第17回 てきすとぽい杯〈GW特別編〉
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クリスタル・ムーン
大沢愛
投稿時刻 : 2014.05.06 23:43
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クリスタル・ムーン
大沢愛


 尾根に沿て闇の深さが分かれていた。駐車場から出ると、下りになた道を歩く。一帯には照明はない。背後に見えていた海の向こうの街明りも擁壁に隠された。アスフルトに靴音が響く。背中を押されている感覚に逆らて、身体の軸を垂直に伸ばす。
 ロジの影がゆくりと過ぎて行く。仄明るい空に、廃ホテルの影が突き出している。ポーチに入れてきたマグライトをちらと思い浮かべる。目を舗面に凝らす。側溝の鉄板がところどころで撥ねのけてある。「脱輪するやつを見て大笑いするんだよ」そんな声が聞こえた気がした。
 タギングに埋め尽くされた板壁が近づいてくる。錆びた有刺鉄線が波打ている。「立入禁止」の看板の上にスプレーで「幽霊屋敷」と書かれている。看板から杭3本目のところで立ち止まる。板の左端に指先をかけて、力を込める。板はずりずりと動き、あるところで抵抗がなくなた。ほんとうに昔のままだ。これだけ侵入を許しているのに、対策を立てる気はないらしい。ホテルに注ぎこんだ大金を思えば、鋼板で囲うくらいなんでもないだろうに。
 ポーチから取り出したマグライトのスイチを押す。目の前に草の穂が広がている。ライトを突き出して左右に払いながら、一歩踏み込んだ。脹脛から膝の裏にかけてちくちくと痛む。爪先が黒い立方体を蹴飛ばす。軽い感触とともに突き抜ける。錆び切た一斗缶だ。光の中を黒い点が飛び交う。防虫スプレーを忘れていた。軽く跳ねながら群生を越える。廃ホテルの外壁が、月の光を受けてうすらと輝いていた。

 足首まで埋まるぬかるみは避けられたと思う。アスフルトの罅割れたスロープにたどりつく。ガラスが完全に割られたロビー正面は板で覆われていた。〈監視カメラ作動中〉のプラスチクプレートが貼りつけられている。
「映たらやばいんじないか」
 無視して、板の中央に靴裏で思い切り蹴りを入れる。ほとんど抵抗のないままベニヤ板は館内へ倒れ込んだ。
板を踏み越えて中に入る。ガラスの破片がきしきしと鳴た。コンクリート角柱から電線が引き出されている。饐えた臭気が漂ている。あちこちにコンビニ経由らしいゴミが散乱していて、そのなかを細長いものが這て行く。ヘビだ。草叢で踏まなかたのは幸運だたかもしれない。そと息をつく。
「本当に監視カメラをつけてるなら、警告なしで踏み込んでくりいいのよ。せめてダミーくらい置いてあれば考えたけどね」
 右手に階段が見えた。手摺り部分のポールはことごとく外側へひん曲げられている。裏返た巨大なムカデを思わせる。段の角で靴裏の泥をそぎ落とし、一段ずつ登て行く。歩幅が段と合わない感覚がつきまとう。
 2階はフロントになる予定だたらしい。昇り切たところで振り向く。壁面を囲むガラスは3枚が割られていた。その足元に月の光が広がている。コンリートのフロアを横切る。窓際に立つと、ロジの屋根の向こうに瀬戸内海の暗い海が見えた。対岸の高松や島々の明かりが闇にこぼれている。触れると冷たそうな月が斜め上に出ていた。
「ミワさん」
 トシキの声がした。わずかに目を向ける。横顔に月の光がかかているはずだ。笑みがこぼれる。
「キウコはあの日、ここへ連れて来られたんだね。そして、二度と帰て来なかた」
 床の上に男の子たちの姿が浮かぶ。どいつもこいつもビビりながら覆い被さてきた。この位置からなら、男の子たちの剝き出しのお尻が丸見えだたんだ、と思う。
「最後に一緒にいたのはミワさんだよね。なのにキウコのゆくえについては何も言わなかた」
