てきすとぽい
X
(Twitter)
で
ログイン
X
で
シェア
第17回 てきすとぽい杯〈GW特別編〉
〔
1
〕
…
〔
15
〕
〔
16
〕
«
〔 作品17 〕
»
〔
18
〕
〔
19
〕
…
〔
49
〕
高速道路
(
粟田柚香
)
投稿時刻 : 2014.05.03 23:45
字数 : 3459
1
2
3
4
5
投票しない
感 想
ログインして投票
高速道路
粟田柚香
僕がその老人と会
っ
たのは、白い蛍光灯が一定の距離を几帳面に守りながら、やはり一定の距離ごとに落ちる暗闇をも黙認している、長いトンネルの中だ
っ
た。彼は路肩のわずかな石段、ち
ょ
うど僕の足の幅ほどしかない路肩の段の上を、片手はコンクリー
トの壁に這わせながら、一歩一歩慎重に歩を進めていた。僕はち
ょ
うど高速道路をかなり長い時間走
っ
てきたところだ
っ
た。夜空にサンルー
フを開け放して、クラシ
ッ
ク音楽専門のインター
ネ
ッ
トラジオを流したまま、次第に傾いて僕の視界から姿を隠そうとする北斗七星を追いかけながら車を走らせていた。そのためトンネルの中で僕は目指すべき指針を見失い、ジ
ュ
リエ
ッ
トの姿が見えないことを歎くロミオの悲壮感を味わおうと務めていたから、高速道路のトンネル内を徒歩で進む老人の姿には、たいそうぎ
ょ
っ
とさせられた。
老人は疾駆する僕の車の少し先を、夜走るどんな車両よりもゆ
っ
くりと歩いていた。トンネルはやや下り坂にな
っ
ていて、僕の片足はブレー
キに乗
っ
ていたから、動揺する気持ちとは裏腹に(夢想独特の浮遊感を打ち破られた時の暴力的な衝撃!)車はスムー
ズに減速した。一度は老人を追い越したけれど、行く手におあつらえむきの退避スペー
スがあ
っ
た。僕は車を停めてシー
トベルトを外し、スライド式のドアを開けて、トンネルの中を引き返した。幸い僕の走
っ
ていた車線に他の車はいなか
っ
た。
ほどなく老人に追いついた。老人は僕が戻
っ
てくることを知
っ
ていたようだ。なぜなら彼との間の距離がまだ2メー
トルはあろうかというところで、向こうから声をかけてきたのだ。
「サンルー
フは閉めておくべきだな」老人にしては甲高い声だ。少なくとも僕にはそう聞こえた。「特にトンネルの中では。排気ガスが入
っ
てきてしまう」
「い
っ
たい、どうなさ
っ
たんです」僕は聞いた。
「家に帰りたいんだが」彼は答えた。「車をなくしてしま
っ
てね」
「なくした?盗まれたんですか」
「いいや違う。トランプに負けて引き渡したんだ」
僕は舌打ちしそうにな
っ
た。すんでのところだ
っ
た。じ
ゃ
あなんで一般道や電車、もしくはタクシー
を使わないのかと口にしそうにな
っ
た。車がなくな
っ
たから、歩いて高速道路を踏断するなんて!やめたのは、困
っ
た立場の人に非難を投げかけるべきではないという、僕自身の良識からだ。
「それじ
ゃ
あ、僕の車にお乗りなさい」僕はそう言
っ
た。「行けるところまで、お送りしまし
ょ
う」
「もちろん、そうさせてもらう」と、彼は言
っ
た。言い方は穏やかなものだ
っ
た。「が、そう遠くまでじ
ゃ
ない。このトンネルをでるところまででいいんだ」
「なにを言
っ
ているんです。トンネルを出たところで下ろして、どうや
っ
てお帰りになるつもりなんですか」
「すぐに分かるさ」そうい
っ
て、彼はスタスタと僕を追い抜き、待避所にある車の方へ向か
っ
てい
っ
た。僕はあわてて追いかけた。対向車線を一台のミニバンが通りすぎた。
僕が運転席のドアを開けると、老人はと
っ
くに助手席に収ま
っ
て、シー
トベルトを締めたところだ
っ
た。
「この甘い香りは何かな」彼は言
っ
た。「オレンジのカクテル?」
「違います」僕はそ
っ
けなく言
っ
て、車のサイドブレー
キを外した。
「実験をしたことがある」彼は勝手に続けた。「ピー
ルジ
ョ
ッ
キ一杯、ワイングラス一杯、カクテルグラス一杯、日本酒1合をいただいて、車に乗る。どの酒が一番ハイになれるか、どの種類が一番アブナイか。確かめれば、何も怖いことなんてない」
僕はもう返事をせずに、サンルー
フを閉めようとした。
「開けておいてくれ」彼は言
っ
た。
「でも、排気ガスが」僕は答えた。
「星が見えないじ
ゃ
ないか」彼は言
っ
た。
トンネルの中ではよく見えなか
っ
たが、車内の明かりのなかで見ると、老人は思
っ
たより小奇麗な格好をしていた。上半身は彼くらいの年齢の人が常に着ているジ
ャ
ケ
ッ
トだが、ビロー
ドの様な光を含んだ生地で手入れも行き届いており、毛玉一つ見当たらない。正面のボタンは全部止められていたがその一つ一つがすべて違う色で、これもよく磨かれており、紺調のビロー
