ぼくとお屋敷
ぼくはこのお屋敷に住んでいる。大きなお屋敷でいつもキラキラしていて、住んでいる人も働いている人も大勢が動いているこのお屋敷で、誰にも認識されずに住んでいる。
つまりは幽霊
ってことなんだろう。
このお屋敷は元はぼくのお父さんが持っていたもので、ぼくも今、住んでいる人たちみたいに、豪勢な暮らしをしていた。毎晩、おいしいごはんを食べて、笑って、お手伝いさんをからかって遊んだりしていた記憶がある。
だけど、そんなぼくの一生はとても短かった。
名前もよくわからない病気になって、ベッドから出ることもできず、そして死んでしまった。死んだ後と言えば、ぼくはすぐ今みたいな幽霊になっていたのだけど、お父さんもお母さんも執事もメイドもぼくには気付いてくれないし、それから数年して、お父さん達はどこかに引っ越してしまった。
ぼくをおいて。
そうしてこのお屋敷に新しい家族が入って、出て、入ってを繰り返し、いまの家族が暮らしているというわけだった。お父さんとお母さんとお嬢様とその弟、それから執事とメイドとコックさんやたくさんの人たち。
もう、認識してもらえない悲しさも忘れて、なんでものぞき見できる楽しさにも飽きたというぼくにとって、この幽霊という状態がなんのためにあるのかはまったくわからなくなっていた。
死んでしまいたい。
もう死んでいるけど。
成仏とかいうんだろうか。
意識がなくなるか、せめて話ができるような相手のいるところに行きたいなと思う。天国とか、なんかもう地獄でもいいやって。
屋敷の一室で、椅子に座っていた執事のおじいさんが涙を流していた。メイドさんやお嬢さんが泣いていることはよくあるけど、このベテランの執事さん泣くなんて今まで見たことがなかったので、ぼくは驚きながらおじいさんを見ていた。
「どうすればいい……」執事が呟いた。
おじいさんは何かになやんでいるようだった。手に持っていた紙になにか書いてあるようなので、ぼくはそれをどうにかして読んでいった。
誘拐。孫。お嬢様。命。警察。
執事のおじいさんは頭を抱え込んでいる。全部を読めたわけではないけれど、おじいさんはどうやら孫を誘拐されたらしい。そして、その孫を無事返す代わりに、このお屋敷のお嬢様を誘拐することを手伝えと脅されているようだった。そうして、犯人は、お嬢様に対する身代金として、大金を要求するのだろう。
ぼくはそのお嬢様のことをどちらかと言えば嫌いだった。かわいいらしいところがなにかイヤで。
でも、どうにかしてあげたい気持ちもある。誘拐は悪いことだ。だから、たとえばぼくが幽霊としての力を駆使して、犯人を脅かすとかなんかして事件を解決したりすればいいお話になるだろう。
だけど、それはできない。
ぼくは現実にはなにも干渉できないんだ。
なにか物を動かすことも、声を出して驚かすこともできない。ぼくにできるのはただ知ること、考えること、そして祈ること。それだけなのだ。
執事のおじいさんは、何かを心に決めてしまったらしい。部屋をでて、別の部屋に向かう。行き先は電話のある部屋でもないし、主人のいる部屋でもないようで、お嬢様の部屋に向かっている。
警察に連絡するのでもなく、主人に話すのでもなく、つまりはそういうことなのだろう。
「お嬢様、失礼致します」
ドアの外でノック。さっきまでの泣いていた様子はどこにも見あたらない。これも今までの経験からできることなんだろうか。ドアが開き、中からでてきた子に笑いかけたその顔が、ぼくにはとても恐ろしく冷たく感じられた。しょうがない。だけど、なんで、苦悶が見ることができないのだろうと。
