第2回 クオリティスターター検定
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投稿時刻 : 2014.10.19 00:12
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伊守 梟(冬雨)


 彼が死んで悲しむような者がいるのだろうか。
 彼はろくでもない人間だった。酒も飲んだし博打も打った。女についていえば半ば犯罪まがいなこともしていた。他人を下に見て誰の言うことも聞き入れなかったし、そのためにどんどん他人から避けられ、疎まれて、しまいには誰ひとりとして彼を信用しなくなった。中学生や高校生のころ「自分は何のために生きているのか」などと妙に哲学じみたことを考えたりしたけれど、彼はそれを生きながらに表現していた。そう、彼は誰のためにも何のためにも生きてはいなかった。彼自身のために生きているのかさえ傍目にはよくわからなかった。
 とある日曜の朝、町外れの用水路で彼は死んでいた。道の高さから2メートルほど下を流れる、なんてことのない用水路で彼は冷たくなって見つかった。「おそらく酒に酔って足を踏み外したのだろう」と、検分に来た警官は呆れたように言った。彼の無様な死体を見るために多くの人がそのとりたてて珍しいとはいえない用水路に足を運んだ。過疎がすっかり進んでいる田舎町にこんなにも人がいたのかと思えるくらいの人数だった。事件なのだ。きっと彼の死は疾風の速さで人から人へと伝えられていくのだろう。
 ただひとり同情をしたのは荒れ果てた寺のなまぐさ坊主だった。彼はもはや行き場所のない死体を引き取って、自身のいくばくかの財産を使い、荼毘に伏し、供養した。
 それから数ヶ月、 みな次第に彼のことを忘れていった。改めて言うまでもなく、彼はそういう扱いをされる種類の人間だった。

 彼の娘と名乗る女が現れたのは、それから3年後、蒸し暑い夏の日の午後だった。

 騒がしくセミが鳴いている。地平を青々とした水稲が覆う。空には入道雲が浮かび、道路には逃げ水が出現する。水色のワンピースを着た女が道路わきの用水路を眺めている。その背後を自転車が通り、彼女はふらっとバランスを崩す。
「危ないなあ」
 彼女はそうつぶやきながら、危険な自転車を目で追った。
「田舎だからって交通事故がまったくないわけじゃないもんね」
 独り言にしては大きく、誰かに話しかけるにしては小さな声で彼女は言う。
 そして女は涼しい顔でその場をあとにする。湿った風が長い髪を揺らす。パステルカラーのサンダルがアスファルトに当たってコツコツと音をたてる。夏の日差しは年を追うごとに鋭くなっているような気がする。なのに彼女は汗ひとつかいていない。
 彼女の父親が眠る寺はずいぶんきれいになっていた。荒れ果てた、という表現はもう似合わない。一般人が想像できる程度の小さな寺は、一般人が想像できる程度に掃き清められ、木々や庭石、青銅色の釣鐘も適切に手入れされていた。
 女は寺の境内に入っていく。歩くべき場所を指示するように石が並んでいる。日光は木々に遮られていて少しだけ涼しい風が頬に当たる。
 女は不躾に寺の本堂の横に立つ古い住居の玄関のドアを開け、住職の名を呼ぶ。叫び声にも近い、高く大きな声だ。一呼吸、田舎の沈黙が彼女を包んだあと、ずっと奥の方から返事が聞こえてくる。
「勝手に入ってきなさい」
 顎の先だけで頷いてから、女は小さなサンダルを脱いで、その建物の中に入っていった。
「久しぶりだな。何の用かね?」
 住職が言う。女はあぐらをかいて座る彼のうしろに立ち、全知全能の神でさえ気づかないくらい小さくため息をつく。
「わかってるくせに」
 女の言葉が終わるか終わらないかのうちに、住職は高々と笑った。
「まあ、な」
 剃りあげられた頭に、蛍光灯の光が反射している。齢七十にもなろうかという住職は、確かめるように目尻の皺を指で撫でた。
「金か?」
「まさか」
「例の、あれか?」
 女は答えず、髪をかきあげる。
「どこにやったか、覚えてなくてな」
 住職は背筋を丸める。目を閉じて、息を吸う。寺にはエアコンがない。もちろんこの部屋にもだ。数十年ものの扇風機が唸るように回っている。
「歳のせいか忘れっぽくていかん」
 畳には汗が滴り落ちていた。この汗が暑さからくるものなのか、彼の内心的動揺からくるものなのかわからない。どちらにしても大きな違いはないとも思えるし、視点によっては重大な何かが欠落している証拠のようにも思える。
「あなたはいつもそうね」
 空気中の水蒸気が一瞬にして凍りつくような声だった。
「覚えていない?忘れた?記憶にない?知らない?」
 彼女は黄土色に塗り固められた土壁に目をやる。寺の木々や庭石、釣鐘や本堂とは比較にならないくらい薄汚れている。天井の隅には蜘蛛の巣さえあった。
「いいかげんにせんか!」
 弱々しい老体から発せられた怒声は花火みたいに勢いよく部屋中に広がり、まもなく静かに消える。
「恩を徒で返すつもりか」
 脅すようなその低い声は彼なりの虚勢なのだろう。
「そんなこと、よく言えたものね」
「なにっ?」
 女はワンピースの裾をゆっくりとたくし上げる。女の太ももには黒く冷たい拳銃がある。白い肌と漆黒の拳銃が男の未来を予言しているようだ。女はサイ・ホルスターからその拳銃をゆっくりと取り出し、頭髪を失った住職の頭に銃口を押しつける。
「ま、待て」
 かすれた声で、住職は制止する。
「いつまでも待ちますよ、先生」
 僕は言い、女はニヤリと笑う。窓のない部屋が沈黙で包まれる。

