【BNSK】月末品評会 in てきすとぽい season 4
 1  6  7 «〔 作品8 〕» 9  11 
ことりと落ちる
投稿時刻 : 2014.06.30 23:50 最終更新 : 2014.06.30 23:53
字数 : 1657
5
投票しない
更新履歴
- 2014/06/30 23:53:42
- 2014/06/30 23:50:55
ことりと落ちる
雨之森散策


 ――それは例えば、冷蔵庫に貼り付けたキチン用のハンガーだろう。
 あのハンガーは吸盤の吸い付きがいつも悪くて、何もしないのにことりと突然落ちてきたりする。
 洗て乾かしたばかりの布巾がハンガーもろともに落こちたりして、おまけに床に落ちた布巾を知らずに僕や兄がスリパで踏んづけたりなどすると母はまるで泣くような高い声で怒たりした。
「細けえ事にいちいちうるせえな」
 その夜は珍しく兄が早く帰てきていた。勢いよく麦茶をグラスに注ぎながら兄は聞こえよがしにそう言い、ばたんと音を立てて冷蔵庫のドアを閉めた。
 母は何も言わずに布巾を拾て洗い桶に浸け、そして大げさな動作で布巾を洗い始める。兄はそれを見て軽く溜め息をつき、肩をいからせ台所を出てゆく。三十歳を間近にして兄は父に似てきた。
「手伝おか?」
「いいよ」
 手の差し伸べるつもりで言た僕の申し出を母は素気なく払て無心に布巾を洗う。
「それ洗うからさ」
「いいて!」母は僕の方へ向き直りもしない。
 強く言われると無下にされた気分になり、僕も兄を倣うように台所を出てゆく。
 母はまだ布巾を洗ている。
 僕は、兄のセリフと似たような事を思いながら父が使ている五畳の和室の前を通り、二階への階段を上がる。父の不在にもすかり慣れてしまていた。
 先月に父は脳梗塞で倒れ、入院してそろそろ三月。右半身の麻痺と言語が少し不明瞭になたものの、なんとか一命は取り留めた。それから母は、週に三回パートの帰りに必ず病院へ立ち寄ているが、母の口から伝えられる父の病状報告は愚痴の成分がかなり多く混入されており、兄も僕もまともに聞くことはない。
 父の病はついてはなるべくしてなたと呼ぶべきものであり、その点については僕は兄と意見と同じくしていた。
「あのおさん、退院したら絶対に酒飲むからな。見とけよ」
 いつかの日曜日の昼、テレビを見ている僕に兄はそう言た。
 兄の言葉には怒りや諦めを通り抜けた笑いさえある。兄にとて父は《父さん》や《親父》ですらない、《あのおさん》だた。父によく似た兄が父をおさん呼ばわりする様は少し滑稽で、同時に悲しいものとして僕の記憶に残た。しかし、僕や兄から見える病身の父の風景には当たり前のように母がいて、それを当たり前だと思いもしなかた。
 例えば、キチン用ハンガーのようにことりと突然、何かが落ちくる。その事に兄も僕も気がつかない。
 気がつかないまま、それぞれの当たり前の毎日を踏んづけてゆく。そしていつか、僕たちは床に落ちた布巾を発見する。
 母が書いた手紙は母の部屋の引き戸に挟またまま、僕にも兄にも気づかれずにいた。
 母はその日、僕と兄が気づかないまま家出をして、僕と兄が気付かないまま家に帰て来た。
 その時ちうどアルバイトから帰た僕と出くわした母は、上着も脱がないまま引き戸からことりと落ちた封筒をひどく慌てた様子で拾い上げ、ポケトに隠した。そしてそれを訝しむ僕に、まるで幽霊のようなこわい顔を向けた。
 僕は封筒の内容を督促状か何かじないかと執拗に問いただしたが、母の目に涙まで浮かんでくるとその考えは吹飛んだ。僕は母の異常にやとで気がついたのだ。
《一生懸命何か書こうとしたけど、結局なにも書けなかた》 
 母は自分の家出と封筒の内容をそう説明したが、それがすべて本当の事なのか今は聞こうと思わなかた。
 あの時、母は疲れていて、封筒を残して出て行て、そして戻てきた。それだけが事実だた。
 ――新しいものに買い替えたキチン用のハンガーはもう落ちる事もなくなた。
 それから一月して、父はリハビリを終え退院したが、兄の見立て通りすぐに酒に手を出した。
「バカは死ななき直らん」
 兄は父についてはそう言たきり、見放す構えのようだ。僕はアルバイト先をまた変えた。
 母はパートを辞めて毎日甲斐甲斐しく父の世話をしている。しかし僕か、兄か、あるいは父が母の引き戸を開ける日、いつかきとあの便箋の中身はことりと落ちてくる。あの日の母の鬼のような顔と涙はまだどこかにしまわれたままだ。

<終>





 
← 前の作品へ
次の作品へ →
5 投票しない