法螺ばなし
男は焼酎の瓶の蓋を開け、それを口に含む。それほどの量じ
ゃない。正確には測れないけれど、せいぜい十数ミリリットルというところだろう。
次に男は薬袋から処方薬を五シート取り出す。シートからひとつひとつ丁寧に押し出された五十錠の白い錠剤は、きっと男の目的を成就させないだろう。それでいい、と男は思う。その化学物質はプロローグにすぎない。
男は喉仏を上下に動かし、さっき口に含んだ焼酎を胃に落とす。かっ、と食道が熱くなる。
濃い緑色の瓶にはまだたくさんの液体が残っている。二十五度の焼酎だ。男にとってそれは重大な問題ではない。アルコールであること。それだけで十分だ。
男はもう一度その緑色の瓶から口の中へ焼酎を流し込む。そしてそのままの体勢で白い錠剤をまとめて口へ放り込む。数は数えていない。でも、一度に飲める薬の量は十錠かそこらだ。他の処方薬と比較してその錠剤は大きいのだ。 豆粒と団栗くらいの違いがある。
五回目の服薬で取り出した錠剤はすべてなくなった。時間にして十分くらいだろうか。男は五回焼酎を口に含み、同じだけ錠剤を飲んだ。
胃に少し痛みを感じるけれど、悪寒がしたり吐き気をもよおしたりはしていない。多くの場合、ここで飲んだものをすべて吐き出してしまうらしい。しかし幸い、男は薬にも酒にも体が慣れている。
男はラッパ飲みで緑色の瓶に入った焼酎を半分ほどその体内に押し込む。顔が火照り、頭に空白が生まれる。霞がかった白だ。シナプスのいくつかが破壊され、コントロール不能な状態に陥っているのかもしれない。あるいは、放出されるべき脳内物質が放出されず、放出されるべきでない脳内物質が放出されているだけなのかもしれない。男はそのあたりのことをよく知らない。そもそも生体内の代謝関係とか、脳内物質やホルモンの増減とかに関して興味を抱いたこと自体ない。
眠くなる前に行動しなくてはならない、と男は思う。そのことの重要性はわかっている。
女はいつものように会社のデスクに向かっている。憂鬱な月曜日だ。
仕事は順調だ。やるべきことは多いけれど、ほとんどがルーティンワークだし、基本的に表計算ソフトウェアを人並みに使うことができれば誰でもできる業務だ。上司に資料の提出を急かされなければ、慌てふためく理由もない。
女は考えている。ポーチの中にある鍵について考えている。ポーチに入れてバッグの奥底にしまい込んだ鍵。返しそびれてもう使うことのない鍵。捨ててしまおうかと思ったけれど、捨てられなかった鍵。女はその鍵を今日の仕事帰りに返そうと思っている。
この鍵の本来の持ち主に会うことは、女にとって苦痛ではない。ただ、彼と会うことを希求したり、そのことに心をときめかせたりすることはもうない。彼は未完成だけれど──何をもって完成とするのかは個人の考え方次第だと思うけれど──、無害だった。過剰なほど人を思いやるけれど、無粋だった。まめだったけれど、アバウトだった。
女はトイレに立つふりをして席を離れる。彼にメールをしておかなければならない。鍵を返しに行ったところで、彼がいなければまったくの無駄足になってしまう。女は携帯電話から当たり障りのないメールを送信する。あとは、仕事が終わって会社から出るまでに返信があればいい。
デスクに戻り、女はコンピュータのモニタに向かう。さっき見ていた画面よりはるかに記号的に映るそのコンピュータディスプレイに、厳密に理由づけされた数字をきびきびと入力する。
波のような眠気が男を揺らす。ふと、サーキットトレーニングをしていなかったことに気づく。しかし、もう遅い。終わりは始まっているのだ。
男はタバコを吸う。ゆっくりと。眠気はまだ男を支配していない。だから、ゆっくりとタバコを吸う。先から立ちのぼる煙を見る。フィルターをくわえて思う存分煙を肺に入れる。深呼吸をするように、肺の奥にまで届くように煙を吸い込む。
わきに置かれた携帯電話のランプが青色に点滅している。メールだ、と男は思う。左手で携帯電話を手に取って、新着メールを開くための操作をする。何度かボタンを押し間違ったけれど、些細なミスだ。ほんの十数秒で男はその新着メールを閲覧し、内容を読み始める。
タバコの灰が床に落ちる。男はいっぱいになった灰皿でタバコの火を消し、身なりを確認する。ヘインズの白いTシャツにチャンピオンのハーフパンツだ。問題ない。何の問題もない。男は焼酎を一口飲んで、携帯電話を閉じる。
返信をするべきでない、と男は思う。うまく考えることのできない頭で選択する。返信をするかしないか。その難題についての選択に時間はかけられない。あと数十分もすれば男は眠ってしまうだろう。眠ってしまえばここまでしてきたことのすべてが無駄になる。
返信はしない。そう男は結論を出す。
携帯電話を握りしめたまま、男は這うようにしてトイレのドアの前へ行く。立ち上がれなかったわけじゃない。立ち上がるのが面倒だと思っただけだ。
