【BNSK】月末品評会 inてきすとぽい season 2
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愛と装いを混ぜ込んで
投稿時刻 : 2014.04.30 12:08
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愛と装いを混ぜ込んで
ほげおちゃん


 本屋で参考書を買た帰り道、アイツに遭遇した。最悪だ。
 女の人を連れていた。私より背が低い。そのくせ意外と胸があり、まるでCMの人みたいな綺麗な髪をしている。
 誰だろうこの人。
 アイツが口を動かした。「よう」て言てる。
 なんだよ、「よう」て。そんなこと家で一度も言たことないじない。
 私が無視して歩いていると、アイツと女の人も後をついてきた。
 どうしてついてくるの?
 そりアイツと私は同じ家に住んでいるんだから仕方ないかもしれないけれど……どうして女の人までついてくるの? もしかして家に連れ込むつもり? 勘弁してよ!
「ねえ奏(かなで)くん、知り合い?」
 意外と、見た目よりは図々しい女の人の声が聞こえてきた。
「ええ、妹?!」
 エミリーの歌声に、悲鳴のような甲高い声が差し込んでくる。
「奏くん妹がいるなんて聞いてないよ!」
「どうして言わないの?」
「私はリーダーなのよ。メンバーのことはちんと把握しておかなき!」
 うるさい。うるさいうるさい。
 どうしてこのヘドホンはあの人の声をキンセリングしてくれないの? アイツの声はシトアウトするくせに――
 私は駆け出した。逃げているみたいで嫌だたけど、それ以上あの場所にいたくなかた。
 結局アイツはあの人を家に連れ込むことはなかた。どうやらそういう関係ではないみたい。毎日でもないみたいだし。
 次にふたりを見かけたとき――警戒していたから鉢合わせする前に道を避けたのだが、女の人が肩にギターケースを担いでいることに気がついた。あの人がバンドのリーダーなんだ。アイツ、高校に入てからしばらくして軽音楽部に入て聞いていたから。この目で見るまで本当に活動しているのかどうか信じられなかたけど……女の人と一緒に、バンド組んでいるんだ。ふーん、別にどうでもいい。けど、不潔て気がする。ふつう男子と組むんじないの? 本当にアイツは何を考えているのかよく分からない。

「ねえ楓」
「なに?」
「うわ、機嫌悪い」
 翠が両手を顔の前でぎとして、怖がるふりをする。
「別に機嫌悪くない」
「ウソ、氷の女王様みたいな目をしているよ」
「氷の女王様なんて見たことないくせに」
 私がそう吐き捨てると、翠はやれやれというポーズをする。
「また弟くんのこと考えていたの?」
「考えてない!」
「ウソ。だて楓が機嫌悪くなるのて、いつも弟くんのことばかりじない」
「別に機嫌は悪くないし、アイツのことだて考えてない」
 私は翠の顔から目を逸らしそう言うと、わざと音を鳴らして席から立ち上がた。
「どこに行くの?」
「移動教室。だから呼びに来たんでし?」
 午後は二時間連続でパソコンの授業だたのだ。
 教室を出て、翠と並んで廊下を歩く。
 道行く道を人が避けていた。そんなに私は怖い顔をしているだろうか。
 階段を降りて、中庭に沿たところで四人目の男子が道を譲てきて、
「もう、楓。いい加減にしとかないと誰も相手してくれなくなるよ?」
「え?」
 ドキリとして顔を横に向けると、翠が眉をへの字にしていた。
「せかく可愛い顔しているのにさあ……男子たち誰も怖がて楓に近づかないじない」
「なんだ、そんなことか」
 本当にそんなことだた。
 だけど翠はその反応に不満なようで、
「『なんだ、そんなことか』じないでし! 私たちもう高校二年生なんだよ?」
 しかも秋! と翠は付け加える。
「今どき中学生どころか小学生で付き合ているのも当たり前なんだから! どんどん周りに乗り遅れちうよ?」
「別に乗り遅れても……
「何言ているのさ! そのうちに花の高校生時代は過ぎていき、大学生、社会人……終いには三十路に四十路になて一生独身で過ごすことになるんだよ? いいの? それで!」
「いや、それはさすがに嫌だけど……
 さすがに私でも一生独り身で過ごすつもりはない。何がさすがなのか分からないけれど。けど将来「これ!」という人に出会えたとしたら、私は躊躇なく添い遂げるつもりだ。そんな人現れるかどうか知らないし、恥ずかしいから絶対に口にしないけど。
「じあもとこちからアクシン起こさないと! 楓は有名人なんだよ? 陸上界のホープなんだよ? みんなが話しかけやすいように下に降りてあげないと」
「うるさいなあ。そういう翠だて彼氏とかいないんでし
「たしかに今はいないけど! 楓と違て恋愛経験ゼロじないから!」
「え……
 私は言葉を失た。
「み、翠、付き合たことあるの……?」
「おお、意外そうだなあ楓さん!」
 翠はトレードマークのポニーテールを揺らして、まるで舞台役者のように大袈裟に言た。
「お仲間だと思ていたでし? 残念でしたー!」
「ち、ちと待てよ!」
 思わず縋り付くように言てしまた。
「ウソでし? だて翠、今までそんなこと一度も言たことないじない」
「聞いてこなかたからね」
「聞いてこなかたから……
 あけらかんと言う翠に唖然とする。
「だて楓てそういう話好きじなかたでし? だから言い出しにくかたんだよ」
 う、と唸りそうになた。たしかに私が翠の立場なら言い出しにくかたかも……
 けど、けど、
「それなら今だて言わなくていいのに……
「楓さんの頑なさに、翠は少し心配になてきたわけですよ」
 翠が教科書と筆記具を抱え直して、
「楓もそろそろ弟くん離れしなきなあと思ていたわけです」
「なんでそこでアイツが出てくるのよ……
 結局そこに行き着くのか、と私は溜息をついた。
「だて楓、男の子といえばいつも弟くんのことばかり」
「それは、嫌いだからよ」
 言て気分が悪くなる言葉だた。
 嫌い、嫌い。自分に嫌いな人がいるというだけで小さな人間のような気がしてくる。
