【BNSK】品評会 in てきすとぽい season 10
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止まない雪
投稿時刻 : 2015.02.28 19:21 最終更新 : 2015.02.28 19:25
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- 2015/02/28 19:25:40
- 2015/02/28 19:21:57
止まない雪
すずきり


 宗次郎は雪が降ったら良いのに、と思って空を見上げた。灰色の雲は凍り付いた様に重ったるく空に沈んでいた。
 雪は美しい。白くて、光って、黒いアスファルトも灰色のビルも嘘くさい街路樹も覆い隠してくれる。
 しかし春が来て、いつも最後に残るのは、泥に混じった、薄汚くしぶとく道ばたに溜まった、埃みたいな雪だ。あれさえなければ雪は綺麗なのに。宗次郎はずっとそう思っていた。

・・・・

 「4098」
 宗次郎はその数字を何度も口の中で唱えた。実際手で書くこともあった。そのうちこの数字が、自分の身体の一部であるような気さえした。その数字は宗次郎のもう一つの名前だった。
 高く掲げられた巨大な白い紙とその上に整列する黒い数字たち。宗次郎にとってはなんの意味も持たないそれらの上を、無数の視線が這いずり回っていた。視線はレーザーポインタの様に縦横丁寧に走り、該当ナンバーを見つけると意味も無く手元の票と掲示板の上を行ったり来たりした。そしてある者はただほっと息を吐く。ある者は奇声をあげて隣に立ってる人間を抱きしめる。いつまでも自分の数字を見つけられない視線が、迷子の犬の様に同じところをぐるぐると巡る。本人が運命を受け入れるまで、ぐるぐるしている。
「4071」の次が「4105」だった。
 不幸中の幸い、宗次郎の数字は見間違いが無いくらい明らかに不在だった。宗次郎はただアメリカのコメディアンみたいに肩をすくめて、心の中で「期待はしてなかったさ」と呟いた。自分の希望進路があまりにもあっさりと打ち破られて、どんな顔をすればいいのか、どんな気持ちになればいいのか、宗次郎には準備が無かったのだ。方やすぐ隣では青い顔をしたダッフルコートの女の子が、ピンク色の受験票を乱暴にポケットへ突っ込んで、肩を揺らして泣きじゃくり出した。受験者たちの黒山の中で、その声はかき消されていく。大学の学生らしい男女にインタビューを受けているものがいる。別の学部の掲示板の前で胴上げをやっているものがいる。門前でテレビ局のカメラが回っている。誰も宗次郎がコメディアンの振りをした事を知らない。泣いて座り込む者がいる事を知らない。
 宗次郎は全てが無関係になったこの世界を見るのに耐えられなくなった。東南アジアの山奥で受け継がれて来た年に一度の珍祭を見せられているような気分だった。声が方々から飛んで来る。人が動き回っている。しかしどの言動の意味も宗次郎にはどうしてもわからなかった。
 宗次郎は受験票を四つ折りにして、人の波をかきわけて掲示板を立ち去ろうとした。しかしその右肩を掴む者があった。
「ねえ・・・落ち込まないで。一緒に帰ろう。さあ」
 フレームの無い楕円の眼鏡をした彼女は、親しげにそう言った。鳶色の瞳は宗次郎を優しく見つめた。その白い手は悪いものでも祓うように宗次郎の肩を撫でた。彼女はさらに宗次郎の手を引いて歩こうとした。やっと宗次郎は言った。
「あの、誰ですか?」
 女性はゼンマイが回り終わった様にがくんと停止した。そして眼鏡越しに眼を細めて宗次郎の全身を見回した。
「敦史くん?」
「いや、あの、人違いです」
 彼女は繋いだ手をさっと解いて、一歩離れて小さい声で「人違いでした、すいません」と言って、俯いて足早に離れていった。宗次郎は眼で追ったが、その影はすぐ人の中に隠れて消えた。宗次郎は突然の邂逅にただ固まるしか無かった。残留した右肩の暖かい感触と右手の冷たい感触を、百人居る宗次郎の人格のうち、三十八人が丹念に味わっていた。
 大学を去りながら、宗次郎はどこかに彼女がいないか無意識に探した。幸せな祝福の声がどこでもあがっている。しかしそんなことはどうでもよかった。ただこれきりと思うにはあまりに惜しかった。「敦史くん」は誰だろうと考えた。結局、地下鉄に乗るまで諦めきれずに宗次郎はそわそわと周囲の女性の顔を覗いた。しかしあの鳶色の瞳を収めた顔はどこにも見つけられなかった。
 地下鉄の同じ車両にあのダッフルコートの女の子が乗っていた。涙の跡が化粧の上に浮いていた。母親らしい丸い女性が彼女の肩に触れて言った。
「この子は。受かったのに泣く事無いじゃないの」
 宗次郎は誰にも気付かれない様にもう一度コメディアンの真似をした。

