第22回 てきすとぽい杯
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生活音にご注意を
みお
投稿時刻 : 2014.10.18 23:43
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生活音にご注意を
みお


 家賃3万円、水道代を入れて32000円。ターミナル駅から徒歩3分、保証人も不要。部屋は狭いが全面改装でシステムキチン付き。
 安すぎる。怪しすぎる。いくら古くても、こんなマンシン、何か問題があるに決まている。
 例えば事故物件、例えばヤクザが住んでいる、例えば幽霊が出る。
 そんな警鐘が聞こえた気がしたが、田中学に迷ている時間は無かた。現在、彼はヤクザから全力疾走逃亡中。うかりと、ヤクザの女に手を出した。そんな一瞬の火遊びが、彼の人生に大きな影を落とした。
 前のマンシンにそのまま住んでいれば、その部屋が田中の血で事故物件になるところであた。

 ただし田中は勘が良い。ちとした危険をすぐ察知する。そのおかげで、彼はヤクザと間一髪のバトルを繰り返し、それでも生き残てきた。
 しかし今回は駄目だ。向こうも本気だ。二重三重に取り巻かれ、もう自宅にも戻れない。かといて、漫画喫茶やホテルにはあいつらの手先の目が光る。
 そこで、遙か遠くの駅を目指した。そこにある、小さな小さな不動産屋に駆け込んで、どこでもいいので急ぎで入れるマンシンを手配した。
 目の前の恐怖から逃れられるなら、事故物件だろうが幽霊だろうが問題は無い。
 大急ぎで契約書を取り交わしたのが今日の朝。夕方には大家と面会、鍵の登場と相成た。あまりのスピードに、またも彼の中の警鐘が鳴り響く。
 しかし、不動産屋はへらへら笑いながら、書類にぽんぽんと判子を押した。
「いやあ、最近はこんなもんです。一日だて空きが出ると家賃収入に響くてんで、嫌がる大家さんが多いんですよ。ちうどよかたですよ。この部屋、今日の朝に前の方が出ていたばかりで」
「でも即決なんて」
「あ、いやね。あなたの名前。田中さんての、先方さんがいたくお気に入りで」
「はあ」
「前の住人と同じ苗字なんですて。ネームプレート変えなくていいでし
 どこまで冗談なのやら分からない。雲を掴むようないい加減さで、田中は夕刻、そのマンシンに辿り着いた。

「ほんと、いいんですかね。こんないい部屋、こんなに安く借りちて」
「いいんですよ。ほら、いくら部屋を綺麗にしたといて、外観がぼろぼろでしう。だからね安くしてるの。若い人は、外が汚いと嫌て入てくれないんですよね」
 大家の渡辺は好々爺の風貌である。目が細い。その目が、肉の間に埋もれそうなほど、笑顔である。田中に鍵を渡す。田中はそと鍵を差し込み怖々覗き込む。何も無い。ただ、がらんとした綺麗なフローリングの6畳一間。前の住人の忘れ物か、カーテンがひらひら動いている。そのつど、光が磨かれた床に反射して、いやに綺麗な風景だた。
 ほうと溜息を吐いて振り返れば、すでに渡辺は背を向け階段を降りるところである。
 彼は階段に足をかけて、何かを思い出したように振り返た。
「そうそう。別に何てことはないのですが、一つだけお願いしておきますよ。あなたのお隣の方ね」
 渡辺は困たように眉を寄せて、小声となる。
「悪い人じないんですけど、ちと神経が細かくて。生活音をあまり大きく立てると、怒て壁を叩いてくるみたいなんです。前の方もそれに嫌気が差して出て言たみたいで」
 でも気にしなければいいんです。気にしなければ。
 と、大家は言て手を振る。大家が去てしまえば、そこは古くさいマンシンの廊下のみ。この階だけで5軒ほどはあるだろうか。どの部屋も、しんと静かだ。音もない。
 田中は周囲をじくり見渡して、静かにそと戸を閉める。きい。という音だけが、妙に廊下に響き渡た。