「けど嫌よ嫌よも好きのうちていうよ?」
 翠にかかればどんな感情も良い方向に向いてしまうらしい。
 話にならない、という風に私は空いているほうの手を振た。
「そんなことあるわけないじん。それにさ翠、勘違いしているけど、私の言う嫌いは無関心の嫌いだから。別にアイツが何してようがどうでもいいの。気に障ることをしてこなければね」
「気に障ることて、例えばどんなこと?」
「例えばアイツさ、この前……
 ハとする。
「翠!」
「いや、今のは私悪くないと思うんだけど……
「うるさいうるさい。もうアイツの話なんて金輪際口にしないで」
 私はそう吐き捨てて足早にパソコン室へ急ぐと、背後から翠の溜息が聞こえた。
 もう知らない、翠の横顔だて見ない。
「ねえ、楓ちんの弟て青葉高校に通ているんだよね?」
 しかし私が翠から離れても、アイツの話題は私から離れてくれなかた。どうしてアイツは今日に限てこんなにも人気なのか。
「あのね、実はお願いがあ……
 パソコン室に入てすぐ、私に話しかけてきたメガネの女の子・仁科さんは何故かモジモジしていた。いつもモジモジしているけど、そのモジモジに不穏さを感じてしまうのは何故だろうか。
 ああ、もう。
「ムリムリ。楓、弟くんのこと嫌いらしいよー?」
「別に嫌いじない!」
 言たことに気づいて口を塞いだのだが時すでに遅しで――目の前には驚いて体をビクつかせる仁科さんと、「やぱり」と今にも言いたげな翠の表情。
 顔をモニターのほうに向けてから、
「別に嫌いじないけど、好きでもないていうか……あえて言うなら無関心……
 ポツリと呟いたけど、モニタに映ている自分の顔が情けなくて。
 どことなく気まずい空気になたなあと思ていると、仁科さんが慌てて頭を下げてきた。
「ごめんなさい! 私、そんな複雑だとは思てなくて……
「いや、別に複雑でも何でもないの。ただ無関心というだけで」
「でも……
「本当に何でもないから、ね? ちと最近話してないだけだから。思春期にはよくあるじない、ほら」
 何だか必死に言い訳してしまているけど、私は仁科さんが苦手だ。決して嫌いというわけじないんだけど、彼女は何でもかんでも真剣に取り過ぎるところがある。もう少し翠みたく無神経になてくれてもいいのに……
「じあ弟くんとの仲は悪いわけじないんだ」
 そして無神経の権化たる翠が口を差し込んでくる。
「翠うるさい」
「じあ仁科さん、言てみたら?」
 え? と仁科さんが翠のほうを見る。
「だて仁科さん、楓にお願いしたいことがあたんでし? 弟くん関係のことで」
 余計なことを、と翠をひと睨みするが意に介さず。
 でも、と怯んでいる仁科さんを「本当にそれでいいの?」「ここで逃すと次はないんだよ?」とあの手この手で籠絡していく。頑張れ仁科さん、と私は祈ていたけれど、どうやらそれは違う方向へ向いてしまたようで、
「楓ちん!」と力強く私に向けて声を発したのだた。
「なに?」
「青葉高校て来週文化祭あるでし?」
「え……うん」
 たしかお母さんがそんなことを言ていた気がする。
「だからその、弟くんに頼んでチケトを貰えないかなあ、なんて……
「ええ
 なんだそれは。まさか私がそんなことを頼まれるなんて青天の霹靂だ。しかも仁科さんまで影響を受けて「弟くん」なんて言てるし。
「おおー」と歓声を上げる翠。おい、全てお前のせいだぞ。
「で、楓さんの返答はどうなのですか?」
「どう……
「翠的にこれはナイスアイデアだと思うのですよ。青葉高校の文化祭といえば昔から大々的にやることで有名! だけど一昨年からチケト制になたから遊びに行けなかたんだよねー。だけど楓さんにはその青葉高校に通う弟くんがいた! そうだ! 弟くんに頼めば文化祭に行けるじないか!」
 すらすらと言葉を並べる翠。絶対に知てただろ。
「文化祭行きたいね、仁科さん」
「うん、行きたい……
 仁科さんも乗せられて、何だかそういうモードになてるし。
「ああ、もう!」
 私は全てがどうでも良くなた。

「文化祭、チケト四枚」
「いるの?」
「当たり前じん」
「明日渡すよ」
 そう返されたとき、もう明日なんて来るな、と私は思た。
 どうしてこんな思いをしなきならないんだろう。私のほうが上なのに、上なのに。
 明日もアイツと会話しなきいけないなんてバツが悪いにもほどがある。
 だから私は家の中でずとヘドホンを付けてやた。エミリーの曲を流して。
 エミリーの曲はポプで、パンクだ。
 私は現代音楽には常にポプ性がなければならないと考えている。大衆に受け入れられるポプさと、激しさが一体でなければ――
「楓、食べるときぐらいヘドホン外したらどうなの?」
「今ちうど良いところなの!」
 さすがに日本の食卓とパンクが合わないこは私にも分かていたけど……だけどこの時間が、家の中で最も長くアイツと過ごす時間なのだ。このときばかりは気を抜くわけにはいかない。
 そうして食事を終えお風呂に入た後は、部屋に引きこもりアイツと相対せずに過ごせているけど――本来の目的を果たせていないことは私も分かている。いいんだ、アイツのほうが頭を使えば。私はそんな言い訳をしつつ、机に伏せながら目を閉じて、ヘドホンから流れてくる音に耳を傾ける。曲はセカンドアルバムの中頃に突入していた。エミリーは日本人の歌手と違て、バラードが多いほうじないけれど……いま流れている曲はエミリーらしくないと批判されたけど、反面多くの人にも絶賛された曲だ。私は後者の側に立ている。たしかにエミリーは擦れているけど、それは綺麗さの現れなんだて。今にも壊れてしまいそうなぐらい綺麗だから、擦れるしかなかたんだて私は思ている。歌詞は英語だけど一度調べたことがあて、遠く離れてしまた人を想う曲だ。だからエミリーらしくないて批判されているけど……たまには自分らしさを捨てたくなるときだてあるはずなんだよ。
 私も囁くように口を開こうとして――
 肩に手が置かれたのはそのときだた。
 私は慌ててヘドホンを外して振り返る。
 アイツが、立ていた。
「触らないでよ!」
