ストック・マーケット 作:◆veZn3UgYaDcq氏
だいぶ昔の話になるが、初めて学校で「株」について習
ったとき、俺はずいぶん混乱したことを覚えている。決して内容が難しかったからではない。むしろその逆―俺にとっては当たり前すぎる内容だったからだ。会社の価値が株価という形で上下するなどということは、人間の価値の決まり方と全く同じじゃないか。そう思ったが、世間一般ではそうは思われていないようだ。
人の「株価」が見えるのは、どうやら俺だけらしい。
俺、北岡直樹が人の「株価」が分かるのは子供の時からずっとだった。誰かを見ていたり、その人のことを考えていたりすると、なんとなく数字が浮かんでくる。それがその人の「株価」である。誉められるようなことをすれば株価は上がり、まさに「株が上がった」ことが分かるのだ。そのことには幼少期から気づいていたような記憶がある。また、株を「買う」ことで他人を評価したり持ち上げたりできるし、もちろん買った株を「売る」こともできると、ある時から分かってきた。もちろん自分の今の株価だって分かる。この能力で、俺は今まで人間関係を上手く保つことに使ってきた。誰だ誰をどう思っているか、というような具体的なことまでは分からなくとも、相手の価値や自分への周りの評価がストレートに分かれば上手く立ち回れる。もっとも、人を数字で判断する癖のついた俺には、愛だの友情だのいうような感情はやや希薄だったかもしれない。とはいえ、気のおけない友達もいるし、子供こそまだいないが結婚もしている。妻への愛情が株価とは関係ないとも確信している。
「最近、帰り遅いよね」
妻の佳織が口を開く。棘の無い言い方から、別に怒っているというわけではないようだ。
「ちょっと、仕事でさ。企画のコンペが近くて」
「ふうん」
共働きだが、佳織は普通のOLではなく図書館の司書だ。いまいちこういった会社の話は伝わりづらいことがある。それに、お互い普段からさほど仕事の話はしない。あえて干渉しないほうが良いというのが俺たちの共通認識だった。
「直樹、いつごろまで忙しいの」
「来月の頭までくらいかな。それさえ終われば結構余裕あると思うけど」
「そっか」
俺が忙しかったのは、単純に企画会議の準備のためだけではなかった。今回のコンペティションの相手は、1年後輩の藤林という男である。初めて会った時からいけ好かない奴という印象であったが、佳織とは藤林を介して知り合ったこともあり何となく付き合いは続けていた。だが、藤林の狡猾さ、女性への態度、そして俺を含む周りの人間への陰口―そういった要素全てが鼻についた。そして、先日藤林が不正に関わっているという噂を聞き、彼への不信感が決定的になるとともに、邪な考えが首をもたげてきた。
人の株価をどの程度操作できるのか?
ずっと気になりつつも、実践するのは倫理的に許されないように思えていたことだ。どうせ不正が明るみに出れば、藤林の株は下がる。ならば多少は俺が人為的に介入しても問題はなかろう。俺が考えているのは、サブプライム問題の時に投資家達が行ったように、藤林の「株」を俺が大量に空売りすることで、株価を急落させられるのではないか?ということだ。あるいは空売り後、不正が明るみになれば差益を受けられるかもしれない。もっとも、この利益とやらが何なのか、俺には分からないのだが。
計画はコンペ前日。奴を売り、最後に不正を告発する。そのための準備を怠るわけにはいかない。
コンペティションの前日、俺は温めてきた計画を実行に移した。とはいえ、具体的に行動する必要はまだない。藤林を思い浮かべると、彼の株価が漠然と浮かび上がってくる。そして、藤林を「売る」イメージを持つ。それだけで売買取引は完了だ。大量に藤林が「売られて」いくさまは、俺にある種の優越感を感じさせた。しかし、ある時から異変に気付いた。藤林の株価がほとんど変化していない。まるで誰かが大量に藤林を「買って」いるような感覚が得られた。あの野郎、どこでそんなに評価されているんだ?そう思いながらふと自分のことを考えると、愕然とさせられた。
俺の株価が急落している。