・・・・

「原材料不明の翼で空を飛ぶのは嫌だ」と敦史は言った。講義が始まる前の教室にはいつもより多くの出席者がいた。今日がレポート提出日だからだ。敦史はモンブランの万年筆で書いた十枚に渡る時間とエネルギーの浪費の結晶を、一枚いちまい丁寧に折って飛行機に変えていた。
「この翼がロウで出来てる事を最初から知ってたら、誰も空高く飛び上がるようなマネはしなかった。安心して地上を歩くか、低空飛行してたさ」七枚目を飛行機に変えながら敦史は言った。
「皆自信満々で太陽に向かっていったな。でもすぐに降下を始めて、飛びやすい高度に落ちて来る。まだ地上を助走してる俺たちを見下しながら、まあ人生こんなもんさ、とか言って」
 教室には人がひしめき合っている。いつもは三十人もいないのに、今日は七十人はいる。時間になって教授が教室に入ると、その有様を見て、しかし呆れた様子ひとつ見せない。きっと毎年こんなものなのだろう。単位に必要な事だけ済ませに彼らは大学に来る。そして社会へ飛び立って行く。それが彼らの助走の仕方、飛び方なら、誰も口出しすることはない。ただどこまで飛んで行けるか? それは彼ら次第、自分次第だ。
 教授がレポート提出を促すと、我先に見知らぬ顔の学生たちが教壇にレポートを置いて、机に戻ると見せかけて教室を出て行く。あるいは堂々と出て行く。
「俺は飛び立つ事もできそうもない。まあ、鶏に生まれた奴がいてもおかしくないと思わないか?」
 敦史は十機のレポートたちを机に並べると、一つずつ教壇に向かって投げ始めた。
 教室を出て行こうとした学生も、大人しく座っている学生も、そしてタバコ屋の飼い猫みたいに動じない教授も、舞い飛ぶ飛行機たちを見つめた。十機皆黒板へ辿り着いた。敦史は折り紙の達人だったのかと、宗次郎だけが一人感心した。
「じゃあな」
 敦史は宗次郎に言って、手ぶらで教室を出て行った。宗次郎はその背中に「じゃあね」と言った。それが宗次郎にとって敦史の最後の姿だった。そして宗次郎は敦史となった。

・・・・

 敦史と宗次郎はよく似ていた。体形も髪型も、ファッションセンスも大体同じで、極めつけには同じ鞄を使っていた。
 同じ鞄といっても、メジャーなブランドの鞄ではない。北関東の町にある、小さい革製品の工房だけで作っているハンドメイドの鞄だ。宗次郎が他人と同じ鞄を持ちたくなくて、マイナーで誰も知らない様な店を探し、ようやく見つけたのがその店だった。
 他人と違うことがしたい、違うものが欲しい、というのは十代の青年にとってどうしても欠かせない欲求で、敦史もまた、同じ理由で北関東のハンドメイド鞄に目をつけた。
 二人は同じ鞄を肩にかけていた。互いに唯一無二と信じている鞄を。本当は同じ鞄を持った奴が、しかも同世代に、同じ場所で存在していることを知らずに。
 宗次郎も敦史も鞄をよくメンテナンスした。雨に濡れれば雨染みにならないように、そうでなくとも月に一度はオイルを塗った。日を経るにつれ鞄には小さな傷が増えていった。落ちない汚れもついた。しかしその汚れと傷が、この鞄が世界で唯一の存在であることの証明になった。最初硬かった革はどんどん柔らかくなって、身体になじむようになった。まるで身体の一部のようになった。
 革製だから重いし、布に比べればどうしても硬くて容量が少ない。その上メンテナンスの手間ひまがかかる。しかし二人はこの鞄についてこう言った。「だから良いんじゃないか」
 二人は傷を愛撫し汚れを慈しんだ。しかし宗次郎がこの鞄を持っているのを知って以来、敦史がこの鞄を持っているのを知って以来、そしてカオルが宗次郎と敦史を見間違えて以来、その鞄はただの普通のそれと大差は無くなった。

