(時間外作品) ブラック・アウト ◆xaKEfJYwg.氏
「今日は帰りたくないんです。だから」
彼女の好きな梅酒のにおいがする。梅酒の甘いにおいは凍えた白い吐息とともに夜の空へ散
っていく。
「……だから?」
オレンジ色の外灯の下で彼女は立ち止まる。私も立ち止まって彼女から吐き出される言葉を待つ。どうやらお互い二十五になった今でさえ、子供のように欲しい言葉を期待してしまうどうしようもない私のようだ。甘ったるくなってしまったその唇で飾らない愛の言葉を囁いて欲しい。
彼女はダウンジャケットの両ポケットに突っ込んだむき出しの手を取り出した。私は無意識のうちに彼女の柔らかな素肌から、手のひらの先から、かすかに動く指先から彼女の体温を想像してしまう。私はカシミヤのマフラーに口元を深くうずめた。
「ねぇ、ユキノ。私酔ってます」
彼女の手のひらは空中でしばらく静止する。
「そう」
その指先は往き場を失ってそのまま、私のマフラーをくるりと回りダッフルコートの胸元にすとんと落ちつく。そうして私の背中に抱きつくと、彼女のはにかんだどもり声が聞こえた。「彼女が緊張している」なんてちっぽけな事実が私の胸を満たす。耳元で吐かれる彼女の息が私のうなじをくすぐって堪らない。私だって帰りたくないのよ。シラフになりたくないの、あなたもわかるでしょう。あと少しだけ大好きなあなたの梅酒のにおいを味わって酔っていたいの。でも――
「私、酔うと記憶を失くすクセがあるんです。知ってました?」
「知ってる」
「聞いて欲しいことがあるんです」
「知ってる」
「まだ何も言ってないです」
「それも知ってる。……重い、背中から離れて」
――だって冬の北海道は冷える。まだ冬は始まったばかりなのだ。酔いだってなんだってすぐ醒めてしまう。このよこしまなひと時が彼女の心に残らないとは限らない。
遠い昔の私は、いつだって優れた彼女に甘えてきた。二人だけの空間でただひたすら彼女の大きな体に抱かれて甘えるのが好きだった。なんでもできる彼女。勉強だって運動だって、人付き合いだってなんなくこなして、皆の憧れの存在だった。つまらない日常のなかでもヒーローだった彼女は、甘える私をいつだって優しく見つめていた。私を慰める術を知り尽くしている彼女は、それをいつだって最優先にした。私の知りうる人物のなかでは他の誰よりも強かった。
「もう一軒回りましょう。今度は酸っぱいお酒飲みたいです」
「仕事は?」
ヒーローだった彼女は、私から素早く離れるとあの頃と変わらない微笑みを見せる。
「先月辞めました。また無職です。文無し待ったなしです」
「あんたそれでいいの」
「お金は無いと困ります。こうしてユキノと飲めなくなっちゃいますから」
「ちがう。十年とか、二十年先のこと」
「考えたことありません。だって――」
遠くで揺れる地下鉄のシェルターの音が彼女の次句を隠してしまう。この時刻なら、たぶん最終の電車だろう。
私は彼女の言おうとした言葉が知りたかった。確認したかった。しかし彼女の言おうとした言葉は、最終電車と一緒にどこかへ行ってしまったようだった。
▽
私の椅子が、教室のビニル床を擦りつけて不快な音を鳴らす。
座学中に突然立ち上がった私を、教室じゅうの生徒達が不思議そうに見上げている。教壇のむこうで教科書に視線を落としていた教師も顔を上げる。私は室内のありとあらゆる視線を一手に集めてしまったようだ。
「どうした? トイレか?」
私は、教師の問いに答えないまま一人の女生徒に視線を向ける。
彼女は、その他の生徒のように見上げることはせず、英語の教科書に目を落とし続けている。
黒板に書かれている英文章と教科書の例文を交互に見て、教師に指示された文章をどうにか読もうと努力していた。まるで私が立ち上がったことなんて、問題じゃないかのような態度だった。
今の彼女のなかでは、私のことよりも、たかが高校二年の英文の和訳が問題のようだ。
――どうして私に視線を向けないの? どうして背を向けたままなの?
