レイテンシィ
階段のかなたから足音が聞こえる。「資料室」の暗がりのなかで身を縮める。ドアの明かり窓がぼんやりと白くなる。踊り場の電燈がついたようだ。
「三階までは上が
ってこないことも多いよ。先生にもよるけれど、真っ暗な会館の階段なんて上りたくないもん」
三年の柚希先輩の言葉を思い出す。1/2の賭けは悪い方に出たみたいだ。
大翔のシャツがもぞもぞと動く。今年の「れーてんしー」つまりLatency(潜伏)係のパートナーだ。嗅覚がすこしずつ鋭敏になってくる。息遣いのにおいが変わった気がする。
例年九月に行われるわが資生館高校の文化・体育祭「資生祭」は、一年から三年までのクラスを縦割りにして八つのチームを作る。文化祭はステージと展示、体育祭は応援とダンス、それに競技のポイントで競い合う。リーダーの三年生は少し不自然なくらい熱血的になって一・二年生を指揮する。応援・ダンスについては五月ごろから演武・振付のメニューを決め、チームの確定する八月からは毎日、呼び出して練習に入る。一応、学校での練習時間は放課後、六時までだったけれど、もちろんそんなもので許されるはずはない。いったん解散した後、午後八時に集合がかけられる。場所は運動公園や球場駐車場、神社の境内などさまざまだった。そこで午前二時くらいまで練習して、帰宅、仮眠、登校という毎日になる。去年は一年生で、何もわからないうちにダンスのメンバーに入れられて、気が狂いそうになった。衣裳は型紙を渡されて各自で自作することになっていたけれど、このスケジュールで作る余裕はない。みんなそうらしいけれど、結局はママに泣きついた。型紙を見たママは言った。
「これ、絶対に作る人間のこと考えてないでしょ」
ママはものすごく頑張ってくれた、らしい。私は毎日、帰宅するなりシャワーを浴びてぶっ倒れていた。仮縫いするときも半分くらい寝ていた。苦闘するママを見て、大学時代演劇部だったパパは言った。
「両面テープと針金、あとホッチキスがあればイケるんじゃないか?」
舞台衣装ならそれでいいかもしれないけれど、ジャンプしたりピラミッドの上から飛び降りたりするダンスのコスチュームとしては無理だと思う。パパの合理化策はあっさり退けられて、ママの労作のおかげでなんとか、本番に耐えうる衣裳ができた。
今年はかなり強烈に自己主張をして、ステージ係になった。「愛莉、去年のダンスうまかったじゃん」「やっぱ愛莉が適任よね」という悪魔のような声を振り切るについては多少、人間関係も犠牲にした。「結衣のところ、去年優勝したよね? ここはぜひチャンピオンのノウハウを活かしてほしいな」「杏のジャンプ、あれは真似できないよ。最後にキメてね!」めまぐるしく変わる目つきをかいくぐって、ステージ係をゲットしたときには、もう終わってもいい気がしていた。
予想通り、ステージ係は応援・ダンス係ほどの拘束はなかった。そもそも、台本が仕上がらないのだ。リーダーの三年生の中でも、リーダーシップが取れる人は応援、ダンスの担当になり、ステージはその次だった。一番おとなしい人は展示を担当する。おとなしいなりに着実に準備を進めるのも展示で、つまりステージ係はちゃらんぽらんなメンバーばかりが揃っていた。去年、あるチームは、舞台上に台本を広げて置き、うつむいて読み上げながら劇をやる、という力技をカマしていたくらいだ。今年のステージ係も、あれやこれやと悩んだ挙句、八月の終わりになってようやく台本が決まった。「おおきく待ち構えて」というバレーボール劇だ。全員体操服でいい、というのが斬新というか、ありがたかったけれど。
練習は放課後、二年生の教室で始まった。私は出演者になってしまった。子どもの頃のトラウマを抱えていて思い切ってアタックが打てなくなり、チーム内で孤立するけれども最後には勝利に貢献するレフトの女の子役だった。しょっちゅう口ごもっていればいいのは楽だったけれど、キャプテン役の朱里にしょっちゅう罵倒される。しかも朱里は徐々にノリノリになってきて、こっちも本気で腹が立ってくる。
「ここで取っ組み合いでもすれば盛り上がりませんか?」
思い切って提案してみたけれど、監督の三年生はにべもなかった。
「十分間だから」
最後に感極まって抱き合う場面で朱里の首を締め上げることにして、ひたすら耐えた。
ステージ発表なら、やはり実際に舞台で合わせてみたいところだ。本番で使う体育館のステージは、演劇部と吹奏楽部、それに軽音楽部がローテーションで使っていて、チームの舞台練習はできなかった。三年の柚希先輩が言う。
「資生会館四階の小体育館。あそこで練習するんだよ」
資生会館は学校敷地の南端に建っていた。一階が食堂と購買、二・三階が選択教室、そして四階が「小体育館」と呼ばれていた。バレーボールのコートならぎりぎり一面、バドミントンのコートは二面だけ取れる、というフロアで、いつもは運動部の一年生が交代で使っていた。広さの割には天井近くにギャラリーもある。
「警備会社の警備対象外でね、こっそり忍び込めば朝まで使える」
ただし、と柚希先輩は声を潜めた。
「先生もそのへんわかってるからね。夕方に見回りして、きっちり施錠していく。だからそれまでに忍び込んで、見つからないように館内に潜伏して、職員室が無人になったところで入り口の鍵を内側から開けて皆を呼び込む。例年、この潜伏係は『れーてんしー』ってよばれててさ。勇気ある男女に許された大役なんだ」
「れーてんしー」は先輩からの指名で決まる。まず、付き合っている相手がいる子は選ばれない。そして、どう考えても相手にとって罰ゲーム的な立ち位置の子も外される。
「要するに、暗い中に二人っきりで、ヒアウイゴーになってもいいかなって子に回って来るんだよ」
「それって、うれしいんだか情けないんだか分かりませんよねー」
そう言って、私は笑ったんだ。
その三日後に、私は大翔とともに「れーてんしー」を拝命した。
夕方、会館前で大翔と落ち合った。同じクラスで、ときどき話すことはあったけれど、二人きりになるのは想定していなかった。
「ごはん、どうする?」
大翔が言う。
「もう、すませてきた」
「あ、俺も」
何を喋っているのかわからない。でも、大翔の顔をまともに見ると気が変になりそうだった。
そのまま、二人で会館へ入る。ひとのいない会館内は、踊り場の窓から差し込む夕日に古めかしく染まっていた。階段を上って、三階のフロアにたどりつく。「資料室」のプレートがぼんやりと見える。ここが「れーてんしー」の本拠地らしい。ドアノブをそっと回す。室内はソファが五脚、運び込まれて、暗幕と机が積み上げてあった。
ドアを閉める。部屋には窓がなかった。電灯をつけて、向かい合ったソファに座る。大翔はバッグを隣に置いて、両ひざをそろえている。
「このままでいるんだよね」
「うん、たしか八時半くらいまでかな」
「緊張するね」
「うん」
そんなことを言い合っていた。
途中でトイレに立った。帰