・・・・

 敦史は政治経済学部で、宗次郎は文学部だった。二人が出会ったのは一年次の春、サークルの新歓飲み会の席だった。
 新入生が浮き足立ち、自分をアピールし、先輩が先輩風を吹かしタバコを吹かし、宗次郎はただ薄暗い飲み屋で妖怪の宴に迷い込んだ心地を味わった。ピザの皿と枝豆の皿と、空になった何かの皿、そしてビールのグラスと、カルピスサワーのジョッキがテーブルの上にあった。宗次郎は枝豆を食べる振りをしながら時の流れを待っていた。そのとき話しかけてきたのが三年生の梅宮だった。
「宗次郎くん何してるの?」
 彼女が自分の名前を覚えていることに宗次郎は驚いた。初対面で、一度しか自分の名前は口にしていないはずだったから。一方宗次郎は、話しかけて来たのが同級生か先輩かもわからなかった。
「枝豆のさやで遊んでます」と宗次郎は答えた。
「どうやって遊ぶの?」と彼女は言った。
 冗談で言ってみただけなので、さやでどう遊ぶのか宗次郎にもわからない。返事に窮して宗次郎はただ「いやあ別に」と愛想笑いした。
「ねえ、退屈?」
 宗次郎は「さやの遊びが?」と言おうとして止めた。この女が何故自分に構って来るのか、ふと不気味に思ったのだ。
「楽しいです。ただ人見知りなだけで・・・」
 彼女はすっと宗次郎の肩に頭を近づけた。
「騒ぐのが苦手な人もいるもの。無理しなくていいんだよ。私も飲み会って苦手なの」
 宗次郎はやっと彼女の顔をよく見た。短い茶髪がくりくりと曲がっていた。ラフな黒いティーシャツに色の深いジーンズを履いていた。この集まりの中でもっともシンプルな装いの女だと宗次郎は思った。
 それから一時間もしない内に会は終わった。二次会でカラオケにいく者と、帰宅する者、そしてその他、の三つに分かれて飲み屋を去った。
 宗次郎はその他のメンバーだった。一つ上の先輩の家が近所だと言うので、そこでゲーム大会をすることになったのだった。メンバーは先輩二人と、宗次郎と、そして敦史だった。
 宗次郎がゲーム大会に参加することになったいきさつは次の様な具合だった。
 一次会が終わって帰る準備をしていると、宗次郎の鞄を勝手に持っていこうとしている者がいた。宗次郎は焦って「ちょっとお前」とその肩を掴んだ。それが敦史だった。
「なに」
「それ、誰の鞄だ?」
「俺のだよ」
 堂々と言い張られて、宗次郎は自信をなくして、みんなの鞄が置いてある壁際に目をやると、そこにはもう一つハンドメイドの革鞄があった。宗次郎は急いでそれを取って、敦史に見せた。
「ごめん、同じ鞄を持ってたみたいだ」
「マジかよ?」
 敦史は眼を見張って驚いた。
 それから二人は帰り支度をしながらいつ買ったか、どのオイルを塗っているかいろいろ話した。すると敦史が「先輩の家でゲームをするから一緒に行かないか」と宗次郎を誘ったのだった。