 果たしてうまくいったのかどうか、僕には判断できなかった。結局、住職は死なず、女は少なくともここまでの目的を達成した。ただ、僕は僕なりに僕たちのしたことはフェアじゃない、と思う。
「あなたに相談して良かったわ」
 女は拳銃をテーブルに置く。ごとんと、鈍い音が聞こえる。「私、ああいう口論って苦手なのよ。すぐに実力行使にでちゃう」
「君ひとりでもできたことだよ」
 僕は缶ビールを飲む。わりとすぐに実力を行使したようにも思えるけれど、彼女にとっては「すぐに」ではなかったようだ。あるいはそこにある拳銃の引き金を引かなかったことを言っているのかもしれない。
 僕の言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼女は登山に行くときに使うような大きな迷彩柄のリュックサックからトリスのポケット瓶を取り出し、蓋を開け、そのまま一口喉に流し込んだ。
「ずいぶんと大がかりだし、それに物騒だ」
 その姿を見た率直な感想だった。渡航禁止の指定をされた国へ遺跡や化石を発掘しに行くかのような装備だ、と思った。爽やかな水色のワンピースには武骨なリュックサックも、トリスも、その拳銃も似合わない。
「そうかな?」
「うん」
 僕は鈍く光る人殺しの道具に視線を向ける。ブローニングM1910。僕のささやかな知識によれば、そんなものを持っている人なんておそろしく限定されている。
「ああ、これね。私のことを殺し屋か何かだと思った?」
 あまりにも軽い口ぶりで現実離れしたことを言う。仕事柄、何度か殺し屋と呼ばれる人種と顔を合わせたことはあるけれど、彼女からは彼らと似た匂いはしない。たとえば硝煙の匂いとか、湿った土の匂いだ。
「さあ、ね」
 僕がただそう言い、彼女は納得したように二度頷く。僕には彼女の頷いた理由がわからない。
「仮に私が殺し屋だとして、殺し屋がわざわざ自分から『私は殺し屋です』って言うと思う?」
「それは、時と場合によるな」
 僕は缶ビールを飲む。
「ふうん」
 寺から戻った彼女と僕は、僕の住む家のリビングでひとときの休憩をとっている。夜になればまた出かけなくてはならない。「ところで」と彼女は言って、トリスをもう一口飲む。
「先生って、なんなの?」
 右肘をテーブルにつけて頬杖をつく。彼女の細い腕を柔らかそうな髪がさらりと撫でる。
「あの寺の住職は僕が小さいころ私塾をやっていたんだ。だから、先生」
 どうしてそんな細かいことが気になるのか僕にはわからない。僕が誰を何と呼ぼうが勝手じゃないか、とさえ思う。とはいえ、僕のこの考え方も小さいといえば小さい。
「あの男が?」
 女はつぶらな瞳をさらに大きく開けて驚く。
「どうしようもない男よ。父の財産をすべて手に入れたっていうのに、それだけじゃ気が済まないのか知らないけど……」
 僕はむしろ、彼女の父親に他人が手に入れたいと望むほどの財力があったことに驚いていた。彼こそどうしようもない男だった。少なくとも、僕が知る限り。
 僕は缶ビールを飲み干す。それを見て彼女はトリスに口をつける。
「少して寝ておいた方がいいんじゃないか?」
 僕は冷蔵庫から新しい缶ビールを取り出した。よく冷えた、旨い缶ビールだ。
「……、そうね」
 彼女に残されたトリスはもうほんのわずかだった。それほどたくさんの量を飲んだわけじゃない。もともと3分の1も入っていなかった。
「あなた、何も聞かないのね」
 女は頬杖をついたままで二度、三度、まばたきをする。長いまつげが洗練された美しさを創造する。
「余計な詮索はしないんだ。面倒だからね」
「なるほどね、でも」
 そう言って彼女はトリスを空ける。
「名前くらいは聞くものじゃないかしら?」
 両頬にえくぼができる。白い歯が口元からちらっと見える。淡いピンク色の唇は妖艶な女のそれだ。
「当たり前のことだけれど、この組織に仕事を依頼する人はだいたい匿名希望なんだ。それに、名前はそれほど重要じゃない」
「お金さえ払えば誰だって同じ?」
 その、ピンクの口元を歪ませる。彼女も僕の所属する組織に対しそれなりに多額の前金を払っているはずだ。
「そこまで割りきっている訳じゃないけど」
 僕は微笑んだ。当たり障りのない笑顔で。
「でも、名前を知らないんじゃ呼びにくいわ」
 彼女もつられたように微笑む。テーブルの上に置かれた拳銃以外は実に平和な昼下がりだ、と思う。エアコンの効いたリビングは快適だし、よく冷えた旨い缶ビールがあるし、何よりも目の前には美女がいる。
「なるほど、それも一理ある」
 僕は腕を組む。「J、でいい」
「J?何かの略なの?」
 女はキョトンとしている。僕はうつむき、目をつむって首を振った。
「君のことはなんて呼べばいい?」
 僕は缶ビールを手にとって、一口飲む。
「そうね。不二子、ってのはどう?」
 そう言って彼女は胸を張る。僕や誰かの知っている不二子にはとてもかなわないながらも、存外にボリュームのある彼女の女性的な部分を僕は凝視してしまう。
「悪くない」
 僕はその極めて男性的な視線をわきにそらしつつ、言った。
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