「知らなかたから」
 壁際で男の子がひとり、泣きじている。目を背ける。
「じあなぜ、ぼくがメールで〈キウコを見つけた。今すぐ来てほしい〉としか言てないのに、ここに来たの」
 暗がりに立た影がこちらを見ている。大きく息をついた。
「短大出てからの人間関係はみんな洗て、それでダメだたんでし。高校時代のキウコに絡む場所で、車でも行けそうな場所はここくらいなものだたから」
「じあ、ぼくとふたりでキウコを探し回ていたころ、一度もここに来なかたのはなぜ」
 お尻を出した男の子たちが揺れている。みんな口を閉ざしている。声で悟られないためというより、出せなかたのかもしれない。
「キウコの高校時代の男関係について喋る気がしなかたから」
 影が揺れた。嗤たのかもしれない。
「ミワさん、高校時代にキウコのおかげで暴行されたんだよね。ここで」
 男の子たちが顔を見合わせる。ボウコウという言葉の意味が分からなかたのかもしれない。小声で、レイプだよ、と囁く。あちこちで深く頷く。
「そんなキウコのことをわざわざ庇うのはヘンじないかな。どちかていうとむしろひどい目に遭わせたくなるんじないかな」
 中断していた動きが再開する。いままで気づかなかたけれど、裸のお尻の下に誰かが仰向けになていた。
「ミワさんの部屋で酔わせて、ここへ連れて来て、殺した。そのあと、この周りの草叢のどこかへ埋めた。そうじないか?」
 男の子の背中に隠れて顔が見えない。目隠しと猿轡が見えないかと目を凝らす。
「せめて、キウコはいまどこにいるか、教えてほしい。それ以上のことはいいから」
 お尻が離れた瞬間、顔が見えた。目隠しも猿轡もしていない。ウエーブのかかた髪が床に広がている。
「アンタ、〈キウコを見つけた〉て言たよね。あれて噓なの?」
 よく見ると、髪の長さが少し短い。手足も心なしかほそりしていた。なによりも、そのスカートには見覚えがあた。だて中学校の3年間、穿き続けたスカートだから。
「見つけたのと同じだろう。カマをかけたらミワさんは引掛かたし」
 壁際で泣きじていた男の子はいなくなていた。床の上には、女の子がひとりだけ残されていた。顔は見えない。それでも、泣いていないことだけは分かる。
「勘違いしてるようだけど私、キウコのこと嫌いじないよ」
 闇の中の影は動かない。
「脛毛の生えたコナンくんには悪いけどね。ついでに言えばここでお尻を振ていた男の子たちだて許せないてわけじない。馬鹿だなとは思うけどさ」
 脛毛の生えたコナンくんの言葉を待つ。月の光の射し込んだコンクリートはまばゆく光ている。私の脹脛のシルエトがくきりと刻まれている。
「トシキ、アンタ死んでるよね。メールが来たときからそんな感じがしてた。私、アンタのアドレス、着信拒否にしてたから。不安に駆られて飛んで来ると思た? ちと詰めが甘かたね」
 足を踏み替える。甲革にべたりと泥がついていた。乾いてからそとブラシで擦らなき、と思う。
「死んだ人間なんて、上書き不能の記憶媒体みたいなもんだよ。すべてを見通せるなんて思わないね。実際、死んでもキウコの居場所なんて分からなかたじない」
 床の上に手をついて、女の子が起き上がた。周りを見回す。誰もいない。立ち上がて、下着を整えてはだけられたブラウスをかきあわせ、スカートの埃を丹念に叩く。何度も。叩いているうちに、少しずつ嗚咽が漏れ始めた。
「あの日ね、キウコを乗せて出かけてすぐ、コンビニに寄たの。酔い覚ましの水を買おうと思てさ。店から出てきたら、車のそばに誰か立ていた。シウヘイだた」
 頬がこけて、髪は肩まで伸びていた。私の顔を見ると、両手を合わせた。
「車とキウコを貸してくれて。どうしてもやらなきならないことがあるて。正直、馬鹿かと思た。しうもないドラマとかで何年もかけて復讐するみたいなのがあるじん。いつまでも昔にこだわていじいじしてる姿のどこがかこいいわけ?」
