから、パパはどこかに連れて行かれた。
あたしは知らない子供がたくさんいる、白く大きな建物に連れて行かれた。
――パパは悪いことをしたんでしょうか。
――終――