携帯電話を持っていく必要なんてない。無意識だった。男は何の意図もなく左手に携帯電話を握りしめたまま目的の場所に向かい、やがてたどり着いた。
ドアノブから垂れたロープが輪になっている。男はそれを見てつばを飲む。終わりが近づいていることを認識する。
女は戸惑っている。返信メールが届いていないことに戸惑っている。初めてのことだったからだ。そうだ。彼が女のメールに返信をよこさなかったことは今まで一度もないのだ。
だから、男の部屋に寄って行こうと思った。
嫌な予感という不安定な思考は時間が経てば経つほど大きく膨らんでいく。何かあったのかもしれないという肯定が、特別なことがそうそう起こるはずはないという否定を食い尽くしていく。些細なきっかけであっても時間の経過とともに自信が揺らぎ、不安が心を支配する。
女が男の部屋に着いたのは午後六時半だ。確認はしていない。女の会社から男の家までおよそ三十分かかり、女が会社を出たのが六時だったというだけだ。
部屋は暗く、静かだ。女はドアチャイムのボタンを押す。一度、二度。物音ひとつしない。
帰っていないだけだろう、と女は思う。鍵をポストに入れて帰ろう。あとでそのことをメールしておけばいい。彼はそんなことじゃ怒らないだろうし、むしろ感謝の言葉が返信されてくるだろう。彼はそういう人だ。無害で、お人好しで、無粋で、まめで、アバウトなのだ。
返信。
女はポーチから鍵を出す。それをポストに入れようとして、手を止める。そして、その鍵を鍵穴に入れて右に四十五度回す。
カチャ、と音がしてドアは無防備になる。
女はドアノブに手を触れる。驚くほどひんやりとしている。手首を捻ってドアを引く。熱気とアルコールの臭いがむわっと女を包む。外はまだ十分に明るいのに、部屋の中は薄暗い。どうやら遮光カーテンがしっかりと閉められているようだ。女は、男が遮光カーテンの価値について力説していたことを思い出す。一歩、部屋に入る。すると、その熱気と臭いは一段と強くなる。
照明のスイッチの場所を女は知っている。玄関を入ってすぐにあるダイニングの照明を点け、部屋の奥に向かって進む。すでに汗をかいている。外とは違う種類の暑さだ。
居間に入り、寝室のドアを開けたとき、女のすべての運動機能が一瞬止まる。
男はベッドの横に倒れていた。その頭部の近くで吐瀉物が床に広がっている。アルコールの臭いに吐瀉物の臭いが混ざって、喩えようのない悪臭が漂っている。さらに、熱気がそれに輪をかける。
女はバッグから携帯電話を取り出す。誰かに電話をするべきことはわかるけれど、誰に電話をするべきかわからない。だから、女は交際を始めたばかりの恋人に電話をする。誰に電話をするのが正しいのか確認したかったのだ。
恋人の対応は適切だった。彼は男の友人だ。男は彼の友人だ。恋人は心から男を心配し119番に電話をして救急車を呼ぶように言う。女に「119番だ」と二度、三度と言い聞かせる。女は頷く。泣きながら何度も頷く。
男は動かない。息をしているようにもしていないようにも見える。女は恋人の指示通り救急車を呼ぶ。住所を間違えそうになり、状況や容体も不得要領な説明しかできない。それでも、救急車は十分程度で来るということだけはなんとか理解する。
女は床に座り込んだ。崩れ落ちたといったほうがより正確かもしれない。近づくこともできず、離れることもできない。涙だけが止めどなく流れている。
救急隊員の呼びかけに男は薄目を開ける。生きている、と女は思う。救急隊員は手早く男に処置をして、タンカに乗せる。そして、女にこの男の家族か否かを聞く。女は友人であることを告げると、彼らは女に救急車に乗って付き添うように求め、女はそれに従う。
救急車の中で女の携帯電話に恋人から着信がある。女は救急隊員に搬送先の病院を聞き、恋人に伝える。
夜が終わり、朝がくる。
男は女とその恋人に付き添われて、病院を出る。男の首には赤黒いロープのあとが残っている。
恋人は一度帰って仕事に行くことにすると告げる。女は、少なくとも今日は男のそばにいたいと言う。恋人は頷き、女は謝る。
私のせいだ、と女は思う。与えられた選択肢についてもっと誠実に考えるべきだった、と女は悔やむ。
男と女の乗ったタクシーは二十分ほどかけて、女の住むマンションに着く。視点の定まらない男を見て、女はまた泣いてしまいそうになる。
エレベーターで三階に上がり、女は自分の部屋に向かう。女は男の右手を自分の左手で握り締める。女は歩く。足を引きずるように男が斜め後ろをついてくる。
女の用意した麦茶が男の前に置かれている。出してから三十分以上経っているのに、手を付けられることなく置かれている。
テレビには炎天下の甲子園球場のグラウンドに水をまく映像が映し出されている。一昨日から夏の全国高等学校野球選手権大会が開催されているのだ。
男はうつろにその画面を見ていた。
女は注意深くその男を見ていた。
それから六年と七ヶ月が経ち、男は冬雨の名で「第一回 日本法螺小説大賞」に架空の物語を投稿する。