【BNSK】品評会 in てきすとぽい season 7
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嗚呼神保町
投稿時刻 : 2014.10.11 23:57 最終更新 : 2014.10.11 23:59
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- 2014/10/11 23:59:14
- 2014/10/11 23:57:42
わかる人にはわかるもの
すずきり


 神保町は世界で一番古書の集まる町である。ジンルは問わない。古今東西、学術専門書、絵本、雑誌なんでもござれ。無論最新刊が欲しければ三省堂本店もある。古いのが欲しいなら、神保町はこれ以上なく適している。絶版になてしまた文庫本、出版部数の少ない昔の雑誌類、探せば見つからぬ本は無かろう。そんなものは近所の古本屋で事足りると申したければ申されよ。ここは神保町。全ての本が行き着く町。清王朝、ヴクトリア朝、室町時代、果ては紀元前の古文書だて取り扱う店があるという評判さ。

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 芥川龍之介の最高傑作に「偸盗」なる一作の中編小説がある。何ご存じない?それは結構。いやいや恥じることはない。芥川自身「偸盗」は気に食わないそうで、自らの全集に数えず、無かたことにしようとした位であるから、仮令知らなくとも貴兄が無知蒙昧なる文学音痴とは言い切れないはずである。しかも最高傑作というのはここだけの話、個人的な評である。
 ところでここに凡なる一大学生が信念もなければ金もないという貌をしてフラフラと神保町を彷徨ている。彼は文学部の所属で、文学芸術界の末席に座す身分でありながら書物など碌に読みやしない上に開き直て、高尚なる学問世界の面汚しを自任して吝かでない男なのである。
  そんな彼とは最も縁遠いと思われる古書の町に何故この男は来たるか。
 何でも、ボンクラの能無し穀潰しが何かを機に雷に撃たれたが如く閃きを得るや否や、品行方正にして努力を惜しまぬ快男児へ変貌するという物語は東西問わずにあるらしい。世間一般に「天啓」と呼ばるるはその様な雷の閃きかと思われるのであるが、どうやらその天啓がこの男にも降て当たたらしい。それも、その雷の正体が何を隠そう冒頭で触れた「偸盗」であるようだ。
 歩く身分詐称たる彼は、しかし籍を文学部に置く以上、更に専攻が国文学である以上、更にさらに属するゼミが大正文学に重きを置くとすれば、芥川を読まん訳にはいかないのである。大正時代の文学黄金期を築いた諸文豪の中でも、芥川ほど重要な作家は居ない。「羅生門」を読んだことがない日本人は居らんという話である。
 ゼミの教授は芥川の専門であるからして、自らも芥川作品を専門とすれば卒業論文は教授におんぶに抱こで楽が出来るのではあるまいか、という算段も企てた上で、文学のぶの字も知らん彼は青空文庫で試しに「偸盗」を読むに至たわけである。夜中、それを読んだ彼は、びびと痺れた。万年床に半裸で寝転がりながらiPhoneで目を通していたわけだが、あまり内容が面白く、興奮したので、寝返りを頻繁にごろごろやるもんだから階下のお姉さんからドンと床を突かれた程である。「小説て面白いんだな」と、教育が行き届いておれば小学校高学年で抱きそうな感想を今更抱いた彼は、読了後の興奮のままに「芥川全集を買いに行こう」と意志を強くした。中編小説の一つ読んだくらいでいきなり全集とはずいぶん大きく出たものである。しかし、ものをよく知らないが故に遠大な目的を抱いたり尊大な意識を抱くのはありがちなことだ。そうしたある種の無鉄砲が、人を図らずも大きく前進させるという話も珍しくない。
 さてそんなわけで神保町である。百八十の古書店が狭苦しくよくもまあこれだけ集またなという具合に集合している。何故彼は全集を買おうと言てわざわざ神保町まで来たのか。勿論金の不自由なことは明らかであるから、新刊を買うわけにはいかない。となれば古本だ。古本屋ならどの町にでもありそうなものだが、山車は祇園、喧嘩は江戸、古本は神保町という風な単純な連想ゲームでもしたのに相違いない。
 本、本、本、そして本。本が湧いて来るわき水でもあるのかと怪しまれる程大量の本。店に入るまでもない。歩道を圧迫するほどせり出したワゴンに本が敷き詰められている。しかも一冊百円とか、五十円とかいう価格である。筆者の汗水たらして制作した渾身の一冊が、ここでは駄菓子とそう変わらんのはなんとも不憫だ。店内に入りきらなかたと見える本棚が軒下へ飛び出している。そしてガラス戸から透けて見える店内は床から天井まで隙間無く本である。そのまま映画の撮影に使えそうなほどの、非日常的な異空間。文庫本ばかりの店もあれば、画集ばかりの店もある。シンドウには全集の文字もちらほらと見える。ぱと通りを眺めただけでこれである。果たしてその全貌は如何程のものか。