ドの上でピカピカ輝いていた。ズボンには特に変わ
っ
たところはなく、靴は座席の下に隠れていて見えない。人相はと言えば、頭髪はあまり面影をとどめておらず、代わりに綿毛のように真
っ
白な眉毛が頭頂よりすこし下にふさふさと揺れており、瞳は分厚く垂れ下が
っ
た瞼に隠されほとんど表情を示さない。鼻筋はち
ょ
っ
とみかけない立派な鷲鼻で、若い頃はさぞ高々としていたのだろう。年月が否応なしに積み重ねる皺が彼の皮膚を覆い尽くしていたが、その襞は綺麗にととのえられており、えくぼはその中でも埋もれることなく際立
っ
た存在感を示している(き
っ
と皺だらけにな
っ
てから生れたのだ)。実のところ、彼を老人たらしめているのはその数々の皺と、動作から永久に失われた機敏さだけで、何かのはずみに空でも飛んでしまいそうな、正体の分からないエネルギー
が潜んでいた。
僕は結局サンルー
フを開けたままにして、車を発進させた。動力を加えられたタイヤはするすると回り、下り坂を駆け下り始めた。
「そんなに急ぐことはない」老人が呟いた。僕はブレー
キを踏み込んだ。
トンネルの先は長か
っ
た。すり鉢状の山を長々と貫く横穴の中を、僕と彼はだま
っ
て滑り降りてい
っ
た。時折対向車線に大きなトラ
ッ
クや、小さなトラ
ッ
クが通りすぎた。僕はいつの間にかまた、トンネルの入口で見失
っ
た北斗七星のことを考えていた。出口で我々はまた出会えるだろうか?やむにまれぬ障害によ
っ
て引き裂かれた2人がまた出会う時の感激、それは星と人の間でも同じだろうか?たとえそれが、人からの一方的通行にすぎないものであ
っ
たとしても、星は常にあの偉大なまたたきで、僕たちに答えを返してくれる。人は所詮受け取り手にしかなれない。隔絶された宇宙と地球の距離を人の力で埋めようなどと、大それたことを考えるのはやめるべきだ。詩人も音楽家も、ず
っ
とそうや
っ
てきたのではなか
っ
たか?…
「大それているから、美しいこともある」老人は言
っ
た。
車のナビ画面は、永遠につづくかと思われたトンネルももうすぐ終わりに近づくことを告げていた。僕は夢想を断ち切り、老人に声をかけた。
「どちらまで行けばいいんです」
「トンネルの出口までだ」彼はまた言
っ
た。
「そんな話は聞けませんよ」僕は言
っ
た。「貴方のようなご老人を一人、真
っ
暗の高速道路の上に投げ出すなんて。どんな事情があるかは知りませんが、安全な場所までは下ろしませんから」
「やれやれ」彼の声はなぜか、少し明るくな
っ
た。「迎えが来るんですよ。だからそんなにお手間をお掛けすることはないんです」
「迎えです
っ
て?」
「はい」
「一体、どこから?」
「迎えといいますか」老人はぼんやりと上方を見上げた。「彼女、トンネルの中を通るのは嫌がるのです。だからトンネルの中だけは、自分の足で行かなくち
ゃ
ならなか
っ
たんです。拾
っ
ていただけたのは幸運でした。でも、あとは彼女が送
っ
てくれます」
「彼女
っ
て?」
ち
ょ
うどその時、トンネルが尽きた。
几帳面な照明の列が一斉に途切れ、視界が闇に閉ざされた。サンルー
フから新鮮で冷たい夜の空気が流れ込んできて、僕らの首筋と手首に触れる。
「ち
ゃ
んとついてきてくれたな」老人の声がした。彼の顔は見えなか
っ
たが、上を見上げていることは読み取れた。僕も顔を上に上げた。サンルー
フからは、都市の照明に照らされ紫色に染ま
っ
た夜空に、奇妙な図形の形をと
っ
て貼り付けられた、北斗七星がまたたいていた。
「すまないね、文曲さん」なぜか老人の声は、とおくから響いてくるようだ
っ
た。「もうすこしだけ頼むよ。なに、た
っ
たの7光年のことだから」
天井から流れ込んできた静かな風が途絶え、一瞬、すぐ近くでキ
ャ
ンプフ
ァ
イヤー
が燃え上が
っ
たと思えるかのような熱が流れ込んできた。ハンドルから手を離さずにいられたのは奇蹟に近い。目を硬く閉じてハンドルにしがみついた僕の頭上から、あの老人の声がした。
「今日はどうもありがとう。みんなも貴方のことを気に入
っ
たみたいだ。よければ遊びにいら
っ
し
ゃ
い」
熱気はあ
っ
という間に通り過ぎ、その後には冷たさをました夜気だけが残された。僕はいつの間にか路肩に車を寄せて、事故車両みたいに止ま
っ
ていた。
車内には当然、僕以外に誰もいなか
っ
た。ただ、助手席には星形に繰り抜かれた茶色い紙片が置かれていた。ナビの白いかすかな明かりが、最初の一行を照らしだしている。
『星々の幽霊屋敷 招待状』
←
前の作品へ
次の作品へ
→
1
2
3
4
5
投票しない
感 想
ログインして投票