これといって、近頃問題を起こすなんてことは特になかったはずだ。しかし、これほど急激に株価が下がるなんて、中学時代に優等生のクラスメイトが放火未遂を行ったときくらいしか見たことがない。俺が高校受験で第1志望に落ちた時も、部活の大会でミスをしたときも、これほど株価が下がったことはなかった。今までに感じたことがないような焦りの中、最後の切り札―藤林の不正の証拠となる書類を取り出した。
それを見て、俺はさらに愕然とした。確かに藤林の名前が書かれていたはずのその書類に、何故か俺の名前が印刷されている。しかし、鍵付きの引き出しに閉まってあった書類をすり替えるなんてできるのだろうか?しかも取引先の捺印までそっくりな書類を用意するなんて……。俺の混乱した頭は、この書類のために自分の株価が暴落したのだとは考えることができなかった。むしろ、株価が下がったせいで、俺の置かれた状況が悪化したかのように思ってしまった。
コンペにはあっさり負けた。こんな精神状態でまともなプレゼンができるわけもないし、上司たちも俺を見ただけで顔をしかめているような感覚があった。被害妄想かもしれないが、株価の低い人間がこういう扱いを受けるのは、俺から見れば世の常だ。自分のデスクでうなだれながら、あの名前の入れ替わった書類についてぼんやりと考えていた。
「トレーディングは難しいでしょう」
後ろから藤林の声がした。
「トレーディング?」
「ええ。北岡さん、株の取引、やってますよね?」
「株?……いいや?」
「とぼけなくていいですよ。北岡さんの株もずいぶん下がってしまいましたね」
そう言われて、ようやく藤林が何のことを言っているのかが理解できた。こいつは「人の」株取引の話をしているのだ。しかし、俺以外が、どうしてそのことを知っている?隣りを同僚が何食わぬ顔で通り過ぎていった。確かにこの会話を聞いただけでは、藤林が皮肉を言っただけに聞こえるもんな、と頭の片隅で考えていた。
「そりゃあ、お前にコンペで負けたわけだ。周りの評価だって少しは下がるさ」
「少し、ならそうかもしれませんけれど」
藤林の声が僅かに鋭くなったように感じた。こいつは確かに俺の「株価」が暴落したことを知っている。いや、もしかすると、それ以上に―
「まさか、お前……?」
「僕一人でそんなことができると思いますか?B・N・Fみたいな個人投資家が『この市場』にも存在するというなら別ですけど、人に人を売り買いするのは限界があります。元々北岡さんを『買っていた』のなら別ですがね」
「どういうことだ?協力者でもいるというのか?」
「そう推論するのが自然でしょう」
「誰だ」
「誰だと思います?」
「さあ……」
「……このままいくと上場廃止は免れないでしょうね」
まるで独り言のように藤林がつぶやいた。上場廃止。通常の株式市場ならその意味は分かるが、俺という人間が「上場廃止」されるとはどういう意味なのか、見当もつかない。いや、見当をつけることが恐ろしすぎる、といったほうが正確だろうか。脳が考えることを拒否していた。全身の震えが止まらない。
藤林の口角が僅かに上がったのが見えた。きっと邪悪な表情をしているのだろう―その予想は確認しなかった。目を見ることさえ怖かった。
「不正の件、大変ですね。株価が下がって、北岡さんも辛いことが増えるでしょう」
何気ない一言が、俺に確信を与えた。周りの評価が下がったから株価が下がったのではない。株が下がったことで俺を取り巻く世界が変わったのだ。
「どうします?私に助けを乞うこともできますが」
「助け?」
「交換条件を持ちかける、と言い換えてもいいでしょうか。あるいは、人を陥れようとしたその悪意の償い、と呼んでも構いません。そうですね、まずは協力者が誰なのか、ということですが、もう察しは付いているんじゃないですか」
「……まさかとは思うが、佳織、か」
「当たりです。まあ、一番北岡さんの株を持っている人物ですから、大量に売ることも可能なわけです」
ということは、佳織は俺を裏切り、藤林と結託して破滅に追い込もうとしたということだ。俺が空売りした藤林の株を、佳織は俺を売った資金によって買い支える。まるで経済小説のようなシナリオだ。それが何を意味するのか?藤林は俺にどんな取引をさせようとしているのか?無論、それは単なる株式市場に介した取引よりも何か血生臭いものであるだろう。俺はきつく目を閉じた。
「それでですね、北岡さん、あなたの株を釣り上げて差し上げる条件として―」