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「おう、ちょっといい?」
翌日の夕方過ぎ、空き教室で一人でおにぎりを食べていた時に石川から急に声をかけられた。てっきり昨日の自習室で覗き見していたことを言われるのかと思ったが、挨拶を返すとため息交じりにこう言ってきた。
「現代文教えてよ。どうしても伸びない」
石川とはもう現代文の授業は同じクラスではなかった。私の知らない単科講座の教科書を見せてきたが、解いてもいない問題にアドバイスできるはずもなく、やんわりと断った。
彼は「ケチ」とだけ言うと机を挟んで私の前に座った。
「どうやって解いてるんだよ。あんなに早く」
「日本語でしょ、そのまま読んで、そのまま答えればいいだけじゃない」
思ったままのことを素直に言うと、彼は「単科講座の先生もそう言ってたよ」と言った。
それから彼は口を開かず、その間に私はおにぎりを全て食べ終えた。彼は珍しく制服姿で、細身な身体に紺色のブレザーとネクタイをした姿が少しかっこよく見えた。
本当はさっさと食べ終えて自習室に行くつもりだったが、なんとなしに彼と話したかった。
「なにが分からないのよ」
「どうして間違えるんだろうなあ、って」
「間違えるように問題が作られているからでしょ。私だって、どうして英語の長文で間違えるんだろうと思ってるわよ」
私がそう言うと、彼は首を捻った。
「英語? 英語こそそのまま読めばいいんだよ」
「できる人はみんなそういうよね」
「うわー、俺よりできてるくせによく言うよ」
「この前の模試は勘が当たりすぎて参考にならないわよ」
「俺の国語も今はそんな感じだ。勘が冴えてるって感じ」
十月の模試は思ったより簡単だったのかも、と二人で頷くと、話は止まりお互いに口を閉じた。私があくびをすると、彼は眠たそうに目をこすったりして、そしてスマホを取り出していじり始めると、私も真似するようにスマホを取り出した。授業まで残りおよそ四十分、スマホですることもなく、私はスマホをしまうと二人きりでいるところを知人に見られたくなくて席から立ち上がろうとした。
「自習室、あいてないよ」
スマホをいじりながら彼が言った。「そうなの、ありがとう」と私が言うと、「あの自習室、最近になって人気が出てるみたい」と言ってスマホをカバンにしまった。
「炎、書くの好きなの?」
行先を失った私はそう言って着席した。彼は今から夕飯を食べるらしく、カバンからコンビニで売られている焼きそばパンとメロンパンを取り出した。
「いや、絵を描くことは好きだけどよ、別に炎が好きなわけじゃない。そういや昨日、自習室で俺のノートを覗き込んでたっけ」
「知ってたの?」
「知ってたけど、あの自習室で声出すって、すげえ勇気がいる」
私は思わず笑って頷いた。彼は焼きそばパンの包装の封を縦に切った。いつもコンビニで見かけている焼きそばパンは、彼が一口目を頬張るときに特に美味しそうに見えた。
「最近食べていないなあ、焼きそば」
「復活したよな、ペヤング。コンビニ行ったけど売り切れだった」
「食べたかったの?」
「いや、別に」
ふーん、と私が適当に返事をすると、焼きそばパンを半分ほど残して彼はメロンパンに手を出し、一口がぶりついた。
飲み込み、指先で口元を拭いてから言った。
「単科講座の小説が芥川龍之介の地獄変でな。それを解いていたら炎の絵を描きたくなった。ついでに描いていたら、絵師の考えも少しは分かるかなって思ったんだけど、無理」
「分かるわけないでしょうが、そんなの」
「でもよ、この時の絵師の考えとして適切でないものを一つ選べ、って問題が出てくるのよ」
「それっぽい根拠を探すんじゃなくて、明らかに違うことが書かれているのを見つければいいだけでしょ」
そう言って私は教科書を見せてもらった。彼を悩ませていた問題には選択肢が五つあり、一見してもどれが間違っているのか分からなかった。
芥川龍之介の地獄変は高校の教科書で読んだ。自習時間ですることがなく、暇つぶしに読んで、燃える車の中に飛び込んだ猿に驚き哀れに思え、絵師の気違いっぷりに芸術至上主義とは悲惨なものだなあ、とそう思ったくらいだった。
問題を解く気もあまり起きず、次のページをめくると解答欄に3と書かれて赤マルが付いていたので、「あってんじゃん」と言って私は返した。
石川は焼きそばパンの最後の一口を飲み込んでから言った。
「いや、なんとなく分かるんだけどよ。娘を焼かれた絵師の気持ちって、ただ描きたいという思いだけじゃなかったのは分かるんだけどよ、でも気が狂っているわけでもなかったんだろ」
「気違いっぽいことはしているけど、己の芸術のために行っていたことだからね。狂っているとは別でしょ」
「でも、自分の愛してた娘が目の前で焼かれてるのに芸術のために見続けるかって思って」
「そこは物語だから」
「そんな嫌そうな顔すんなよ。で、思ったんだけどよ」
「なにを?」と私が言うと、彼は冗談半分な顔をして言った。
「そこにいる娘は本当に自分の娘だったのかなあって。もしかしたら自分の描いた絵から出てきた娘だったのかもって」
なにバカなことを言っているんだよ、と私は冷やかに笑った。
「そうだとしたら絵師はまた娘を描き出すんじゃないの?」
「そうかもなあ」
彼のその一言でその話は終わり、残りの時間はどこを受験するというありきたりな話になった。お互いに第一志望は国立の同じところに変わっておらず、一緒に合格しようねと簡単に言って、授業開始10分前になると、次の授業の教室へ彼は向かおうとした。その場で別れを告げたとき、教室にはかなりの人が着席していた。
―あの自習室で声出すって、すげえ勇気がいる―
たとえそうだとしても、振り向いて目で挨拶してくれてもいいじゃない。そう思ったが、逆の立場だったら私も黙って描き続けているだろうな、と思った。
ただ、私の場合は勇気とかではなく、邪魔しないでよという威嚇を張り巡らせながらだと思った。
我ながら嫌な性格だ。