水中都市
赤い服を着た道化師の絵が目印だよ。
そう言われても、この世界の道化師というものが私には分からない。この世界にや
って来てまだ五日目なのだから。
友達とはいかなくても、そろそろ知り合いが欲しいと思い、昨夜、初めて入ったBARで一人で飲んでいる女性に声をかけた。混雑した店内で背中の翼が当たると失礼なので、きれいに折りたたんで話しかけたが、背中がむず痒い。我慢できずに伸び広げてしまったが、広げれば私の両腕の長さを優に超えるほどの大きな白い翼だ。話しかけた女性だけでなく、隣の男性にもぶつかってしまい、その男性が喧嘩早い人でもあってか、乱闘になる寸前だった。
「やめときなよ。天使に手を出したら天罰が下るよ」
男性に対し女性がそう言ってくれた。男性は「女じゃ仕方ねえな」と言ってビールを飲みなおしたが、正直言って私は喧嘩で負けたことないのでやってやっても良かったのだ。あいつを持ち上げて、空高く飛んでいき、落としてしまえばそれで終わりなのだから。
喧嘩を止めてくれた女性に御礼を言うと、「こんな狭い店じゃ、あんたも羽を伸ばして飲めやしないだろう」と言ってきた。
「その通りです」と私が言うと、彼女は「言うじゃないの」と口だけで笑って、なら、明日飲みなおそうかと言ってくれた。女性は名前をランと言った。
「私の名前は、ランリィンです」
と私は自己紹介すると、「へえ、名前、似ているねえ」とは言った。
そうしてたった今、この薄汚い通りにある、赤い服を着た道化師の絵を看板にした、薄汚い店に私は辿り着いたのだった。
「水中都市ですか」
私はランさんにこの世界のこの都市の特徴をそう説明された。私はなんでもいいのでこの世界の情報が欲しかったので、熱心に聞こうとした。
店は外観と比べれば店内はとても綺麗で掃除も行き届いていた。なんでもランさんの婚約者が経営している店だそうだ。水中都市の話から急に婚約者の紹介が始まり、二人でのろけ始めたから、私は少し強引に話を戻した。
「でも、全く水中都市なんて思えないんですけど」
「それは、違う世界からきたらそう思うかもしれないねえ」
そう言って、ランさんは婚約者が差し出した水色のカクテルを飲み干した。そしてシャツの袖口で口を拭いてから言った。
「ランリィンは、空を飛べるんだろ?」
「はい、飛べますね」
「空に魚が泳いでいただろ?」
ああ、あれかあ、と私は思った。ヒレをひらひらと舞いながらゆうゆうと空を泳いでいる生き物が確かにいた。何度もぶつかりそうになって、はっきり言って邪魔だった。
「あれは、この都市がまだ水中にずっと沈んでいたころの名残なんだよ」
「ということは、いつの間にか水が抜けたんですか、この都市から」
「そうだと言いたいんだけど、そうでもないんだよなあ」
ランさんの話を纏めると、この都市は一年にひと月ほど水中に沈むらしい。沈むと言っても、空から水が大量に降ってきて水没するとか、洪水が押し寄せてきて飲み込まれる、というわけではないらしい。
ごく自然に、空気が水に少しずつ変わっていくのだという。
「その時、人間はどうなるんですか?」
「人間も水の中で生きているよ。というより、いつの間にか周りが水になっているから、空を飛んでいた魚がこっちに戻ってきて、なんか泳いでいるなあと私たちが見て感じなければ分からないこともあるよ」
やがて水は少しずつ空気に戻っていくらしい。すると魚が苦しそうな顔をして、慌てて戻っていくのだそうだ。
私は、そんな馬鹿な話があるか、と思っていた。
が、それからランさんと話を進めているうちにその話を急に信じる気になってきた。
私の翼が急に湿っぽくなってきたからだった。細かい毛先の先端に水滴が付着し、幹を伝ってついには私の背中に到達した。
ひやりとした。
ランさんはにやりと笑って言った。
「そして、水没するときは、そろそろだと分かっていたら?」