 言てみたけどアイツは困たような顔をするだけで、私は目を逸らして前を向いた。そして再びヘドホンを被ろうとして、
「チケト」
 ハとして振り返ると、片手でチケトを四枚差し出していた。
「用があるならメールしなさいよ!」
 チケトをぶん取りながらそう言うと、
「いや、したけど」
「え?」
 返てきた言葉に唖然として、ヘドホンのプラグが繋がている先に視線を移す。スマホの通知画面に、アイツの名前が表示されていた。
「もう、うるさいうるさい!」
 ヘドホンから流れてくるエミリーの歌すら煩わしくなり、スマホからプラグを引き抜く。音楽の再生が止まてひどく静かだ。アイツも私も動かず、時間が止またみたいになて、
「もう用は済んだでし。出ていてよ」
「ああ」
 アイツがそう返事して、ドアを開ける音が聞こえて――閉また。
 震えが止まらなかた。中学のころ大会に出場して、体中が自分のものじなくなたようなときに似ていた。あのときはどうした――
 震えを止めるために、深呼吸を一回、二回……
「なあ」
 アイツの声が聞こえて、息が詰まりそうになる。
「まだいたの?」
 思わず振り向いて、アイツと目が合た。水晶玉みたいな瞳をしていた。覗くと私の顔が映て、小さな頃はずと、ずとその瞳を覗いていたのだた。お人形みたいで、双子なのに私とは似ても似つかない。
 私は負けるのが嫌で、その瞳を呪いをかけるぐらいにじと睨んでやた。アイツが先に目を逸らしたので勝たと思た。
「文化祭さ、あの翠て子と行くの?」
「アンタ翠のこと好きなの?」と言てやる。
「いや、別に」とアイツは言て、「楓の友達、その子以外知らないから」
……翠に仁科さん、それに隣のクラスの沢口さんていう子。その三人と行くの」
「そか」
 アイツはポツリとそう呟いて――奏とまともに話したのは随分久しぶりだた。アイツの口から私の名前を聞いたのも。普段はあれだけいがみ合ているのに不思議だた。もしかしたら私が感じていることは大したことないのかもしれないと思い、
「あのさ」
……なに?」
 アイツの言葉に耳を傾けてしまた。
「俺、文化祭でライブやるんだけど」
 それを聞いた瞬間、私の中で熱が引いていくのが分かた。周りの景色の何もかもが熱を失て、考えていることが全部馬鹿らしいと思えるような。
「それて、あの女の人とするんでし?」
「女の人? ……ああ、うん」
 アイツは少し考えたけど、どうやら思い当たたようで、
「行かない」と私は言た。
「私がどうしてアンタのライブになんか行かなきいけないの?」
 何も考えなくたて、そんな言葉が口から出ていく。
「私はアンタのことも嫌いだし、あの人のことも嫌いなの」
 声を出すたびにアイツの顔を見れなくなり、視線を下げてしまう。
「早く出ていてよ」
 私は机のほうに向くと、ヘドホンを被りスマホにプラグを差し込んだ。通知画面にアイツの名前が残ていたけど無視して――クプレイヤーを開いて再生を押せば、エミリーの曲が流れてくる。さきの途中だたけど、巻き戻す気にはならず。机に伏せて目を閉じると、私は完全に外部から遮断された。さきみたいにアイツに肩とか叩かれればどうしようもないけれど、今度は叩いてくることはなかた。エミリーの歌声は、そのうち私を違う世界に誘てくれる。

 ―*―*―*―

「ちんと私のこと応援してね、奏!」
「分かてるよ、楓」
 奏はそう言て私の肩をポンポンと叩いたけど、全然分かていない。
 だて今の私は、緊張で体が崩れてしまいそうなくらい不安なのだ! 湯豆腐で豆腐がぐずぐずになた感じて言えば分かるかな……すんでのところで形を保ているというか、豆腐が無理やり人の形をしているみたい。自分でも何を言ているのか意味が分からないよ!
「大丈夫だて。まだ時間あるでし? いつもみたいに音楽聞いておけば?」
「うん……
 オリンピクのマラソンで金メダルを取た選手がさ、ウミングアプ中にずと音楽を聴いていたらしいよ。楓だて走る前に音楽を聴けば、少しは緊張しなくなるんじないかな。
 奏がある日そんなことを言て、それを聞いたお父さんが誕生日にヘドホンを買てきた。こんな高いのじなくても、普通のイヤホンで良かたのに……だけど実際に使てみると、イヤホンとは雲泥の差だた。イヤホンは耳の中で音を鳴らしているように感じるけど、お父さんが買てきたヘドホンは、まるで近くで本当に演奏しているみたい。高音は伸びがあて低音は広がりがあて、ずと付けていると音楽の世界に吸い込まれそうになるのだけど――このヘドホンには一つ欠点があた。奏の声が聴こえなくなるのだ。ノイズキンセリング機能搭載だけど、危ないから人の声は聞こえるようになているはずなのに……
「奏。手を握て、お願い」
「分かたよ」
 苦笑しつつ奏は私の手を握る。奏の手は私の手よりも大きく、少しだけだけど男の人の手をしていた。前はそんなことなかたはずなのに……目は私は少しキツくて、奏は吸い込まれそうな水晶玉の瞳をしている。その他にも頬の膨らみだとかところどころ違うところがあて、けれど同じ格好をしていれば、私たちは完全な双子だと思われていた。
 今はどうなんだろう。
 奏の横顔を覗いていると、気がついたのか奏が微笑んできて――恥ずかしくなた私は目を逸らして、ヘドホンから流れてくる音楽に耳を傾けた。エミリーの曲だ。エミリーは今年デビした歌手だけど、フストアルバムがいきなり世界で一千万枚売れた。フンは不良みたいだたけど独特で、日本でも真似する人が続出したぐらいだ。カコよくて私も憧れていたけど……何よりも惹かれたのは歌声だた。とても透き通て、泣きたくなりそうな声をしている。何もない崖で海に向かて一人で歌ているみたいに。その声を聴いていると私は一人だけの世界に突入していてしまうけど、今は奏がいた。声は聴こえず、目を閉じているから姿だて見えないけれど。手が繋がている。私が少し力を込めると、ギと握り返してくれる。そうしていると、エミリーが崖で歌ている背後で、私たちふたりだけが体育座りしてずと耳を傾けているみたいだた。日が沈んで、日が昇て、水面に光が反射して、また日が沈んで……
 ポンポン、と繋いでいる手を叩かれた。