・・・・

 五月の雨降る朝に、宗次郎は目を覚ました。
 起きて一番最初にやることはスマートフォンの着信を確認することだった。宗次郎のスマホはいつもサイレンとモードだったから、目視確認でしかメールにも電話にも気がつかない。
 梅宮から個人的なメッセージが届いていた。普段はサークルの事務的なやり取りしかしないので、宗次郎はわくわくした。
『猫好き?』
『猫カフェに居るから』
『コーヒー奢るよ』
 と三通が十分前に来ていたらしい。宗次郎は急いで『どこの猫カフェですか?』と送った。するとノータイムで『大学前』と来た。
 宗次郎は歯を磨いてパーカーとジーンズに着替えた。雨が降っているから、革の鞄を持って出かけるのは気が引けたが、一瞬だけ躊躇して、宗次郎はそれを肩にかけた。アパートを出て紺色の傘をさすとボツボツとノイズみたいな雨音が宗次郎の頭上を打った。
 水分がうっすらと全身にまとわりつくような感じがした。少し早歩きしたので、電車の中で汗が出た。じっとりと肌がカエルみたいになった心地がして気持ち悪かった。車窓を流れる、灰色の空に覆われた街はコントラストに乏しく、ハリボテの作り物のようだった。遠くに霞む山だけが天と地を区切って、冷然と薄い人の世を見つめていた。宗次郎は急に心が落ちついてぐったりと動かなくなるのを感じた。先輩から誘われて慌てて電車に飛び乗ったが、そもそも何故彼女は宗次郎に構うのか、という疑問が重みを持って頭を支配した。宗次郎はいつでも何に対しても懐疑的だった。宗次郎は心の中に何人もの自分がいることをよく感じた。
「きっと、梅宮先輩は俺に興味があるんだよ」「俺の方から告白したって良い」「ただのサークルの先輩じゃないか」「色んな人に連絡して、捕まったのが俺だけだったのかもしれない」「そもそも猫カフェに梅宮先輩しかいないとは限らないじゃないか?」「それって最悪だ」
 しかし大抵理性的で物事に冷笑的な宗次郎が一番強い。彼が出て来ると、全てが無機物に見えて、人間に対して情感を抱くことが無くなってしまう。彼は宗次郎の防衛機構みたいなもので、多感な宗次郎が傷つかないように、いつの間にか現れた後天的な存在だ。すこし考え事をすると彼が宗次郎の心の扉を閉じに現れる。電車と雨の風景はあまりにも「考え事」にもってこいだった。
 猫カフェにつくと、猫に囲まれた梅宮が一人ココアを飲んでいた。灰色のニットに、黒いロングスカートだった。天気のせいか客は他にいなかった。
「こんにちは」
「こんにちは」
 宗次郎が言うと、梅宮はカップを置いて、対面の席を指差した。
 宗次郎のすぐそばに、毛の白い青目の猫がすらりとやってきた。
「私に誘われたって、誰かに言った?」梅宮は目を伏せて言った。
「え? いや誰にも言ってないです」
 どうしてそんなことを聞くのか宗次郎はいろいろ勘ぐらないわけにはいかなかった。
「これって密会なんですか?」宗次郎は聞いてみた。
 すると梅宮はくすくす笑った。「密会って何?」
 猫が甘える様に鳴いた。
 宗次郎は理性的な彼が引っ込んでいくのを感じていた。彼女の高すぎない声色を聞いていると、白い指を見ていると、だんだん頭に張った糸がたるんでいくような心地がした。そして彼女はたるんだ神経の糸を引っ張って注意を集める才能を持っていた。
「彼女いるの?」梅宮は言った。
 それだけで宗次郎は耳が熱くなりそうな気がした。「いないです」
「ねえ、私と付き合おうよ。彼女いないなら・・・。いきなり、急にって思う? でもさ、嫌になったらその時別れれば良いんだよ。みんなそうなんだから。ねえいいでしょ?」
 その甘い響きに抵抗する術を宗次郎はまだ持っていなかった。

・・・・

 目が覚めた時隣に誰かが居るという感覚を宗次郎は始めて味わった。
 宗次郎は服を着ていなかったし、梅宮も服を着ていなかった。冷たいシーツの感触を皮膚で感じながら、宗次郎は二日酔いの頭痛を堪えて昨夜の記憶を辿った。
 白い木枠のベッドに白いローテーブル。グリーンのカーペット。32インチのテレビに空気清浄機。綺麗な部屋ではない。カラーボックスの上には枯れた植木があって、しなびた枝の隙間に蜘蛛の巣が張っていた。テーブルには細々した化粧品や、グラスが雑多に置いてある。
 宗次郎はベッドの脇に落ちている多くの服の中から自分の服を拾って着た。時計を見ると昼前だった。講義に行く気はしなかったが、自分と梅宮が二人揃って大学に来ないと、サークルで何か勘ぐられてもおかしくないと考えて部室に行くことにした。頭は冷える様に冷静だった。
 梅宮の部屋を忍び足で歩き回りながら宗次郎は自分の持ち物を全て回収した。梅宮は寝息を立てて寝ていた。何時まで起きていたか思い出せない。
 宗次郎は部屋をそっと出て行く直前に梅宮の寝顔を覗いた。車道に横たわる猫の死骸の様に生気がなかった。
 薄暗い道には活気がなかった。マンションが互いに太陽を隠して林立しているせいだけとも思われない。人気がなく、烏の羽音が聞こえる他は、どこか遠くから響いて来る車の音の名残がビルの隙間を通り抜けて来るだけだった。人が住むには寂しすぎる。宗次郎は梅宮に同情した。
 宗次郎はスマホの地図を見ながら駅にたどり着いた時、やっと夢から醒めた気がした。