周りがしんと静まったように感じた。ランさんの言葉を聞いたとき、冷たいものが急に自分を包み込んだように感じた。そして、広げていた翼が次第に重くなってきて、折りたたまずにはいられなくなってきた。
「ラン、どうやら水没が始まったみたいだね」
婚約者が言うと、ランさんは「そうみたいだね」と言って、私の方を見た。
「安心して。呼吸ができなくなるわけでもないし、慣れると結構ラクなんだよ」
そう言って、ランさんが少しだけジャンプすると、そのまま浮き上がり、あとは水の中を泳ぐようにしてカウンターを乗り越え、棚の酒瓶を手に取った。
「さあ、お祝いしよう」
婚約者も泳ぎ始め、二人は酒瓶で乾杯して飲み始めた。
私は重たくなった翼のことが心配で仕方なかった。
ランさんに促されて外に出ると、あちこちに人が泳いでいた。
私が邪魔だと思っていた魚もあちこちに泳いでいて、みんな楽しそうに水中都市を自在に行き来し、そうしたことができることを喜んでいるようだった。
ランさんに手を引かれて私もジャンプすると、あとは確かに水中を飛んでいるように感じられた。
泳いでいるのだろう、でも、私には違和感しかなかった。いつもは空を飛んでいるのに、まるで水中にいる。いや、水中で私は翼を使って泳いでいる。勝手に翼を羽ばたかせてしまうことが、なんとも滑稽なように感じられて嫌だった。
嫌悪感はそれだけではなかった。あまり翼を水に濡らしたくなかった。水濡れ厳禁なわけではない。水にはむしろ強い、汚れにも強いと自負している自慢の白い翼だ。
翼を使えば自由に飛べていたはずの空が水中に変わり、私はいま翼が邪魔になって仕方がない。水を吸って重たくなった翼を取り外せるわけもなく、やがて背中の筋肉が悲鳴を上げ始めた。こんな思いは初めてのことで、私はどうしようもなくなってランさんの酒場に戻ろうとした。
すると、ランさんが私の手をぐいっと引っ張ってこう言った。
「辛いの?」
「ええ、とても。肩で息をしているのが分かりませんか?」
「なら、本当にこの世界で生まれ育ったんじゃなかったんだね」
「疑っていたんですか?」
「疑うよ。私も、本当のことを言うと、全くこの世界に慣れていないんでね」
ランさんはそう言って、私をお姫様抱っこすると、そのまま水に浮いていた車を強く蹴って、勢いを保ったまま店へ戻っていった。
「どうする? この都市で生きたいなら、いやこの世界で生きていくなら、その翼は邪魔でしかないと思うよ」
ランさんはそう言った。様々な世界で何度も狙われた翼だ。次に言われることはだいたい分かっている。
私はすぐに首を振った。
「この翼は、私の大事なものなので」
「高く買うよ。すばらしい白い羽だし」
「ランさんになら、一本ぐらい白い羽を差し上げますよ」
私がそう言うと、ランさんは微笑んだ。
「出会ったときから気が強そうな天使さまに見えたけど、そこまで強いとはなあ」
そう言うと、また私の翼を品定めするように見てから言った。
「何度も生えてくるのかい?」
「生えたところで、誰にも差し上げられるものではありません」
「なら、早くこの世界を抜け出すことだね。あの酒場であんたの白い翼を狙っている人がたくさんいたから。私もあんたとは違うけど、この世界で奪われて泣いた思いをしているから」
初めて寂しそうな顔を見せたランさんに、私は返す言葉もなく、ただ頭だけを下げて、言った。
「ありがとうございました」
「うん」
「最後に、一つだけ。いいですか?」
「なに?」
言うかどうか迷っていたが、それでも私は感謝の気持ちをこめて言うことにした。
「私は昔、恋のキューピットみたいな天使だったので、成就する恋愛とか見てわかるんですけど、ずっとうまくいきますよ。あなた方」
嘘をついた。けれども、そうなってほしい。
「ありがとう。最後まで生きることにするよ、こいつと」
それ以上の言葉はお互いに出ずに、私は早急にこの世界から出ていくことにした。