D
Dは日常のいたるとこに潜んでいる。積み上げたレンガの隙間、赤いポストの口唇、つり革の輪
っかの内側。彼ら(それら)はきみたちが見るすべての〈あな〉に隠れ棲んで、ジッときみたちの生活ぶりを眺めているのだ。
大抵、きみたちはDに見られていることに気付いていない。あなというものはきみたちにとって覗くものではあっても、覗かれるものではないからだ。きみたちが愛する人と言葉を交わしているときも、あくせく働いているときも、洗面台の鏡の前で歯を磨いているときでさえ、Dはきみの生きるすべてを観察している。きみたちも(たとえば髪を洗っているときなどに)、誰かに見られているかのような感覚を懐いたことがあっただろう。そのときもDは排水溝やシャワー口のいくつものあなから、きみたちの裸を静かに見つめているのだ。
きみたちのなかには、プライバシーの危険を感じたひともいるだろう。しかし心配することはない。Dはきみたちの秘密を他人に漏らすような真似はしない。第一、Dには口がないのだから、ひとの秘密を知ることはできても、それを話すことはできないのだ。
それでも、きみたちは覗かれていることに抵抗感を覚えただろう。どうしてもDの存在が許せないのなら、ひとつだけ、周囲からDを消し去る方法がある。たったひとつだけ。
それは、
「すべてのあなを埋めることである」
そこまで読んで、本を閉じた。図書館でずっと朗読していたせいか、周囲の視線が痛い。しかしこの視線の、何割以上かはDによるものだと、わたしは気付いていた。立ち上がり本をもとの本棚に戻してから、すぐに家に帰った。家路につくまでに目につく、電車のつり革や(家に帰るためにはわたしの場合電車がいる)、道の左右を構えるレンガの壁や、ポストの口を見るたびに、寒気がして、マンホールを踏みつける。
家に帰ると、さっそく本の助言どおり、部屋から〈あな〉を取り除く作業にかかった。あなに土を埋めるのである。壁の疵を埋め、コンセントを埋め、蛇口を埋め、通気口を埋めた。携帯電話のイヤホンのあなと充電用のあなにも土を埋め込むと、動かなくなったので、そのまま捨てることにした。
ひととおりあなを埋め終えると、不思議と、安堵感が蘇ってくる。そうだ、これがわたしの空間だ。わたしだけの、やすらぎのせかい。誰かに見られていると思い始めてからずっと、わたしが見失っていたせかい。それがやっとわたしのもとへと戻ってきたのだ。
作業をして汗をかいたので、洗面台に向かう。といっても、蛇口も排水溝も土で埋められているため、水を使うことはできない。安堵の犠牲は、大きいものだった。けれど、わたしはこの空間を大切にしたい。
洗面台の鏡にわたしが映る。黒い鼻のあながわたしを覗いていた。