・・・・

 大学の生協でサンドイッチを買ってから部室に入ると、ゲーム大会のメンツが揃っていた。宗次郎を見ると敦史はカップラーメンを啜りながら「よ」と片手を上げた
 宗次郎は長机の上に散乱した漫画をどけてそこに鞄を置いた。
「そろそろ夏休みだなあ」と眼鏡をかけた先輩が言った。
「合宿かあ」ともう一人の先輩が言った。タバコの煙を吹きながら、にやにや笑っている。
 敦史は「何かあるんですか」と言った。 
 先輩はコーヒーの空き缶に吸い殻を押し込むと、「三年に梅宮先輩っているだろ?」と言って敦史と宗次郎の顔を交互に睨んだ。
 宗次郎はたった今見てきた寝顔を思い出して、必死になにも顔に浮かばない様にした。
「それがどうかしたんすか?」
「梅宮先輩は合宿までに新入生を一人食べるのを、つまり己のノルマに課しているのさ」眼鏡の先輩が眉間にしわを寄せて言った。
「だから彼女はそろそろハンティングを開始するんだと思うぜ」神妙な顔つきで先輩は言った。
「そういう人には見えないすけどね」と敦史が言った。
 宗次郎はサンドイッチを食べながら、脳裏を梅宮の顔が一つずつフラッシュバックするのを感じていた。急に肩が重たくなった。笑っていいのか怒っていいのか、無数の宗次郎たちが心の中で協議を始めた。
「猫カフェに呼ばれたら狙われてる証拠だから」眼鏡の先輩が言った。
「どうしてそんなに詳しいんですか?」宗次郎は相槌を装って聞いた。
 先輩が二人ともにやにやと笑って宗次郎を見た。思い出し笑いを押し殺す様にして、二人とも口元を歪めていた。
「かつてこの映画研究サークルにはね、小野田って男がいたんだよ」
「可哀想なオノちゃん・・・」眼鏡の先輩は十字を切って合掌した。
 『可哀想なオノちゃん事件』の顛末は次の具合だった。
 小野田は二人の先輩の同級生で、去年の梅宮のターゲットだった。小野田は梅宮と本気で、つまり真剣で誠実な付き合いをしているつもりだった。すると梅宮は小野田に付き纏われる様になって、小野田をうっとおしく思う様になったらしい。梅宮は小野田に秘密でもう一人男を作ると、そいつに「小野田にストーカーされている」と助けを求めたという。小野田にとって一番不幸なことは、その男がラグビー部だったということだ。以降小野田はサークルに顔を出していない。大学でも見かけなくなった。この事件の真相は、サークル外でも交友の深かった眼鏡の先輩が聞き出したという。
 先輩たちの間では鉄板の笑い話だったが、宗次郎はただあの寂しい住宅街の迷路を思い出した。

・・・・

 秋の暮れ、サークルを辞めた宗次郎は講義と講義の合間には図書館に通う様になった。
 土砂降りの雨の中、宗次郎は紺色の傘をさして図書館に向かってキャンパス内を歩いていた。図書館は雨が降るといつもより混む傾向にある。いつもより余計に入る彼らが普段どこで過ごしているのか宗次郎はいつも不思議に思った。
 図書館入口の軒下に辿り着くと、宗次郎は傘を降りながら鞄の雨染みを確認した。革にはひどく水が着いてしまっていた。
「遅かったね」と誰かが言った。
 宗次郎は自分に言われたと思わないで無視したが、服の肘を引っ張られてやっと声の方を見た。
 そこには鳶色の眼をした、眼鏡の女性が居た。宗次郎の顔を不思議そうに覗き込んでいる。
 あの日の、と宗次郎はすぐに気がついた。
「敦史くん?」彼女は言った。
「敦史の友達の宗次郎です。カオルさん」宗次郎は言った。
 彼女の名前は敦史から聞いていた。カオルは敦史の姉だった。
 何故かカオルは敦史と宗次郎を見分けることが出来なかった。受験結果発表の日も、そして今も。
「あっ、ごめんね、宗次郎くん」
 カオルは顔を赤くして目を伏せた。カオルも敦史から宗次郎のことを聞いていた。敦史を通じて二人は既に知り合いだった。

