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我ながらホレボレする文体を自慢する大賞
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ただひとり
 投稿時刻 : 2013.05.05 19:23
 字数 : 1065
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ただひとり
小伏史央


* 複素数空間

 情念がくすぐたい。誰かが〈わたし〉の噂をしている。月が欠けてゆく。崩壊のカウントダウン。もう今年も終わりか。〈わたし〉の発言に多くの人間が反応した。
 主人公は〈わたし〉の背中を見つめていた。〈わたし〉は情報発信機に集中していて、後ろにいる主人公に気付かない。〈わたし〉は幸せを感じているらしい。発言を残し、情報を拡散し、人々の感情を刺激した。
 ここはどこだろう。主人公はふと、〈わたし〉から目を離し、あたりを見渡す。そこはエウロパよりも寒い、極寒の暗闇だた。分子がマイナスの方向に揺れている。そのために絶対零度よりも低い温度が生まれているらしい。
 その中で唯一、〈わたし〉だけが実数を保持していた。虚数の空間に、〈わたし〉の存在が足されている。
 見ると〈わたし〉は泣いていた。主人公が背後にいることに気付いていた。情報を発信せずに、主人公を見つめている。流れる涙は凍ていなかた。流れて、落ちて。
「やと会えた」と、その存在は言た。その発言は人々には伝わらなかた。その途端、人々の築き上げていた塔が崩れた。「あなたを待ていた」人々の言語が別れてゆく。
〈わたし〉は孤独だ。多くの富を、多くの情報を持ちながら孤独だ。それが主人公にはよく分かた。
「ここはどこ」と、主人公は〈わたし〉に訊ねた。訊くまでもなく主人公には分かていた。しかし訊かなければ気が済まなかた。
「みんなの知らないところ――」〈わたし〉の言葉は脳を介さなくとも理解できた。主人公は耳を押さえようとして、自分の頭がなくなていることに気付く。「みんなが生まれたところ」
 みんな、とはなにか。それはあの崩れてゆく人間のことか。主人公は疑問を抱くと同時にその答えを得た。しかし質問しなければその答えは虚空となて消えていた。霧よりも細かく、砂粒の数よりも多く。
「もう、行かなければならない」主人公は〈わたし〉にそう告げた。
「いや、だめ」涙を流す〈わたし〉は、まるで赤ん坊のようにわがままだ。
 情念がくすぐたい。それが愛であることに、主人公は薄々気付いていた。〈わたし〉が振りまく愛は、知恵を得ようとしている主人公にとては、むずがゆく響く。
「行かないで。もう行かないで」柱は支えられた途端に弱くなる。無償の愛は、返された途端に脆くなる。唯一の存在はただひとりあればいい。
 行かないで、行かないで。〈わたし〉の涙を背中に浴びながら、主人公は、そこを立ち去た。


※拙作「第ゼロ章」(http://ncode.syosetu.com/n2287bm/)より抜粋
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