第31回 てきすとぽい杯〈てきすとぽい始動4周年記念〉
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投稿時刻 : 2016.02.20 23:40 最終更新 : 2016.02.20 23:45
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- 2016/02/20 23:45:06
- 2016/02/20 23:40:23
D
小伏史央


 Dは日常のいたるとこに潜んでいる。積み上げたレンガの隙間、赤いポストの口唇、つり革の輪かの内側。彼ら(それら)はきみたちが見るすべての〈あな〉に隠れ棲んで、ジときみたちの生活ぶりを眺めているのだ。
 大抵、きみたちはDに見られていることに気付いていない。あなというものはきみたちにとて覗くものではあても、覗かれるものではないからだ。きみたちが愛する人と言葉を交わしているときも、あくせく働いているときも、洗面台の鏡の前で歯を磨いているときでさえ、Dはきみの生きるすべてを観察している。きみたちも(たとえば髪を洗ているときなどに)、誰かに見られているかのような感覚を懐いたことがあただろう。そのときもDは排水溝やシワー口のいくつものあなから、きみたちの裸を静かに見つめているのだ。
 きみたちのなかには、プライバシーの危険を感じたひともいるだろう。しかし心配することはない。Dはきみたちの秘密を他人に漏らすような真似はしない。第一、Dには口がないのだから、ひとの秘密を知ることはできても、それを話すことはできないのだ。
 それでも、きみたちは覗かれていることに抵抗感を覚えただろう。どうしてもDの存在が許せないのなら、ひとつだけ、周囲からDを消し去る方法がある。たたひとつだけ。
 それは、
「すべてのあなを埋めることである」
 そこまで読んで、本を閉じた。図書館でずと朗読していたせいか、周囲の視線が痛い。しかしこの視線の、何割以上かはDによるものだと、わたしは気付いていた。立ち上がり本をもとの本棚に戻してから、すぐに家に帰た。家路につくまでに目につく、電車のつり革や(家に帰るためにはわたしの場合電車がいる)、道の左右を構えるレンガの壁や、ポストの口を見るたびに、寒気がして、マンホールを踏みつける。
 家に帰ると、さそく本の助言どおり、部屋から〈あな〉を取り除く作業にかかた。あなに土を埋めるのである。壁の疵を埋め、コンセントを埋め、蛇口を埋め、通気口を埋めた。携帯電話のイヤホンのあなと充電用のあなにも土を埋め込むと、動かなくなたので、そのまま捨てることにした。
 ひととおりあなを埋め終えると、不思議と、安堵感が蘇てくる。そうだ、これがわたしの空間だ。わたしだけの、やすらぎのせかい。誰かに見られていると思い始めてからずと、わたしが見失ていたせかい。それがやとわたしのもとへと戻てきたのだ。
 作業をして汗をかいたので、洗面台に向かう。といても、蛇口も排水溝も土で埋められているため、水を使うことはできない。安堵の犠牲は、大きいものだた。けれど、わたしはこの空間を大切にしたい。
 洗面台の鏡にわたしが映る。黒い鼻のあながわたしを覗いていた。
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