或いはそれが禍福という物の終着点だろうと君は言わなかった
「お客さん、終点ですよ」
声をかけられて、は
っと目を覚ました。仕事帰りの電車の中で、いつのまにか眠っていて降りる駅を過ごしてしまったのか。そんなまれによくある状況を想像したけれど、ねぼけた頭がはっきりししてくるにつけ見えてきた光景はどうも違うらしい。
僕はタクシーに乗っていた。
そして声をかけてきたのはタクシーの運転手だ。
ここはどこだろう。夜。街。街灯は夜に抵抗すれども暗さから逃れることはできず、時折、通る車がかろうじて世界を一瞬照らしていた。
「お客さん、終点ですよ」
運転手はまたそういった。
タクシーに終点なんてあるのだろうか。僕が告げた目的地、たとえば僕の家だとかあいつの家だとか、まあもしくはせいぜい会社であるだとか、そんな場所に連れて行くのが仕事だろう。
「ここどこですか?」
僕がどこに行きたいと告げたのかは思い出せない。
「お客さん、終点ですよ」
運転手は相変わらずそう繰り返した。ただ今までと違ったのは、窓の外の看板を目でしめしたということだった。
—— 終点 ——
暗い世界にかろうじて浮かんでいる木製の看板にたしかに『終点』と書かれていた。大きなゴシック体で。
僕は不機嫌な運転手に、これ以上の不満をためないように、言われるがままの金額を支払ってタクシーから降りた。ほんとうならば「勝手にこんなところに連れてきて」という不満を浮かべるのだろうと思うのだけど、今は不思議とそんな気持ちにはならない。もしかしたらまだ寝ぼけているのかもしれない。フェードアウトするように暗闇に走り去ったタクシーからこの場所に取り残された僕は、運命に導かれた勇者によってはじめて殺されるためだけに生まれたかよわいモンスターのように、わけもわからずに『終点』という看板の前に立っていた。
なにかのお店だろうか。バーもしくは飲み屋のような。
看板の横にある重い金属の扉を開いた。
「あっ」
黒猫が僕の開けた隙間に忍び込むようにして建物の中へ入った。僕も遅れて黒猫に続く。中はすぐ地下への階段になっていた。階段は暗く長く、先陣を切って行った黒猫はもう見えない。ゆっくりとゆっくりと階段を降りていく。階段はやけに長く感じられた。もう三階分ぐらい下りているような。折り返すような構造でもなくひたすらまっすぐ地下へと潜っていくので、建物の地下を超えて、道を越え、さらに別の建物の地下へと進んでいるのではないかとすら思えた。
僕は酔っているのだろうか。
だからタクシーで眠ってしまった。
そしてこんなわけのわからない場所を歩いている。
どこに着くのだろう。
どれだけ進めば着くのだろう。
そんなことを考えて、ふと笑う。『終点』の終点が見えないなと。
それでもやはり不思議な気持ちで、帰ろうとか戻ろうという気持ちは少しもわいてこなかった。ひたすらに『終点』を見てみたい。そんな気持ちばかりが僕の足を動かしていた。
一時間は経っただろうか。
僕の体は疲れ果て、だけど進みたい気持ちがあり、悲鳴のような不協和音を奏でていた。
あの黒猫もずっとこの階段を降りているのだろうか。
それともどこかで気付かないうちに追い抜いてしまったのだろうか。
『終点』への階段は暗く、端のほうで眠っていたならば気付かなかっただろうな、と思う。けれど、僕がそんなことを思ったのを見過ごしたかのように、黒猫が僕の前に現れた。
一声鳴き、顔を舐め、僕の足下へ。それから触ろうと伸ばした僕の手を交わして、来た道を引き返し、華麗なジャンプで階段をのぼっていった。
僕の伸ばした手は虚空を切った。
それは今、触れなかったことばかりではない。
ともに『終点』を目指していたと思っていた者が、何事もなかったかのように帰って行ったのだ。僕は宙で手持ちぶさたになった手を引き戻す。無意識に首元を掴み、僕自身の脈を感じた。
疲れ果てた足が気絶したように力を失い、膝から崩れ落ちる。バランスを逸した僕は階段を少し転がるように落ちていき、そして止まった。
階段が終わったのだ。
平たい地面が僕を受け止めてくれた。
転がった際に打ち付けた体から痛みを感じていたけれど、そんなことよりもあの長い階段が終わったことに僕は心からの感動を覚えていた。こんな達成感はいつ以来だろうか。仕事でこんな気持ちを味わったことはない。受験で目的の学校に受かったとき? 否、受験だってそれほどではない。こんなうれしい気持ちはもしかするとはじめてではないだろうかと思えた。
僕は子供のように走りだした。
もうすぐ『終点』だ。
どんな世界が僕を待っていてくれるだろうか。
暗闇の奥に扉が見えた。
質素だけど、年期と雰囲気を感じるたたずまい。
足を止めて、スーツにこびりついた埃を払う。
取ってを握り、ドキドキしながら、扉をあけた。
カランカラン。
チャイムが鳴り響く。
僕の目にまぶしいばかりの光が飛び込んできた。
びっくりして目を瞑り、少しずつ慣れていき、まぶたの上からの白い光を受け入れて、ようやっと目を開いた。
—— 終点 ——
一畳ほどしかない行き止まりの部屋のまっしろな壁に『終点』の二文字が大きく黒いゴシック体で書かれている。僕は壁をなんどもさわる。僕はなにかしかけがあるのだろうと小さな部屋を探し回った。黒い『終点』の文字に指をはわせたり、しゃがみ込んで隙間を探したり、飛び上がって天井をさわったり。
だけども何もなかった。
ただ『終点』の二文字が書かれただけの部屋だった。
ほんとうにただの『終点』だった。
それだけの……。
終わり。
終点。
零。
。
<了>