執事のおじいさんは嘘をついて、駐車場へと連れて行く。執事の前を進む、ピンク色のスカートがかわいかった。ぼくの嫌いなスカートだけど、いまそんな気持ちよりも悲しさが強い。車に乗せて、どこかへ行くつもりだろうか。
にげて、と思った。
声には出さない。もう何年も声なんて出していない。ぼくの声は誰にも聞こえなくて、ぼくの耳にしか入らないのならば声を出す必要がない。さけぶような思いも、そんな習慣のせいで、ただ思うだけになってしまう。
駐車場。執事のおじいさんはいつも通りのやさしい動きで、車のドアをあけた。スカートが一瞬ふわっとなって、それから後部座席で落ち着いた。
ぼくはまずい、と思った。
ここで生まれてここで死んだぼくは、この屋敷からでることのできない幽霊なのだ。もちろん、ついて行ったってなにもできない。ぼくがここにいたって、誰も気付かないし、ここが幽霊屋敷だなんて思うことすらしない。ぼくはただのやじうまだとわかっている。知りたいという欲求だけで、うわさ話が好きなメイドさんたちとかわらない。
車が動き出す。大きな庭をゆっくりと走り、門の方へ。ぼくはまだ車の中にいられる。だけど、もうすぐ置いていかれる。お父さんとお母さんの乗った車が、ぼくを残してこの屋敷から出て行ったときのように。
行かないで、と思った。
そのとき、声が聞こえた。
「ぼくをどこに連れて行くつもり?」無邪気な笑い声。
お嬢様? 違う。執事もそれに気付いたらしい。車が止まった。
「お姉ちゃんだと思った? 違うよ、僕だよ」
俯いていた少年がなんにも知らずにほほえんだ。車に乗っていたのは、お嬢様の弟でこのお屋敷の跡継ぎの少年だった。
執事のおじいさんは運転席で震えていた。その普段とは違う様子に少年もなにかに気付いたらしい。
「ごめんなさい。お姉ちゃんと服を交換して遊んでたの。怒らないで……」
執事は涙をこぼしていた。それを少年に見えないようにぬぐって、ふりかえって微笑んだ。
「怒りませんよ。お屋敷に戻りましょう。こちらこそ申し訳ございません。お嬢様をお連れするお約束自体が私の勘違いでございました」
車が庭の噴水をまわって駐車場へと引き返していった。
その後、執事のおじいさんは主人に事情を話し、お屋敷は大騒ぎとなった。それでもやってきたおまわりさん達がちゃんと働いてくれて、執事のお孫さんも無事、救出されたようだった。
結局、ぼくはなにもできなくて、ただ事件がはじまって終わるのを眺めていることしかできなかった。事件のあと、ふらふらとお屋敷で遊んでいたぼくは、あの執事とお嬢様が話しているところを目撃した。
「どうして正直に話すことにしたのですか? 戻ってきて、わたしを連れて行ってもよかったでしょう」
「……そうですね。ただ、私はじぶんに幻滅したのです。いくら服装が変わっていたとはいえ、仕えるべきお嬢様とご子息を間違えるなどという大きな失態をおかした自分自身に」
「そう」お嬢様は微笑んだ。「よくわかりません」
やっぱりこのお嬢様はバカで、あまり好きになれない。ちょっとだけ誘拐されちゃえばよかったのにとか思った。いや、それは嘘。そうしておこう。
そんな嫌いなお嬢様でも、ぼくが気になっていたことを聞いてくれたのでよしとしよう、と思う。
この執事のおじいさんが、どうして思いとどまったのか。それはずっと気になっていたんだ。はたから見れば冷静ですごい怖かったけど、中身はやっぱり動揺してたんだなってぼくは安心した。
こんなことがあるから幽霊ってのいいかなと思う。
それにさ、やっぱり男と女を間違えるなんて失礼だよね。ぼくも生きていたときはよく間違えられたんだ。いくらスカートをはくのがイヤだったからって、男の子と間違えるなんて失礼しちゃうよね。
いまでもスカートなんてはかないけどさ。 <了>