「時間だよ」

 競技場に出てみると、やぱり別世界みたいだた。そんなに席が埋まているわけじないのに、周囲をぐると囲んでいる二階の観客席が反り返てきて、押し潰されてしまいそうな圧迫感がある。
 私は昨日、この圧迫感に負けて上手く力が出せなかたのだ。タイムはボロボロ、決勝に残れたのが奇跡なくらいだた。それでも、中学一年生で決勝に残れたのは凄いことらしいのだけど……
 奏の姿を探していると、観客席の一番前でお父さんお母さんと三人でいた。今日は家族全員で応援に来てくれているのだ。手を振てくれているけど、さきまで隣にいたとは思えないぐらい、その姿が小さく見える。ひとりなんだて思う。どれだけ奏がそばにいても、私はひとりで走らなきいけないんだ。
 場内アナウンスが聞こえる。ひとりひとり選手を紹介していく。これがテレビで放送されるなんて嘘みたいだ。私の番になる。声を上げて「はい!」なんて言てしまう。隣の人に笑われた。最悪だ。もう走りたくない。
「楓、頑張れー!」
 声が聞こえた。私がそちらのほうを振り向くと、相変わらず奏が手を振ている。一生懸命というより、微笑むような感じで。
 私は覚悟を決めた。
 銃声が鳴り、スタートした。
 私は一番前に出た。長距離走はペース配分が重要だけど、私は自分のペースで走りたい。後続との差がぐんぐん開いていく。振り返らなくても分かる。
 走ているあいだ、私はいろんなことを考えた。
 奏のことだ。
 奏は私より全然勉強できて、運動神経も良くて、足だて奏のほうが速かた。髪だて柔らかいし、同じ格好をすると奏のほうが女の子ぽかたし、いつだて奏は私の前を行ていた。私はむかし歌手を夢見ていたことがあたけれど、奏のほうが歌が上手だたし。
 だけど中学校入学時に体力測定があり、そのときの長距離走で先生に「すごい記録だ!」と褒められて……先生は陸上部の顧問で、そのまま勧められる形で陸上部に入たのだ。最初は苦しかたけど記録はぐんぐん伸びて、いつの間にか長距離走で奏に勝てるようになた。初めて勝たときのことは今でも覚えている。はしぎにはしいで、こんなに嬉しいことがあるのかていうくらいはしぎ回たのだから。
 いま奏はきと、私のことを見ていた。私はずとずと、奏が活躍する姿を見ているだけだたのに。作文コンクールで奏が賞を取たときだて、先生に褒められているときだて、私はただ見ているだけで、なんで奏だけこんなにも出来るんだろうて。奏の半分でも私に才能をくれれば、きと、きと嫉妬することなんてなかたはずなのに。
 だけど私にだて才能があたんだ。この大会に勝て、勝て、全国大会に勝ち進むんだ。ちんと結果を残したら、そうしたら初めて奏と向き合える気がする。隣に立てる気がする。
 私は走た。無我夢中だた。調子が良い。まるで風に乗ているみたいに体が前に運ばれていく。空気の中を泳いでいるみたいに。誰も追いつけない!
「やた!」
 結局一度も抜かれることなくゴールに辿り着き、勝たんだと思た。振り返ると他の人たちは遥か後方にいた。もしかしてレースはまだ続いている? なんて思たけど、みんなが拍手する音が聞こえて、係員の人に誘導されて、やぱり勝たんだて。
「すごいぞ深山!」
 何か事件が起きたみたいに先生が駆け寄てきて、
「見ろ! 信じられない記録だ!」
 見つめた先の掲示板に表示されていたタイムは、びくりして腰が抜けちいそうなくらいすごい記録だた。
「これだと全国制覇も夢じない!」
 先生の夢みたいな言葉に私は圧倒されて、だけど周りの人もみんな驚いているから、決して嘘じないんだて思て。
 私にもちんと才能はあたんだ。奏にも負けないぐらい、すごい才能が……
 私は本当に腰が抜けた。なんだか涙がボロボロ出てきて、周りに人がいるにもかかわらずわんわんと泣いてしまた。
「おいおい、泣くにはまだ早いだろ。この後には全国大会が控えているんだぞ」
「だて先生……
 奏に、お父さんとお母さんの姿が見えた。観客席から降りてきてくれたみたいだ。
「こんな勝ち方いままで見たことないぞ! すごいじないか楓!」
「あんなに速いのならどうして緊張したりするのよ……
 ふたりとも、お母さんは微妙な褒め方だけど、私が勝たことを喜んでくれているみたいだた。こんなこと初めてだ。
 あとは奏が、私のことを褒めてくれたら……
「奏!」
 思わず私はその名前を呼んだ。お父さんとお母さんが空気を読んで前を開けてくれて、奏の顔が見えて。
 奏は、笑ていなかた。
 表面上は笑ているけど、無理やりそうしている、みたいな表情。
 奏は私の活躍を喜んではくれていなかた。
 そのとき私の中で何かが壊れたのだ。

 ―*―*―*―

 ――嫌な夢を見た。
 二度と思い出したくない。それなのに、お風呂のタイルの間にこびりついているカビみたいに、いつまでも忘れさせてくれない。
 本当に嫌な夢だた。
 昨日よりももとアイツに会いたくなくなた私は、朝早く外に走りに出掛けた。休日で朝練がない日でもちんと毎日走ているけれど、それよりももと早く。書き置きを残しておいたから、みんな心配しないはずだ。
 私が家から持てきたものといえば、スマホとヘドホンだけ。出来る限り身軽でいたかた。エミリーの歌を聴いて走ているときだけは何も考えずにいられる気がする。
 ずと走ていると、いつの間にか朝日が昇ていた。最近は日の出が遅くなり、すかり秋だという感じがする。早朝にジギングを始めてからは、それを目に見えて感じることができる。
 毎日ジギングしているとどうしてもコースが決まてしまうけれど、いつもとは違う道を行くのが好きだた。普段とは違う街並みが見られれば、興味を惹かれて普段よりも速く走ることができる気がする。だから今日は思いきり違う道を進んでやろうと思た。出来る限り遠く、遠くへ――
(さすがに遠くに来すぎちたかな……
 スマホの地図アプリで位置を確かめて思た。これだと家に帰るまでに一時間近くかかる。一時間くらい走るのは平気だけど、ここまで休まず二時間くらい走ていた。ダラダラ走るのは良くないのに。それに水分だて全然取ていない。
