第17回 てきすとぽい杯〈GW特別編〉
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高速道路
投稿時刻 : 2014.05.03 23:45
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高速道路
粟田柚香


僕がその老人と会たのは、白い蛍光灯が一定の距離を几帳面に守りながら、やはり一定の距離ごとに落ちる暗闇をも黙認している、長いトンネルの中だた。彼は路肩のわずかな石段、ちうど僕の足の幅ほどしかない路肩の段の上を、片手はコンクリートの壁に這わせながら、一歩一歩慎重に歩を進めていた。僕はちうど高速道路をかなり長い時間走てきたところだた。夜空にサンルーフを開け放して、クラシク音楽専門のインタートラジオを流したまま、次第に傾いて僕の視界から姿を隠そうとする北斗七星を追いかけながら車を走らせていた。そのためトンネルの中で僕は目指すべき指針を見失い、ジリエトの姿が見えないことを歎くロミオの悲壮感を味わおうと務めていたから、高速道路のトンネル内を徒歩で進む老人の姿には、たいそうぎとさせられた。

老人は疾駆する僕の車の少し先を、夜走るどんな車両よりもゆくりと歩いていた。トンネルはやや下り坂になていて、僕の片足はブレーキに乗ていたから、動揺する気持ちとは裏腹に(夢想独特の浮遊感を打ち破られた時の暴力的な衝撃!)車はスムーズに減速した。一度は老人を追い越したけれど、行く手におあつらえむきの退避スペースがあた。僕は車を停めてシートベルトを外し、スライド式のドアを開けて、トンネルの中を引き返した。幸い僕の走ていた車線に他の車はいなかた。
ほどなく老人に追いついた。老人は僕が戻てくることを知ていたようだ。なぜなら彼との間の距離がまだ2メートルはあろうかというところで、向こうから声をかけてきたのだ。
「サンルーフは閉めておくべきだな」老人にしては甲高い声だ。少なくとも僕にはそう聞こえた。「特にトンネルの中では。排気ガスが入てきてしまう」
「いたい、どうなさたんです」僕は聞いた。
「家に帰りたいんだが」彼は答えた。「車をなくしてしまてね」
「なくした?盗まれたんですか」
「いいや違う。トランプに負けて引き渡したんだ」
僕は舌打ちしそうになた。すんでのところだた。じあなんで一般道や電車、もしくはタクシーを使わないのかと口にしそうになた。車がなくなたから、歩いて高速道路を踏断するなんて!やめたのは、困た立場の人に非難を投げかけるべきではないという、僕自身の良識からだ。
「それじあ、僕の車にお乗りなさい」僕はそう言た。「行けるところまで、お送りしましう」
「もちろん、そうさせてもらう」と、彼は言た。言い方は穏やかなものだた。「が、そう遠くまでじない。このトンネルをでるところまででいいんだ」
「なにを言ているんです。トンネルを出たところで下ろして、どうやてお帰りになるつもりなんですか」
「すぐに分かるさ」そういて、彼はスタスタと僕を追い抜き、待避所にある車の方へ向かていた。僕はあわてて追いかけた。対向車線を一台のミニバンが通りすぎた。
僕が運転席のドアを開けると、老人はとくに助手席に収まて、シートベルトを締めたところだた。
「この甘い香りは何かな」彼は言た。「オレンジのカクテル?」
「違います」僕はそけなく言て、車のサイドブレーキを外した。
「実験をしたことがある」彼は勝手に続けた。「ピールジキ一杯、ワイングラス一杯、カクテルグラス一杯、日本酒1合をいただいて、車に乗る。どの酒が一番ハイになれるか、どの種類が一番アブナイか。確かめれば、何も怖いことなんてない」
僕はもう返事をせずに、サンルーフを閉めようとした。
「開けておいてくれ」彼は言た。
「でも、排気ガスが」僕は答えた。
「星が見えないじないか」彼は言た。
トンネルの中ではよく見えなかたが、車内の明かりのなかで見ると、老人は思たより小奇麗な格好をしていた。上半身は彼くらいの年齢の人が常に着ているジトだが、ビロードの様な光を含んだ生地で手入れも行き届いており、毛玉一つ見当たらない。正面のボタンは全部止められていたがその一つ一つがすべて違う色で、これもよく磨かれており、紺調のビロードの上でピカピカ輝いていた。ズボンには特に変わたところはなく、靴は座席の下に隠れていて見えない。人相はと言えば、頭髪はあまり面影をとどめておらず、代わりに綿毛のように真白な眉毛が頭頂よりすこし下にふさふさと揺れており、瞳は分厚く垂れ下がた瞼に隠されほとんど表情を示さない。鼻筋はちとみかけない立派な鷲鼻で、若い頃はさぞ高々としていたのだろう。年月が否応なしに積み重ねる皺が彼の皮膚を覆い尽くしていたが、その襞は綺麗にととのえられており、えくぼはその中でも埋もれることなく際立た存在感を示している(きと皺だらけになてから生れたのだ)。実のところ、彼を老人たらしめているのはその数々の皺と、動作から永久に失われた機敏さだけで、何かのはずみに空でも飛んでしまいそうな、正体の分からないエネルギーが潜んでいた。
僕は結局サンルーフを開けたままにして、車を発進させた。動力を加えられたタイヤはするすると回り、下り坂を駆け下り始めた。
「そんなに急ぐことはない」老人が呟いた。僕はブレーキを踏み込んだ。

