Ｐ
ある日のこと、俺は妙な噂を耳にした。
噂というより、都市伝説の類だ。都内のどこかの駐車場には、スフ
ィンクスのような主がいる。車を停めた後である条件に応じないと、命を獲られてしまうという。その条件が何なのかは分からない。いずれにせよ古代エジプトではあるまいし、世界に名だたる法治国家のこの国でそんな馬鹿なことが起きるはずは断じてない。
その日、俺は購入間もないハチロクで新宿に向かっていた。休日だが、仕事で書類を作らなければならなかったのだ。３，４時間で終わるはずだから、その後はどこかへ足を伸ばそうと思っていた。なにしろハチロクだ。ＦＲだ。おまけに俺の車は６速MTだ。休みの日は、峠を攻めるためにあると表しても過言ではない。
が、しかし、である。
俺の職場はアジア有数の繁華街の一角にある。車で来たものの、駐車場を探すのも一苦労だ。一方通行の道を行ったり来たりしているうちに、ふだんあまり足を踏み入れたことのない路地を俺は走っていた。そして、やっと見つけたのだ。空きのある「Ｐ」の看板を。
「Ｐ」と標されているからには、当然、駐車場である。停まっているのも、もちろん車である。が、俺の頬は激しくひきつっていた。どれほどひきつっていたのかは、ルームミラーで確認するまでもない。そこに停まっていたのは、自慢のハチロクがかすんで見えるビンテージカーばかりだったのだ。
フェラーリF12ベルリネッタ、ランボルギーニ・アヴェンタドール、ランチア・ストラトス、シェルビー・コブラ、ブガッティ・ヴェイロン、トヨタ2000GT。名車博物館のように、古今東西のスポーツカーがずらりと並んでいる。駐車場の敷地に半分突っ込んだまま、俺は固まった。目の前がまぶしすぎて、先に進む気になどなれやしない。
「すみません。お客さん、ご利用ですか？」
呆然としていたら、耳元でコツコツと音がした。横を向けば、小太りの爺さんが運転席の窓を叩いている。
「ご利用って、やっぱりここ駐車場なの？ 何やらすごい車ばかり停まっているけど」
ウインドーを開けて確認すると、爺さんは表情のない目で看板を指差した。
「あそこ、Ｐって書いてあるでしょう？ お客さんは頭よさそうだし、Ｐの意味はご存知かと思いますが」
「そりゃあ、分かっているけれど」
「では、問題ないですね。準備はよろしいですか？ 私は必ずグーを出しますよ」
「え、ちょっと待って。準備って何？ ここ１時間いくらなの？」
おもむろに右の拳を握り、小刻みに揺らしている爺さんに、俺は問い質した。なんの準備がよろしいのか、まったく不明だ。爺さんは俺を逃がすまいとするかのように、サイドミラーにぴったりと身体を寄せていた。
「ここの駐車場代はタダですよ。お客さんがジャンケンで勝てばね。あいこもなしだったら、そこに停まっている好きな車と交換していいですよ」
「好きな車って、まさか……」
「あそこの平べったい車や、屋根のない車です」
「つまり、ランボルギーニやコブラのこと？」
「そうですね。特にあのコブラやヴェイロンは、売ったら大変なことになりますよ。状態がいいから、二億近くはいくでしょう」
俺を唾を飲み込んだ。誰が売ったりするものか。もしコブラやヴェイロンを手に入れたら、死ぬまで乗りつづけるのだ。あれを棺桶にできたら、なお最高だ。
「だけど、爺さん。この車だって、ローンがたっぷり残っているんだ」
「心配ご無用です。私は必ずグーを出しますから。ホラじゃないですよ。これは神のお告げでやっていることなのです」
そして、そーれジャンケンポーンという掛け声に、俺は無意識に反応していた。この爺さんが言っていることが本当なわけがない。俺は裏をかいて、グーを出した。
「はははー。爺さん、やっぱり嘘をついていたな。それパーじゃないか。無効だ、無効。インチキしたから、車をもらっていくぞ」
思い切り開かれている手の平を指差して、俺は言った。これでも空手茶帯、柔道白帯、書道三級だ。お母さん、いかつい顔に生んでくれてありがとう。
「嘘？ インチキ？ 負けたからイチャモンづけとは、感心しませんね」
眼光を鋭くすると、爺さんはシャツの袖をまくった。爺さんの太い上腕には、たしかにグーがあった。たぶんなんとか天王とか阿修羅の握り拳だろう。それは、もんもんで描かれた巨大なものだった。
しかし兄さんは親切な人だ、とドスの効いた低い声で言うと、爺さんは手を伸ばして素早くハチロクのキーを抜き取った。
「折角、看板を指差してあげたのにねえ。ここは兄さんも知っての通り、パーキングなんですが」
「え？」
「私、パーで勝ったでしょう。だからパーキング。なんてね」
「もしかして、あのランボルギーニや、フェラーリも……」
「さあ？ なんのことでしょう。ま、お客さんもアジアかロシアを旅行する機会があれば、またこの車と出会えるかもしれません」
車の中でエクトプラズムを吐き出す俺を、サングラス姿の男たちが引きずりだした。
東京の駐車場には、スフィンクスがいるという。
俺はこれから仕事をしなければならない。
すでに手元にはない、騙し取られたハチロクのために。