 コナンくんは同じポーズのまま動かない。女の子は目許を擦り終えると、宙に向かて大きく息を吐いた。
「キウコは友だちだからて言ても聞かない。押し問答しているうちに、シウヘイがここまで何か言て来るのて初めてだて思た。酔いが醒めたキウコに張り倒されれば少しは根性が入るかと思てね。最後には車ごと貸しちた。もしものことがあれば車から足がつくし、そうなたら警察に全部話せばすむことだから」
 フロアのなかには何人がいるのだろう。女の子はゆくりと階段に向かて歩き出す。遠い昔によく見た後ろ姿だた。
「そのまま、20分ほどかけて歩いてアパートへと戻た。駐車場にはキウコの車が止めてあた。部屋に上がてざと片づけをして、バスを使て、すぐに寝た。翌朝、窓から見ると、駐車場に私の車が止まてた。郵便受けにはキーが入てた。ひと声かけてもよかたのに、と思たけど、長引いたのかな、と思て。メールしてみたけれど、返事はない。二日酔いかもて、その日はそれで終わた」
 女の子の消えたフロアには、私と影だけが残された。割れた窓から風が吹き込んでいるはずなのに、空気は動かない。
「何日かして、キウコがいなくなて聞いた。予想はしていたけど、けこうシクだたよ。さあ、ポリスメン、カモーて思て、待ち構えていたのにいつまで経ても警察官は聞きに来ない。シウヘイのパパが警察のお偉いさんだて、もと早く気づいてもよかたんだけどね」
 影がすこしだけ身動きをした。薄ぺらな影絵みたいだ、と思た。
「私がいちばん嫌いなのは、シウヘイやアンタみたいな男だよ。優しそうなふりして自分が傷つくことばか気にして。うしろ向きで、自分に都合のいいとこだけで身勝手に意地を張て。キウコを攫うくらいなら半殺し覚悟で暴れるべきときがあたろ。新しい彼女作たくせに私と一緒にホイホイ出掛けて、肝腎なとこじ腹も括れない。それで今ごろコナンくん気取り? 調子に乗てんじないよ! アンタが今さらキウコに会て、相手にもされないよ」
 ぺらぺらの影は頼りなく揺れた。地元のシピングモールが夏につるす飾りみたいだた。乱れた息が鎮まるのを待つ。
「想像だけどね、キウコはたぶん埋められてないよ。土中に埋めるて証拠が残りやすいて昔、シウヘイが言てた」
 月の光に晒されていると、なんだか夏の昼下がりを思い出す。体育館裏で、汗を拭きながらポカリを飲む。隣には、キウコがいる。
「シウヘイさあ、パシリだたから最上階での見張りを引き受けてたんだよ。ポリとか別グループとか来たら知らせるようにて。でも暇だから、ときどき梯子を上てハチを開けて、屋上に出るんだて。夜空が直に見えて綺麗だて。私がここに連れて来られた日も、本当は屋上に登ろうて言てたんだよね。だから、たぶん間違いないと思う」
 バスケトボールのドリブル音が聞こえた。ホイスルが鳴る。休憩だ。ずれた防球カーテンを直しながらキウコが走てくる。
「行てみれば? 相手にしてくれるかどうかは分からないけど」

 我に返る。月明かりのフロアには人影はなかた。ポーチからスマホを取り出して、着信履歴を見る。トシキからのメールはなかた。もと通りにしまて、両手を伸ばして背中を反らせる。麓の県道には車の姿はない。深夜も運航しているフリーの汽笛が遠くに聞こえる。
「なーんてね」
 小声でひとりごちる。ガラスに映た私の顔はいつのまにか笑顔になている。
 嬉しくないときだて、笑顔になることはあるんだ。キウコならよく分かるよね。
 取りあえず、手を洗て、この訳の分からない恰好を何とかしなき
 ポーチを持ち直して、マグライトをつける。床に散らばたガラス片が、一斉に瞬いた。





 
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