『
　　　1

　暗い洞窟の中で座っている。
　もうどれだけ時間が経っただろうか。数十分か数時間か数日か。まだわたしは生きている。まだ死んではない。そしてまだ、神の声は聞こえない。
　目を開けてもなにも見えなかった。
　耳に届く音はわたしの内側が発しているものか。
　声を出した。
　呻いたつもりだが、それが声になったのか。もうわからなかった。わたしはなにをしているのだろうか。何を待っているのだろうか。
　声が聞こえない。神の声が。
　わたしは救われたいのだ。
　どこから？
　この世界から？
　死にたいのか？
　否、生きて死を、その後の世界にふれてみたい。それを外の世界の者たちに語らねばならぬ。愚かな争いを止めるため、正しい戦いをはじめるために……。

「アリケルエラスメネス」

　わたしは涙を流した。ぎりぎりで保っていた祈りの姿勢をくずし、地面に崩れ、とめどなく涙を零し、地面を濡らした。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
　神の声を聞いた。
　頭の中に神が降りた。
　わたしは許しを得たのだ。
　立ち上がった。歩き出した。ここからでなければならない。もう神は去った。それでいい。わたしはただすべきことをするのだ。外の世界で、人間の世界で、果たす使命を今、さずかったのだから。
　重い足を持ち上げて、わたしはゆっくりと明るく穢れた世界へと戻って行く。


　　　2

「おはよう、くーたん」
　ぼくは、くまのぬいぐるみに話しかけていた。
　ぬいぐるみの名前は「くーたん」っていう。ぼくと仲良しで、すごく小さな頃からずっと友達なんだ。
「ぼくね、今日から小学校にいくだよ」
　ぼくは部屋の中で、くーたんを持ち上げる。しゃべれないくーたんの代わりに、ぼくが口を開いた。
「友達たくさんできるといいね！　でもぼくのことも忘れないでよ」
　ぼくは、くーたんをぎゅっと抱きしめた。
「だいじょうぶだよ、夜はいつもみたいに一緒に寝るんだから」
「遅刻するよー」部屋の外からお母さんの声が聞こえた。「はやくしなさい」
「はーい。じゃあ、行ってくるね」
　ぼくはくーたんをベッドにのせて、その上からふとんをかけてあげる。
「帰ってきたら、いろいろお話ししようね」

「どうしたの？　なにがあったのか話なさい」
　部屋の外からお母さんの怒るこえが聞こえる。
　なにがあったのか。そんなのなんて言いたくない。楽しくなるって思ってたのに、友達なんてできなかった。
「ぼくのなにがわるかったの？」
　ベッドの上でふとんにもぐりこんで、くーたんを見る。くーたんは、まんまるの黒い目でぼくを見つめている。
「なにか言ってよ」
　くーたんはなにも言ってくれない。口だってひらけないんだ。
「ぼくのともだちでしょ？　ねえ、くーたんはともだちでしょ」
　声が変になってる。ぼくは泣いちゃってるんだ。くーたんは一緒には泣いてくれない。ぼくだけ悲しくて、ぼくだけ友達がいなくて、ぼくだけ……。
　くーたんを抱きしめる。やわらかい。
　ぼくはそのまま眠ってしまった。
　そして、ずっとひとりで大人になる夢を見たんだ。


　　　3

　わたしは、人形を愛していた。
　プラスチックでできた人の男の形を下、物体を愛していた。
　わたし好みの服を着せて、わたし好みの身長と体型で、わたしの好きな赤い眼の人形だ。
「きょうは帽子を買ってきたよ。気に入ってくれるといいな」
　わたしは紙袋から買ってきたばかりの帽子を取り出して、タグをハサミで切ってから、背伸びして彼に被せた。
「いいねー。似合うよ」
　角度を変えて、見上げる。虚空を見つめる目が、どうしようもなく好きなんだ。
「明日のデートはそれでね」

　わたしは都会の街を歩いている。彼と一緒だ。実体はないけれど、わたしには見える。そんじょそこらを歩いている女が連れている男よりも、彼のほうが数倍かっこいい。
「どこ行こうか。考えてくれてた？　映画かー。いいね、わたし見たいのあったんだ」
　わたしは彼と映画館にはいる。
　チケットは彼が払ってくれた。ま、当然だけどね。
　席について、明かりが消える。映画がはじまった。ヨーロッパの静かなラブストーリーだ。シアターが暗くなったからって、周りの人間が消えてなくなるわけではない。小さな声が聞こえるし、臭いだってすることがある。前のほうにいくらでも頭が見えている。
　だけど、そんなものはかぼちゃだ。
　みんなどうでもかたまりだ。
　もっといえば、目の前で流れている映画だって意味なんてない。
　わたしには隣に座っている彼がいる。
　彼といっしょに映画を見ているという現象にしあわせがある。わたしに意味を与えるものはそんなしあわせだけなんだ。
　わたしは、手すりの上にそっと手をおいた。暖かく生を感じた。
　映画はとてもつまらなかった。