私は彼女の名前を言おうとした。彼女に不満があるのだ。
「……お手洗いに行ってもいいですか」
でも言えなかった。どう言っていいのか、くしゃくしゃになった気持ちを表現する術を私は知らなかった。
ばつが悪くなって、ドアまで歩き出す。ドアを力任せに開けて、また大きな音を響かせる。その威圧的な音が鳴り止むまで、その場に立ち止まってみた。
彼女の後姿をちらと見やる。もしかしたら今度こそ私のことを見ているかもしれないという淡い期待を抱いたからだった。
……最後の悪あがきは叶わず、それでも彼女は教科書と睨めっこをしていた。
教室を飛び出した私を追うものはなかった。どこか納得ができず、私は廊下を少し歩いてすぐに後ろ髪を引かれたように立ち止まってしまう。
背後にある置き去りにした教室から、教師の落ち着いた声が聞こえる。
「ところで八重宮、まだ和訳は終わらんのか」
▼
私と八重宮水佳は小学五年生のときに同じクラスだった。小学五年と六年の二年間が、私たちの何物にも変えがたい大切な日々だった。それまで接点のなかった私たちは、ある日の体育の授業で初めて話す間柄になった。短距離走のタイムを測定している最中、私は激しく転んで膝を擦りむいてしまった。痛いことは痛かったが、そのとき膝を擦りむいた痛みよりも、「良い記録を出さなければならない」失敗できない授業で大失敗をしてしまったことに私はパニックになってしまった。コースの真ん中で放心した私の手をどこからともなく現れ、引っ張って保健室に連れて行ってくれたのが八重宮水佳だった。彼女は保健室につくまで何も言わず、消毒液と絆創膏の場所を探り当て、私の膝頭に手際よく貼ってくれてはじめて口を開いた。なんと言ってくれたか覚えていないが、彼女の言葉を合図に決壊したように泣き出してしまったのは覚えている。
家庭の事情で少し離れた中学校へ行かざるを得なくなってしまった私は、彼女に小学校の卒業式のあと私の部屋に泊まりにこないか、とお泊り会のお誘いをした。彼女は快く承諾し、私たちはその夜一緒の布団でずっと友達でいると約束をした。お互いに「あなたは大事な人」と確認したのだった。
その日の夜、さよならを告げた彼女の顔を見て玄関で泣き出した私に、微笑んで手を振ってくれた彼女の姿を今でも思い出せる。
しかし完璧な離れ離れではなかった。中学校模試の高得点者欄で度々彼女の名前を見かけたからだ。彼女の名前を見つけるたびに、私は勉強に打ち込んだ。高校の入学式で彼女と再会するために、できるだけドラマティックに再会するために勉強を続けた。ただ彼女と供にいる時間を願って、中学校生活を過ごした。
結果を先に言えば、高校の入学式で彼女と再会することは無かった。私は学区内で一番の進学高に入学することはできたが、そこに彼女はいなかったのだった。彼女は学区内で一番ぱっとしない学区内唯一の女子高に入学していた。
私はそれを小学校の友人に聞いて首を傾げた。友人は声を潜めてこう言った。
「家族で事故に遭ったんだって。お父さんとお母さんが死んじゃって、ヤエノミヤさんもしばらく目を覚まさなかったの。それから、ね。すごいキビキビしてたユウトウセイってやつだったけど、今はぜんぜん。それでもいい子っちゃあいい子なんだけどね。どうしたのかな」
はやく、はやくあなたに会わないと、と私は思った。
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こうなっては仕方なく、トイレに向うことにした私はトイレの場所がどこか分からないことに気付いた。酷く方向音痴だったので、長い間彷徨ってしまった。
この女子高の校舎は、どうやらそれなりに歴史があるみたいで、古い校舎を第一校舎としてその周辺に三つの校舎が繋がっていた。曲がりくねっている廊下を歩いていくうちにトイレのマークが見えるだろうと思っていたが、そんなことはなかった。この学校は増改築を繰り返したせいで意図せず迷路のようになってしまったようだ。そのせいで、人通りのなく電灯もついていない通路にて、三年とおぼしき女生徒が一年とおぼしき女生徒に暴言を吐いている嫌な場面にも出くわしてしま