 隣人が音に敏感であるらしい。ということは住んで20分後に思い知らされた。
 この部屋はリフムはされているが、床のきしみが酷い。ちと立ち上がる。歩く。トイレに行く。歩くと床がぎしぎしと鳴る。
 そのつど、壁が鳴る。
 どん。
 最初は小さく、遠慮がちに。
 どん。
 次は少し大きく、神経質に。
 どん!
 三度目はさらに大きく、怒りを込めて。
 壁は必ず3度、鳴る。隣の住人が壁を殴り付けているのだ。
 ああ、煩かたか。と動きを止めると音は止む。しかし、少しでも動くと音が鳴る。
 そのうち田中の苛立ちが募た。生活音、なんてレベルじない。トイレの音で、水を出すだけで、歩くだけでなぜ壁を殴られなければならないのだ。これほど息を凝らして生活しているというのに。
……なんだ、ベランダが開いてるせいか」
 田中は寒さを覚えて顔をあげた。ベランダの扉が開け放しだ。カーテンがひらひら揺らめいているのは、そのせいだ。そういえば、部屋に入たときから、開けられていたようである。
「前の住人が閉め忘れたんだな……
 慎重に、まるで這うように進みベランダに出る。そとベランダから覗けば、下は植え込み。たた2階の高さだが、高所恐怖症の田中は震えて顔を背けた。
……
 ついでに息を潜めて隣を見る。ベランダとベランダは、防火壁で仕切られているが、10センチほどの隙間があるのだ。
 そこで田中は軽い興味を覚えた。
 どんな神経質な男が隣に住んでいるのだろう。もしくは女なのか。年寄りか、若いのか。
 そと覗いてみれば。
……
 ごく、至近距離で、目が合た。
……!」
 田中は悲鳴を上げる。同時に壁が大きくしなた。隣人が防火壁を叩いたのだ。
 隣人は隙間から田中を見ている。見つめている。隙間いぱいに目玉が広がている。数十センチの目玉だ。そんなもの、あるはずがない。
 しかし目玉はぎろぎろと田中を見つめる。田中が悲鳴を上げるたびに、防火壁を殴り付ける。
 どん、どん、どん、どん。
 やがて、壁が割れた。隙間から腕が伸びる。それは恐ろしく、巨大な手であた。

 ああそうだ。俺は直感が素晴らしいのだ。そのためにこれまで生き残てこられたのじないか。

 田中は心の中で悲鳴を上げる。この部屋を見つけてから、何度心の中で警鐘が鳴た。一つの危険から逃れるために、自身の発する警鐘を幾度無視した?
 しかし悲鳴は喉の奥で潰れる。恐怖で声がでない。全身の毛が逆立つ。
 逃げ場を探る。無い。先ほどまで開け放ていたはずのベランダの戸が閉まてる。
 壁を突き破り、真横に迫る、巨大な手。
 どうしようもなく、田中はベランダに足をかけた。身体が宙に浮く。
 大丈夫、ここは2階だ。いける。そう叫んだ。が、ぬう。と巨大な手が宙に突き出された。先ほどまで壁を殴ていた手である。
 それが、田中の身体をむんずと掴んだ。足が砕かれ、腰が折れ、喉が潰れ、頭がカと熱くなる。血が溢れたのか、血が垂れたのか。もう半分も見えていない目で、田中は地面を見る。
 植え込みのあるあたりに、女物のスーツが引かかている。それと黒くなた血の跡も。
 そうだ。今朝急に越していた、この部屋の前住人は確か女であた。
 理解と同時に意識が途切れる。田中が最期に見たものは、隣人の部屋の中。
 天井と床に歯が見える。
 まるで、部屋が一つの怪獣の口内であた。


「こまたなあ。さすが食欲の秋というべきか」
 不動産屋は汗をふきふき、大家の渡辺に苦言を呈する。
「一日に二人は食べ過ぎですよ。いい加減躾けていただかないと」
「いやあ……て聞く物であればねえ……食欲の秋ですからなあ」
 好々爺の姿勢を崩さず、渡辺は頭を下げた。
「すみませんが、また田中さんをお願いしますよ」
「ええ、ええ。でしうとも、いくらなんでも、ここまで短期間に住人の名前が入れ替わ、怪しまれますからね……でもどうせすぐ食べるならネームプレート、そのままにしておけばいいのに……
「いやあ、それがあの子はなかなか美食で」
 大家が笑た。
「田中という名前の人間が旨いというのです」
「名前でそんなこと、あるんですか」
「どうもね、田中という名前の人物はある一定の……そう、私なんかには分かりませんが、とある生活音を出すすそうで、それがあの子の食欲を刺激するらしい
「全く奇妙は話で何がなにやら」
「まあ。あの部屋に食材を入れておけば、あの子はけして部屋から出ませんし、他の住人にも迷惑がかかりませんし」
 大家さん、ただいまー。と、明るい声が聞こえる。振り返れば3階に住む、大学生の少女である。
 渡辺はにこにこと優しげに手を振ていた。
 不動産は、流れる汗を腕で拭た。
 彼女は自分の階下で起きている事件など一つも気付かない。いや、彼女だけじない。このマンシンの誰も、そこに差し迫る危険に気付かない。
「ああ。まあそうしまし。ええ私も仕事ですから」
「そうそう、不動産屋さん」
 大家はにこやかに振り返た。彼の背に夕陽が輝き、顔に影が落ちる。
「そういえば、あなたの奥さんの旧姓は田中さんでしたか」
 影に落ちた顔、唇だけが蠢いている。にい、と唇が微笑んだ。
「じ、冗談はやめてくださいよ」
「はいはい冗談ですよ」
 だから早めに、田中さんをお願いしますよ。その声に押されて不動産は転がるように敷地の外に出る。 
 怖々振り返たそのマンシンは、古くさく秋の夕暮れに染まている。
 ただ2階の東、その部屋だけが薄暗い。
 巨大な目玉に見つめられた気がして、不動産屋は慌てて顔を背けた。
 早く、妻に電話をしよう。妻の声が聞きたい。
 ……なぜか、心の中に警鐘が鳴り響いている。
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