 少しぼうとしてきたので近くの公園のベンチに座ると、どと疲れが出てきた。休まないほうが良かたかもしれない。エミリーの歌はとくの昔に二週目に突入している。立ち上がる気がせずベンチに体を預けていると、
「楓ちん?」
 その声が誰だか思い出せていれば、きと知らないふりをしていただろうけど。
 私はほとんど何も考えず顔を上げてしまた。

「いや、あの、本当に結構です」
「そんなこと言て。倒れられたほうが逆に迷惑なんだよ? ささ、飲んじて」
「でも……
 私に声をかけたのはあの人だた。
 アイツと一緒に歩いていた女の人。浅海(あさみ)和音(かずね)さんというらしい。
「奏くんや楓ちんと苗字が正反対なんだよね。面白いでし?」
 そんな風にして私の思考を先回りして言てきたこの人は、私が何故こんなところにいるのかと聞いてきた。家からずと走てきたのだというと素直に驚いて――そこから水分はちんと取ているのかとかそんな話になて、無理やり飲み物を奢られるハメになたのだ。
「ほらほら、早く早く。こうなると私はしつこいわよ? 飲むまでここを一歩たりとも離れさせないんだから」
 寄越されたスポーツドリンクに仕方なく口付けると、体中に水分が一気に浸透した気がした。思ていた以上に体は水分を渇望していたらしい。
「ありがとうございます。あの、どうやてお礼したらいいか」
「別にいいよ? 私が勝手に奢ただけだし」
「でも……
「楓ちて、思ていたより礼儀正しい子なんだね」
「え?」
 思いがけない言葉に声を上げる。
「だて楓ちて、もと怖い人みたいな気がしたの。そしたら結構、こうやて話してくれるんだなあて」
 あなたは思ていたよりフレンドリー過ぎるけどね、と私は思た。
 落ち着いてそうな人という第一印象はとくの昔に崩れていたけれど、いまの浅海さんは髪を後ろで括りポニーテールになていて、幾分スポーな感じだ。弾けるような笑顔で、性格通り明るい人という感じがある。
「どうしても気になるて言うのなら、奏くん経由でお金を返してくれればいいよ?」
「な……!」
 思わぬ言葉にあんぐりしていると、浅海さんは「あはは」と笑た。
 やぱりこの人は嫌いだ。
「あの、ありがとうございました。これで失礼します」と言て立ち去ろうとすると、
「ごめんごめん、待て。お礼の話」
 そう言て私のことを引き留めて、
「少しお話しよう? 私あなたと話したいと思ていたの」
 私が思ていたこととは真逆のことを言た。
 釈然としない気分のまま私は再びベンチに腰を下ろす。
「奏くんに聞いたんだけど、奏くんと楓ちんは双子なんだよね?」
「そうですけど……
 そう答えると、浅海さんは私の顔をじと見つめてきた。眉毛が整ていて睫毛も長く、本当に綺麗な顔をしていて思わずたじろいでしまう。
「たしかに似ているわね」
「え?」
「うん、これは確かに双子だなあて感じ」
「どの辺りがですか?」
 私は素で聞いた。
「リアクシン」と浅海さんは言て、
「困るとすぐ瞼を閉じ加減にして目を逸らすんだ。そういうところそくり」
 私はハとして浅海さんから顔を背ける。
 アイツの癖だ。
 言われるまではきり意識したことなかたけど、たしかに――
「結構ちんと観察できているでし? 奏くんのこと」
 ぼとん、と心の泉に重たくて大きいものが落ちた気がした。再び目を向けると浅海さんは笑ていた。
「浅海さんはどうしてアイツを勧誘したんですか?」
……さすが楓ちん、勘が良いね」
「え?」
 意味が分からず疑問符を口にすると、
「そうだよ。私が奏くんを勧誘したんだ」
 浅海さんは背筋を伸ばして遠くを見つめる。それを見て私の心の泉に、また何か重いものがぼとんと落ちた気がした。
 何だろう、この人。
「ある日中庭を歩いているとね、鼻歌を歌ている奏くんとすれ違たの」
 浅海さんが言た。
「ついつい口をついて出ちたという感じでね。けどそれがすごくサマになている気がしたから、『それなんて歌?』て声をかけてみたの。だけど奏くんは全然教えてくれなくて。押し問答しているうちに、『もう鼻歌のことなんてどうでもいいわ、ウチに来なさい!』て奏くんを誘たの」
 この人が新しい言葉を喋るうちに、私の内に黒い何かがどんどん落ちていく。ぼとん、ぼとん、てひきりなしに音が鳴て。
「けどやぱり、あの歌が何だたか気になるわ。また今度聞いてみようかしら」
「浅海さんは今年で高校卒業ですよね」
 とにかくこの人の言動を止めたいと思て、私はそんなことを口にした。
「私と奏はいま、二年生だから。アイツとは部活動でやているんですよね。高校を卒業しても続けていくんですか?」
 正面を向いて話す私の前に雀が降りて来て、トントントン、と軽やかなステプを踏んだ。
 私とは関係なしに世界は回るみたいだ。
「続けていくよ。たとえ奏くんがいなくても」
 私はその言葉に思わず引きつけられる。
「奏くんとは関係なしに、音楽関係の仕事に就くのは私の夢だから」
 遠く過去を見ていると思ていた瞳は、未来も見ていたようだた。
「私ね、高校卒業したら音大に行くの」
 浅海さんが両手を頬に当てながら語る。
「推薦が一枠だけあてね? 受けてみたら受かた」
 そのときのことを思い出したのか悪戯ぽく笑て、
「だからね、再チレンジしてみるんだ」
「再チレンジ?」
 その言葉も気になるけれど、もと気になたのは別のことで。
「それて、バンドに関係あるんですか?」
「ん?」
「いや、あの、どう言たらいいか分からないんですけど、大学でやる音楽て私たちが普段聴いているものとは違う気がして。クラシクとか、そちのほうになるのかなあ……
「うん、そち方面だよ」
 あけらかんと浅海さんは言た。
「私中学生まではずとそち方面の音楽ばかりやていてね。またやろうかなて」
「そんな、じあ奏とは全然関係ないじないですか!」
 意味が分からなかた。
 私は睨むように浅海さんを見つめたけど、浅海さんは微笑みの表情を崩さなかた。
……ギターしかやたことない奴が音楽を語るな」
「え?」
 浅海さんの口調がとつぜん変わたので、私は戸惑た。
 何それ、誰の言葉?