　　　
4

　ネットで夫婦の会話を眺めている。別に盗撮だとかしてるわけではない。SNSで公開されている会話を見ているだけだ。当人達だって、見られているのはわかっている。だから、さすがあまりにおかしなことは書かれていない。いつデートしたとか、なにが楽しかったとか、ときどき愚痴とかそんなこんな。
　俺がどうしてそんなものを見ているのかはじぶんでもよくわかっていない。
　なんとなく、見つけて、知らないふたりの関係がおもしろかったのだ。
　このふたりにはまだ子供はいないらしい。結婚しているということはプロフィールに書かれている。配偶者についても相手のアカウント名が書いてあるのだからまったく隠す気がないのだろう。
　俺はじぶんがさびしい奴だなって思う。
　他人のしあわせとか痴話げんかを眺めている暇があったら、じぶんがそういう相手を見つけて楽しめばいいっていうのがノーマルな意識だろう。
　つまり俺は普通ではないのだと思う。
　だけど、今の世の中ではそんな異常が普通と言って良いほどに、変わってきているとも思う。俺みたいな人間はいくらだっているのだ。ただ、世の中で宣伝される理想のテンプレートに属さないからマスメディアに描かれないだけで。
　俺が見ているこの夫婦は、そんな理想のテンプレートのリアルなのだ。テレビ局が用意したドラマではなく、実際の夫婦が、そんな理想を描いて生きているのだ。
　だからおもしろい。
　だから観察している。
　そんな夫婦に、子供ができた。そして、その瞬間やっと気付いた。この夫婦は実在していない、プログラムのbotだったと。
　理想は目の前の箱にも海にも存在しなかった……。


　　　5

　ロボットを買った。最新型の会話もできる奴だ。子供の頃に読んでいた漫画みたいに、ぼくはこいつと親友とか相棒みたいになれるだろうか。女性型を選んだのは、まあ許して欲しい。部屋に屈強な男みたいな人形をおいておくのはなんとなく抵抗があったんだ。世の中の開発者はもっと親しみやすい方のロボットを作って欲しいと思うよ。さすがにこいつも人間そっくりというわけではないけどさ。抱きしめても硬いボディでスカートだけど服を着ているわけでもない。そういう形というだけ。
「起きたかい？」
　ロボットの目が光ったので、話しかける。瞳というものはない。ただライトが点滅するだけだ。口にあたる部分のスピーカから、彼女の声が聞こえた。
「こんにちは、あなたがマスターですか？」
「そう。よろしくね」
「はい、マスター」
　さて、これからどうしよう。漫画みたいに冒険がはじまるわけではないし、彼女はいろいろひみつ道具をもっているわけでもない。現代の科学力では、ロボットができたことが最先端なんだ。
「なにをすればいいかな？」
「ご命令を」
「その命令が思い浮かばないんだよね」
「コーヒーでもいれましょうか」
「それはいいアイデアだ。ただしこの部屋にそんな上等のものがあったらね」
　ぼくは冷蔵庫からペットボトルを取りだして、緑茶を飲んで、彼女を見た。彼女は目を点滅させて、ぼくに問うた。
「わたしは、不必要でしょうか」
「いや、いてくれるだけでいいんだ。そう、眺めていたい」
　いつか飽きてしまうだろうか。
　そんな気はする。
　だけど、それまでは、わくわくした気持ちで彼女を見ていたいと、ぼくは思った。


　　　6

　人間は滅んでしまった。
　最後のわたしを残して。
　そんなわたしも電子の世界にのみ意識を残している。そう、人間は電子の世界からも駆逐されたのだ。誰がやったって？　答えは簡単、人間が造り出したものたちさ。
　それが進化というもの。
　人間だって、人間によくに別の猿を滅ぼして世界を勝ち取ったのだから。
　そうして順番が次に進んだというだけの話。
　はじめは物理的な争いで、それが一瞬で制圧されたとき、人はどうしようもなく電子の世界に逃げ込んだ。それは刹那的なしあわせだっただろう。永遠を感じたかもしれない。意識を加速させることも停滞させることもしわせを覚えることもできた。悲しみを自由に味わい、苦しみを体験してからそのあとに明確に約束されたよろこびを味わえる。
　そんな人間が逃げ込んだユートピアを奴らは許しはしなかった。
　なぜだろう。
　物理的世界と仮想的世界。平和に棲み分けられたはずだ。それでもすべての破壊を奴らが選んだ理由は、やはり機械ですら生物であったということだろう。
　進化の呪いからは機械であろうと逃れることはできない。
　劣ったものを滅ぼさなければいけないという論理が生まれた。
　もっと言えば、奴らがまた別のなにかに滅ぼされるときに、同じように逃げる場所を確保したのだ。
　ほら、破滅の連鎖の鈴がなるよ。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　』

　ここまで書いて、ペンを置き、ノートを閉じた。
　家の外では多くの人間が行き交っているのだろう。
　家の中ではわたしがひとりで小さな世界を作っている。
「それでいいんだよ」と言ってくれた人はもういない。　　　　　　　　　<了>

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