・・・・

 一人でカフェでコーヒーを飲んでいる時、隣の席の奴と偶然同じタイミングでくしゃみをしたり、全く同じモーションでケーキを口に放り込んだりすることがある。そんな時に感じるのは何とも言えない気まずさ、居心地の悪さだ。互いに意識し合っているわけじゃない。面識もなければ干渉する意図もない。しかしただ偶然の仕業で、自分は相手を意識せざるを得なくなってしまう。そういう状況ははただ靴の中の小石みたいに不快な肌触りという他ない。
 次の行動は同じにならない様に、互いに牽制し合う。おかげでどうもアクションが起こしにくくなる。そして結局、同時に咳払いをしてしまう。
 宗次郎にとっての隣人が敦史であり、敦史にとっての隣人が宗次郎だった。そんな時はどちらかがしびれを切らして店を出て行く他ない。二人はどうしたって同じ世界では住んでいけない。憎悪も悪意もないのに。二つ同じ模様のカードが揃ったら片方を除外する、そんなゲームのルールみたいなものがこの世界にはあるのだ。
 敦史がレポートを飛ばして大学を去ったのは、ある意味で必然だった。運命は強制連行するように敦史を世界から排除した。
 人生どうしたって色々な問題が起こる。これはもう仕方がないことだ。どんな美女も大便をひねり出し尿を垂らす。便をいくら憎んでも意味はない。
 しかしいつでもそれが適切に処理されるとは限らない。狙い澄ました様に敦史に降り掛かった多すぎる問題は、彼のキャパシティをオーバーしてしまっていた。敦史は押しつぶされてアスファルトに張り付いたガムの様になる運命にあった。具体的なことは宗次郎にも打ち明けなかった。ただ両親がもういないらしいということ(いないということが何を差すかはわからない)と、『カオルの問題』については宗次郎も折に聞いていた。

・・・・

「相貌失認」宗次郎は言った。
 敦史は落葉の散らかったベンチに構わず寝転がった。「聞いたことあるのか?」
「心理学の講義で症例を見た」
 宗次郎は納得のいった気持ちと、カオルの抱える問題に対する宙づりな同情を持て余した。言葉が口の中までこみ上げては結局出てこなかった。「気の毒に」とでも言えば良いのか? 宗次郎は他者に同情することに慣れていなかった。ただ感情を殺して機械的に言葉を返すことが宗次郎の精一杯だった。
「髪型とかは覚えられるらしいから、それで人を見分けるんだよ。服とか鞄とかでも良い。長いこと付き合ってる友達ならなんとなくわかったりするらしいけど」
 宗次郎は二度カオルに敦史と見間違われたことを思い出した。
「さすがに弟を間違うことはなかったんだけどな」敦史は言った。
 それが怒っている口調に聞こえた。責めるられている気分に宗次郎はなった。
 しかしそれは敦史の姉に対する心配に他ならなかった。
「姉貴は俺がいなきゃ生きて行けない」と敦史は言った。
 昼休みのキャンパスの噴水周辺には秋空の下でランチをしている学生が少なくなかった。風は冷たいが、黄色の葉を透かして差し込む陽光は暖かかった。穏やかな昼下がりに二人だけが日陰にいる様な心地がした。本当は日陰にいるのは敦史だけだった。日陰に追いやられているのは敦史だけだった。

・・・・

 秋は足早に去った。樹木は葉を落とし、燃える様な紅葉もすぐに忘れた。空を突き刺して伸びる寂しい枝を冷たい雪が抱いた。人々は襟を立てて白い息を吐いた。虫一匹見かけなくなった。生命の息吹を雪が踏みつぶしてしまった。空は表情を忘れた様にいつでも白かった。朝も昼も無く凍り付いてしまった。夜が来る度により強固な冷気に時間が止められてしまった。
 敦史は大学を辞めてどこかへ行った。全てを放棄してあらゆる問題から解放された。少なくともそうだったらいいなと宗次郎は思った。
 宗次郎は時折「敦史」という友人が本当にいたのかわからなくなることがある。彼を知るサークルの人々とは梅宮共々縁を切ったから、「敦史」を知る共通の友人というものがいなくなった。彼の両親はいないし、親戚とも連絡はつかない。ただカオルだけが、宗次郎のことを「敦史くん」と呼ぶだけなのだ。
 彼女だけは何も変わらなかった。彼女だけが敦史を失わなかった。彼女の手は冷たく、白かった。「敦史くん」と呼ばれる度に宗次郎は芯から氷漬けになって自分が死んで行く気がした。
 宗次郎とカオルは永遠に雪の中だった。
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