「全然有名でもなんでもないネトの書き込みなんだけどね」
 浅海さんは苦笑を浮かべながら口にして、
「ギターしかやたことない奴なんか見識が狭いから、音楽を語る資格なんてないんだて。極論だと思たけど、一理あるなあて思たの。だてテレビの音楽番組を見ても、ボーカルと、ギターと、ベースと、ドラム。だけどそれだけじないよね? キーボードはもちろん、ピアノやヴイオリンだて入れるし、オーケストラを雇たりして。典型的なバンドサウンドて少ないじない。たまにそれを嫌て、『俺たちはバンドサウンドで行くんだー』ていう人たちもいるけれど。けどそれて、他の音もあるてことを知た上でやて意味があると思うんだ。私はリーダーだからね。もといろんな音楽に触れなきいけない。そして曲を作てね、奏くんに歌詞をつけてもらう……て、奏くんがいなかたらて話をしてたんだけ? まあ奏くんがいなくても……けど、勿体無いなあ。奏くんみたいな歌詞を付けてくれる人てなかなかいないんだもの。とても幻想的でね。奏くんが歌うか歌わないかでは曲が段違いで……
 何故だろう。
 もと嫌な人だたら良かた。
 もと、もと、奏のことを利用するだけの人であてくれれば。
 だて、奏のことを好きだてことがこんなにも伝わてきたら、どうすればいいのか……
「楓ちんは、奏くんのことが嫌いなんだよね?」
 ぼとん、とまた大きな音がした。
「多分そうなんだろうて奏くんが言てたから」
 ぼとん、ぼとん、と心が支えられなくなりそうで。
「そうですよ」と私は言た。
「私はアイツが嫌いです。だて、小さいから。つまらないことを気にしたりするから。疲れるんです。アイツといると」
「奏くんは嫌いじないて」
 浅海さんの言葉が、私の心を串刺しにしていく。
「多分嫉妬したから嫌われたんだろうて言てたの」
「アイツはあなたになら、どんなことでも話すんですね」
 私はこの人を睨んで、睨んで、
「聞いてみたら意外と話してくれるよ、奏くんは」
 私はこの人が、わざとこんなことを言ているんだろうと思た。
 傷つけるために……
 なぜ傷つくのか。
「奏くんに言われたでし? ライブに来て欲しいて」
 言われてない。
 そんな悪態も口から出てこなくて。
「私からもお願いするわ。来て、絶対。あなたが知る深山奏と私のバンドの奏くんは、きと違うと思うから」
「浅海さん、あなたは一体何がしたいんですか?」
 初めて浅海さんの顔から笑みが失われて、「分からないよ」と言た。
「だけどあなたみたいな傍にいる人に奏くんが認めてもらえないなんて、私は許せないから」


 ――青葉高校文化祭当日。
「わあー……
「ねえ楓。本当にこの文化祭、チケト制なの……?」
「そんなの私に聞かれたて分かるわけないでし
 そう答えたものの、翠の疑問はもともだ。
 青葉高校は正面玄関から人で溢れていた。これで本当にチケト制なのか。チケト制じなかたとしたら一体どんなことになていたというのか。
「とりあえず皆さん、はぐれないように手を繋いで行動しましう」
「え、それはち……
「さあさあ、早く手を繋ぐのです」
 何故か動じていない絶対敬語の沢口さんに半ば無理やり手を繋がされて、私は重い気持ちを抱えたまま文化祭に参加することになてしまた。
「文化祭といたら食欲の秋、食べ物でし
 そんな翠の食い意地に促されるがままに屋台を回て、四人が同時に声を上げる。
「美味しい!」
「このイカ焼き美味しいですねえ……
「こちの唐揚げもすごくカリカリしてる!」
「焼きそばて当たり外れ大きいんだけど、これはなかなか……
 これがウチの学校の近くにあたら間違いなく毎日買いに行くよ。安いし。
 みんな夢中になて食べているが、仁科さんの食べぷりが物凄い。恐ろしい勢いで食べ物がなくなていく。
 仁科さんてこんなキラだけ?
 まあいいか。繋がていた手も離れたことだし。
「お腹いぱいになたし、遊べるところを回て見ようよ」
「賛成です!」
 そしていろんなところを回てみたけれど、なかなか楽しかた。
 翠は相変わらず屋台のゲームを極めているのかどんどん景品を取ていたけど、仁科さんは私の予想通りに数々の失敗を見せてくれる。沢口さんは分析とかしだして、最もらしいことを言うけれどそれが全然成果に反映されなかたりするし。
 私は私で、まあいろいろやた。うん、いろいろ。私をお化け屋敷に蹴り込みやがた翠だけは絶対に許せない。いつか仕返しする。
「あれ、深山楓さん?」
「え……あ」
 名前を呼ばれたので思わず立ち止まると、私と同じくらいシトカトの女の子が立ていた。
 あれは……
「光井早矢?」
「そう! 覚えていてくれたんだね」
 こちらに駆け寄てきて嬉しそうに手を握た。
 光井早矢。
 中学三年の全国大会で一緒のレースを走た子で、闘争心剥き出しでなかなか手を焼かされた。
「忘れないよ。すごく印象的だたし」
「あはは。そう言てもらえると嬉しいよ」
 ある意味嫌味な言い方でもあたのだが、光井さんはそんなこと関係なく善意でさぱり受け取てくれる。なかなか気持ちの良い子だ。
「ちと楓、その子知り合い? 話についていけないんだけど」
「翠、この子は……
 そして私は三人を光井さんに紹介する。
「ああ、楓が言てたのてこの子だたんだ! レース中ずとくつき回られたて」
「ち、ちと翠……
「あはははは! よぽと印象的だたようだね」
 翠の余計な言葉にヒヤリとする。
 光井さんは全然気にしてないようだけど……実は気にしているとかないよね?