 男はこの異常な世界に圧倒されながらも、自己を奮い立たせ、芥川全集を探す事にした。これだけ多くの本の森から、一本の木を見つけるのはさぞ骨折りだろう、と見当をつける。演技がましく自らの頬を叩きいざ行かん、と一つ目の店に入る。全集それ自体はあくまで最終目標であて、それまで存分にこの町を楽しもう、そのような心意気であた。しかし、一店目の、入てすぐそこの棚に、果たして芥川全集があた。最終目標達成の瞬間である。
 が、男は、全集を手に取らず、店を出る。
 実に不可解な行動である。しかし男の内心では、実は激しい葛藤があた。
 彼の心の分身の甲が言う。
「やたぞ!早速欲しいものが見つかた!ささとこれを買てしおう。早ければ早い程良い。そのぶん読む時間が沢山できるぞ」
 彼乙が答える。
「甲よ、よくよく考えてみたまえ。君は本当に芥川の全集など欲しいのかい?」
「なんだと?」甲は訝る。
「つまりだね、今の君は、いや私もなのだが、丁度熱に浮かされているようなものなのだ。芥川熱だ。よくよく考えれば、全集など身に余る。青空文庫でも読めるし、せめて文庫本一冊でも買て、読了してから考えたらどうだ」
「成る程」甲は唸る。
「無論、文学の士たる私が、全集を買うのは全体良い事だ。しかし浅慮はいかん。落ちついて、まずは考えよう」
 と、こんな具合であるらしい。彼が文学の士か否かと言う点には議論が待たれるが、それはさておき、彼は店を出ると靖国通りをそぞろにうろつき始めた。学生らしき男女、紙袋を抱えた老人、スーツ姿のサラリーマン、ありとあらゆる人種で混雑している。誰が欲しがるか分からん骨董品みた様な本を欲しがる人間がこれほどいるとは、目の当たりにして尚信じ難い。漬物石にしかならなそうな分厚いハードカバーを後生大事そうに抱えて歩く婦人、真黄色になた和綴じを立ち読みする髭の老人。どんなものにも価値を見いだす者が居る。ここに集まる殆どの本は、がらくた、ゴミと言て良い。しかし、ある特定の誰かにとては多いなる宝となる。ウン億円とか、ウン千万円の古書も実在するから、本当に宝である場合もある。
 芥川全集は彼にとて価値ある宝になりうるだろうか。
 彼乙が言う。
「昨日の夕飯は何だたか」
 甲が答える。
「松屋」
 乙は続ける。
「一昨日は」
「吉野家」と甲。「それがどうした」
「以上からも推察される通り、家計は火の車。それだけ食費を抑えてもエンゲル係数は非常に高い。三千五百円の全集は、成る程破格の安さかもしれん。しかし、相対的に安くとも、私にとては絶対的に高い」
「確かに」
「だろう。やはり全集など買える身分では無い」
「よくわかる。しかしな」甲が反論する。「何か一つを極める、ということは他事には代え難い程大切なことだ。そして難しいことだ。スポーツ等特にそうだ。野球、サカー、なんであれ継続し、技術を身につける事は素晴らしい。それは人生の財産といていい。・・・そんな財産が私に一つでもあたろうか?」
 乙は黙り込む。
「蓋し全集を読むことは、自分の財産となりうる経験になる。作品を一つ二つ読んだ事があるなどという事よりも、色んな作家の作を手広く読んでいるよりも、たた一人でも隙無く網羅することは価値があると思う。何か一つ。極める、という経験が必要なのではないか。それは自信にもなる。芥川の事なら誰にも負けんぞ、というモチベーンにもなる。三千五百円などどうとでもなる。そうは思わないか」
 甲の思いがけぬ熱弁に、乙は完全に説得されてしまた。一応誤解無きように一言付け加えるが、あくまでこれは彼の内心の葛藤であて、甲乙は便宜的な人格である。
「確かにそうだな。私には何も無い。楽器やスポーツもできん。趣味と言うべきものが何も無い。ゲームだて碌にクリアもしないで止めてしまう。とりわけ残念なことには友達もおらん。自分と言うものを振り返てみると、あまりに何も無いから愕然とするときがあるくらいさ」
「だから何事にもやる気が起きない。どうせ途中で、投げ出してしまうと決めつけてしまうからな」
「どうせ自分なんて、が思考の前提条件なのだ」
「それを脱却する術があるとしたら」
「是非とも挑戦するべきだ」
「ならばやはり全集を」
「買おう」

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 ここは神保町。なんでも揃う。全てが無価値で価値がある。けれども、一瞬の迷いが命取り。貴方にとての宝の一冊が、他の誰かにとての宝でないとは言い切れない。

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 全集の埋まておた本棚のスペースがぽかりと空洞になているのを見つめながら、彼は肩を落とす。再び店に戻てみると、芥川全集は、既に誰かの手のうちに渡てしまた。「はあ」と彼は息を吐く。気付けば日も落ちかかている。ビルデングの狭間から赤い光が差す。とぼとぼと店を後にして駅に向かう背中はまた随分と寂しい。「またこうやて上手く行かないのか」と彼は失意に沈んでいるように見える。電車に揺られ、途中すき屋で牛飯を食べた。それから汚い下宿に着くや、彼は三千五百円を財布から取り出し、貯金箱に入れた。何の費用のために取ておくのか・・・彼だけが知ている。
 この小さな灯火を持ち続けることが出来るなら、きといつか、自分に価値を見いだすときが来るはずさ。

おわり
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