トンネルの先は長かた。すり鉢状の山を長々と貫く横穴の中を、僕と彼はだまて滑り降りていた。時折対向車線に大きなトラクや、小さなトラクが通りすぎた。僕はいつの間にかまた、トンネルの入口で見失た北斗七星のことを考えていた。出口で我々はまた出会えるだろうか?やむにまれぬ障害によて引き裂かれた2人がまた出会う時の感激、それは星と人の間でも同じだろうか?たとえそれが、人からの一方的通行にすぎないものであたとしても、星は常にあの偉大なまたたきで、僕たちに答えを返してくれる。人は所詮受け取り手にしかなれない。隔絶された宇宙と地球の距離を人の力で埋めようなどと、大それたことを考えるのはやめるべきだ。詩人も音楽家も、ずとそうやてきたのではなかたか?…
「大それているから、美しいこともある」老人は言た。

車のナビ画面は、永遠につづくかと思われたトンネルももうすぐ終わりに近づくことを告げていた。僕は夢想を断ち切り、老人に声をかけた。
「どちらまで行けばいいんです」
「トンネルの出口までだ」彼はまた言た。
「そんな話は聞けませんよ」僕は言た。「貴方のようなご老人を一人、真暗の高速道路の上に投げ出すなんて。どんな事情があるかは知りませんが、安全な場所までは下ろしませんから」
「やれやれ」彼の声はなぜか、少し明るくなた。「迎えが来るんですよ。だからそんなにお手間をお掛けすることはないんです」
「迎えですて?」
「はい」
「一体、どこから?」
「迎えといいますか」老人はぼんやりと上方を見上げた。「彼女、トンネルの中を通るのは嫌がるのです。だからトンネルの中だけは、自分の足で行かなくちならなかたんです。拾ていただけたのは幸運でした。でも、あとは彼女が送てくれます」
「彼女て?」
うどその時、トンネルが尽きた。
几帳面な照明の列が一斉に途切れ、視界が闇に閉ざされた。サンルーフから新鮮で冷たい夜の空気が流れ込んできて、僕らの首筋と手首に触れる。
「ちんとついてきてくれたな」老人の声がした。彼の顔は見えなかたが、上を見上げていることは読み取れた。僕も顔を上に上げた。サンルーフからは、都市の照明に照らされ紫色に染また夜空に、奇妙な図形の形をとて貼り付けられた、北斗七星がまたたいていた。
「すまないね、文曲さん」なぜか老人の声は、とおくから響いてくるようだた。「もうすこしだけ頼むよ。なに、たたの7光年のことだから」
天井から流れ込んできた静かな風が途絶え、一瞬、すぐ近くでキンプフイヤーが燃え上がたと思えるかのような熱が流れ込んできた。ハンドルから手を離さずにいられたのは奇蹟に近い。目を硬く閉じてハンドルにしがみついた僕の頭上から、あの老人の声がした。
「今日はどうもありがとう。みんなも貴方のことを気に入たみたいだ。よければ遊びにいらい」
熱気はあという間に通り過ぎ、その後には冷たさをました夜気だけが残された。僕はいつの間にか路肩に車を寄せて、事故車両みたいに止まていた。
車内には当然、僕以外に誰もいなかた。ただ、助手席には星形に繰り抜かれた茶色い紙片が置かれていた。ナビの白いかすかな明かりが、最初の一行を照らしだしている。

『星々の幽霊屋敷 招待状』
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