「そういえば光井さんは何故ここにいるの?」
 私は無理やり話題を変えることにする。
「何を言ているのさ。この制服を見てみなよ」
「え?」
 言われて光井さんの全身にあらためて目を向けると……これは青葉高校の制服?
「光井さんて青葉高校の生徒なの?」
「そうだよ。随分意外そうだね」
 だて青葉高校の陸上部はそんなに……
 言おうかどうかまごついていると、遠くから青葉高校の人が光井さんに声をかけてきて、
「早矢ちん、何しているの?」
「竹内さん、旧友と話していたんだよ」
 敵と書いて友と呼びそうなニアンスで光井さんが言た。
「早矢ちんのお友達? 初めまして、私は竹内唯と言います」
 沢口さんとはまた違た感じで行儀良く言われたので、私も思わず「初めまして、深山楓です」と馬鹿正直に自己紹介してしまた。
「深山……
 何かに思い当たたように竹内さんは私の顔をじと見つめて、
「もしかして奏くんの双子の妹さんですか?!」
 いきなり身を乗り出してそんなことを言てきた。
……へえ、たしかに苗字が同じだ。深山さん、そうなの?」
 言われて成る程という風に光井さんが言て、
「違うよ」と無表情で私は言た。
「アイツが弟だから」
「え、でも……
「ち、ちと楓! お邪魔しました!」
 とつぜん翠に連れられて、人のいない場所に連れていかれる。
「もう、何やているの楓!」
 怒られた。
「だ……
「またく。弟くんのことになるとすぐに冷静さを失うんだから」
 本当に、アイツのことになるとなんでカとなてしまうんだろう。さきのはふたりとも悪意があたわけじないのに。
 しばらくして、仁科さんと沢口さんがこちらに向かて走てくる。たどり着いて、すごい息の乱れようだ。
「か、楓ち……翠ち……
「急に走り出すからびくりしました……
「あはは、ごめんごめん」
 翠は簡単に場を取り繕て、だけどふたりは何か言いたげで、
「あの、楓ち……
「聞きたいことがあるのですが……
……なに?」
 このときの私の心は意外と平静で。
 ふたりは深呼吸して息を整えてから、覚悟を決めたように私に向かて言た。
「楓ちん、あなたの弟くんは……
「今日文化祭のライブでトリを務めるバンドの奏くんと……
「同一人物ですか!」
「うん、そうだよ」
 ハモてきたふたりにあさり答えた。
 ふたりの体がぶるりと震え、わあーと歓声を上げる。
「し、知りませんでした……
「まさか弟くんが奏くんなんて……
 もはや仁科さんにとてアイツの名前は弟くんになていたのか。
 しかしふたりまで、アイツはそんなにも有名なのか?
「ねえ、ふたりとも。奏くんてそんなに有名なの?」
「当たり前じないですか!」
 翠の言葉に、当然のように沢口さんが言た。
「去年の文化祭のライブ、ひとりで観客の心を全部鷲掴みにしちたんですよ? 真ん中ぐらいに登場したので後のバンドは鳴かず飛ばずで大変だて聞きました。だから今回はトリなんです! どれだけ観衆を魅了しても問題ないように!」
 想像以上の内容に私は閉口する。
 兵器かよアイツは。
 さすがの翠も「すごいね……」と言葉を失ているようだ。
「というかふたりとも、ようやく合点がいきました」
「へ?」
 翠と私が同時に素頓狂な声を上げる。
「なぜふたりともそんなに冷静だたのかという意味ですよ。このチケトを受け取たときに」
 沢口さんはスカートのポケトからチケトを取り出すと、「ここ見てください」と端こを指差した。
「アルフトと番号が書いてあるでしう」
「書いてるけど……
「え、これてもしかして」
「そのもしかしてですよ!」
 何かに思い当たたかのような翠に、沢口さんがビシと指差しながら言う。
「このアルフトと番号は、ライブのときの座席位置を指定しているんですよ!」
「ええ!」
 こくりと沢口さんの隣で頷く仁科さんを見たが、まだ全然理解が追いついてこない
「い、いや、文化祭のライブにふつう座席指定とかある?」
「ないでし……
「ふたりともまたまた何を言ているんですか」
 そろそろ追いついてきてくださいよと言いたげに、沢口さんが頭に手をやる。
「ただでさえ観客同士の位置取りを巡て問題が起きたことがあるのに、そこに奏くんが参加するとどうなりますか?」
「どうなりますか、……
「とんでもないことになるに決まてるじないですか!」
 沢口さんはそう言い放ち、
「血を血で洗う争いが起きますよ! そうならないように今回のライブでは位置を最初から決めることになているんです。抽選がありましてね……もしかしたらライブを見れないかもしれないんですよ? こんな残酷なことてあります?」
 うんうんと再び隣で頷く仁科さんを見つつ、ようやく理解が追いつく。
 つまりこのチケトは……
「最初から座席指定がついた、超プレミアムチケてことね?」
 私の意思を汲んだ翠の言葉に、「そのとおりなのです!」と沢口さんが答えた。
「しかもこの位置、一番前ですよ。正面じないですけど……こんな良い位置を本人から貰えるなんて、もう感謝、感激……
 瞳を潤ませてトリプする沢口さんを見て、ようやく謎が解けたのだた。
 チケトを渡したとき、仁科さんがガタガタと震えて椅子から滑り落ちたこと。
 てんで話したことのない沢口さんが私のクラスまでやてきて、土下座しかねない勢いで私に数多の感謝の言葉を送たこと。
 ふたりともよぽと文化祭行きたいんだなーとか、沢口さんに至ては言葉だけでなく頭まで少しおかしいのかとか思てしまたけれど。
 全て合点がいた。
 一体アイツのどこにそんな魅了があるのかということを除いて。
「楓、ライブ行くの……?」
 別世界にトリプしているふたりに聞こえないように翠が言てきて、
「当然じない」と私は言た。
「一体どれほどのものなのか見てやるの。私はそのために来たんだから」

 ライブが始また。といてもまだアイツの番ではないけれど。
 チケトは本当に、某テーマパークのプレミアムチケト並みにプレミアなものだた。群衆が渦巻くなか、素知らぬ振りして特等席までたどり着ける。
 ライブは講堂で行われるのだけど、下から見下ろす壇上は恐ろしく広く感じた。何より近い。手を伸ばしたら届いてしまいそうで……
 休憩を挟んで二時間半で十組演奏するのだけど、後ろにいけばいくほど演奏時間が長くなるようで、奏が所属するトリのバンドに至ては五曲も演奏するらしい。しかも今回は冒険的で、全部オリジナルだとのこと。
 正直私は、一組目のバンドから度肝を抜かれていた。
「この人たち、メチクチ演奏うまいんじない……?」
「うん……
 ノリノリの沢口さんと仁科さんに置いていかれて、私は翠と話していたけれど。
 私たちの学校の文化祭でも学生がバンドで演奏することはあるのに、それとは全くレベルが違ていた。本気で音楽やてますという感じ。フンだてしかりついているようだし……
「やぱりプロの人たちてこれより上手いの?」
 休憩時間になて、後半への体力回復に努める仁科さんは置いといて、沢口さんに話しかける。
「そうですねー。まあ上手い下手というよりも、そのバンドだけが持ている特別な何かがないといけないですね」
「特別な……何か?」
「そうです。これだけはどのバンドにも負けないていう特別な何か」
 それてやぱり。
「奏くんは、そういう意味では特別です。といても生の奏くんは今日が初めてなんですけどね……本当に楽しみです」
 沢口さんの言葉を聞いて、私はなんだか怖くなた。
 とんでもない決定的な何かを叩きつけられそうな感じ。
 逃げるわけにはいかないけど。
 そして後半戦が始また。
「ここから出てくるバンドは、いつプロデビしてもおかしくないですよ」
 その言葉のとおり、登場してくるバンドのレベルがぐんと上がた。
 上手いだけじなく、特別な何かを持ている――
 とくに六組目のバンドなんか、ガールズバンドなんだけどロクにしかり歌い上げて、もしテレビに出てきたらフンになりそうなくらいだた。
「きた、ね」
「はい」
 翠の言葉に、仁科さんか沢口さんのどちらかが小さく返事して――
 きた。
 明らかに場の空気が変わた。
 まだアイツは袖のほうにいるのに。
 浅海さんがギターを抱えながら登場して、少し手を振ただけで何人もの男の人の声が聞こえる。やぱりあの人も人気あるんじないかと思て。
 ベースの人が登場して、ドラムの人が登場して。
 どちらも男の人だた。
 ベースの人は不良ぽい。ドラムの人は寡黙そうで、だけどどちらにも声援が飛んでいる。
 なんだ、アイツだけじないんじないて思て。
 だけど最後にアイツが登場して、
 ――物凄い歓声だた。
 背後から歓声がせり上がてくる。背中がむず痒くて、ここから飛び出したくなるような。
 なんだよ、これ。
 全然レベルが違うじないか。
 誰だよあれ。
 私はいま目にしているのがアイツだとは信じられなかた。
 髪型が違うし、格好だて黒のタンクトプでキメているし。そり顔はあいつだけど、あんな自信満々な顔見たことなくて。
 混乱したまま一曲目が始まてしまた。
 アプテンポな曲。
 アイツがシウトして、観衆から悲鳴が上がる。
 浅海さんが初端からテクを見せつけて、アイツが観客を煽――
 いきなりベースの人と絡んだ。
 思い切り顔を近づけて歌て、アイツが何かやるたびに歓声が上がて。
 何だよこれ。
 どれだけ煽る気だよ。
 どうしてみんな歌えるんだよ。
 オリジナルだろ。
 怖い。
 怖くなた。
 底なし沼にはまたように、暗闇に堕ちてゆく。
 仁科さんが消えて、沢口さんが消えて、私と同じように言葉を失ている翠も消えて、ベースの人が消えた。ドラムの人も。ポニーテールを振ていた浅海さんも消えて――
 アイツだけしか見えない。
 どんどん沈み込んでいく視界の中で、アイツの姿だけしかもう捉えることができない。
 何でこちを見ないんだよ。
 一曲目が終わてアイツがMCで語りかけているのに、こちらには一度も振り向こうとしなかた。何か、バンドの紹介をして、指差して歓声が上がて。
 私は今にも消えてしまいそうなのに。
 こちを、見ろよ。
 お前がチケトを渡したんだから、どこにいるかぐらいわかるだろ。
 だけどアイツは頑なに、いつまでも私のことを見ないで――
 見た。
 アイツが完全にこちらを見た。
 いつものアイツの目だ。水晶玉みたいな。
 なんだ、変わらないじないか。
 私はその瞳を睨む。
 睨んで、睨んで、世界が一つになて。
 アイツはこちらに向けて微笑んだ。
 それどころか近づいて、私の顔に――
――!」
 キアアアアー、という悲鳴のような歓声に一瞬体が浮かんで、それから真逆さまに堕ちていく。
 どこまでも。

「すごかたですね……
 放心状態のような沢口さんの声が聞こえた。
「私、しばらく立てないかも……
 そんな息も絶え絶えな仁科さんの声が聞こえて。
「正直、私も同じかも……
 翠までそんなことを言うなんて、とても珍しい。
「生の奏くん、凄すぎました」
「何なのあれ、別次元すぎるんだけど」
「この前あるバンドの前座を務めたらしいんですけど、そこでも全員骨抜きにしちて」
「いや、そりなるでし。これはなるでし
 ふたりの会話が耳に入てきて、そうかもしれないと思う。
「ねえ楓、投げキスぶつけられていたけれど大……
 こちらを振り向いた翠が絶句する。
 そりそうだた。
 全然大丈夫じなかたのだ。
 私は泣いていた。
 涙腺が壊れてしまたみたいに、涙が止まらなかた。
 アイツは、あの人は、とんでもないことをしてくれた。
 私のプライドをぶち壊しにして……
「楓……?」
 私は涙を拭うと、走て講堂を飛び出した。
 誰かにぶつかたけど、そんなの関係なく遠くへ。
 走ている途中にエミリーの曲を聴こうとしたけれど、ヘドホンを持てきていなかた。
 ずとアイツの声が、歌が聴こえる。耳から離れない。
 全速力で走ていると胸が痛くなて、仕方ないから足を止めると涙が溢れた。走ているときは空気の抵抗で抑えられていた分が、立ち止またとき一気に溢れ出たのだ。
 それ以上一歩も動けなかた。
 視界が溶けてしまいそうなくらい、何も見えない。(完)
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