【BNSK】2016年7月品評会 
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夕闇の彼方で
(大沢愛)
投稿時刻 : 2016.07.03 23:47
字数 : 11390
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夕闇の彼方で
大沢愛


               〇
 私の家の斜め向かいは「ラムネ屋」と呼ばれていた。
 私の生まれるずうっと前に、ここでラムネを作っていたそうだ。いまではラムネ作りはやめて、おじさんは街へ働きに出ている。ラムネ屋時代には雇人さんたちに恐れられていたというおばあちゃんは、同じく勤めに出ているおばさんに代わって家の掃除や洗濯を一手に引き受けて忙しそうに立ち働いている。
 「ラムネ屋」と呼ばれるのはもうひとつ理由があった。私の住んでいたこの集落には二十軒の家があったけれども、私の家も含めてそのうちの十一軒が「大沢」だった。本家・分家のつながりもあるけれど、お互いに養子に取ったり出したりして、複雑に入り組んでいた。「大沢」がこんなにたくさんあるので、名字だけではどこのことかわからない。そこで家の来歴や立地によって呼称が付け加わる。私の家は「中屋の大沢」だった。集落のちょうど真ん中にあるからだそうだ。ほかにも「地蔵の大沢」「角の大沢」「樋門の大沢」などと大人たちは呼び交わしていた。「ラムネ屋の大沢」はとても分かりやすいし、カタカナが含まれているので私はずっとかっこいいと思っていた。「えなみの大沢」なんて、なんのことかわからない。ずっと後になって「榎並」のことだと聞いて、ふうん、と思ったきりだ。この集落には榎の樹なんて一本も生えていない。
 「ラムネ屋」には私と同い年の子がいた。ななこ、という名前でほっそりとした色白の、なんだかラムネみたいに良い匂いのする子だった。私はその子とよく遊んだ。初めは「ななちゃん」と呼んでいたけれど、その子はその呼び方を嫌っていた。子どもっぽいからだという。
「あとね、家にあったラムネの瓶を落として割って叱られたんだけど、あのときの『がちゃん』っていう音を思い出すんだ。だから『ちゃん』付けして欲しくない」
「じゃ、なんて呼べばいいの。呼び捨てなんて私が嫌だよ」
 しばらく考えてその子は言った。
「大人ってさ、名前のあとに『氏』ってつけるじゃん。『ななこ氏』、ちょっと長いから『なな氏』。うん、大人っぽい」
 こうしてその子の名前は「ななし」になった。
 初めは私が虐めているみたいに思われて、うちの両親には叱られるわ、当の「ラムネ屋」のおばあちゃんにも睨まれるわ、でさんざんだった。それでも、いつのまにか馴染んでしまったのは、この集落にはやし立てるような男の子がいなかったからかもしれない。ほどなく、ラムネ屋の玄関に立って「ななしー」と呼ぶと、おばあちゃんが奥の方で「はいはい、ななしー、出といでー」と声を上げるようになった。おばあちゃんが「ななしー」と言うと、なんだかよその国の言葉みたいだった。ずっと後になって、英語の「ナンシー」に似ているからだと気づいた。おばあちゃんは英語を知っていたのかどうか。確かめるにはもう遅い。
 葭簀のかかった玄関から、午後の熱気が押し寄せてくる。土間の反対側は裏山に向かって開けていて、息のつける風が吹き抜けてゆく。畳一畳ほどの縁台が置かれていて、夕方になるとこの家のおじさんが一風呂浴びたあと浴衣姿で胡坐をかいてビールを飲む場所になっていた。勤めから帰ってきて、作業服を脱ぎながら玄関をくぐり、私を見ると日焼けした顔をほころばせる。
「おう、いらっしゃい」
 お邪魔しています、と頭を下げて、土間を通り過ぎるのを見送る。おじさんはいつも私を、ほんのちょっとだけ長く見つめる。そういうことに鈍感なひとなら気づかないくらい、ほんのちょっとだけ。視線が私から離れるのを待って、私はいつもなんとなく息をついた。
「うちのお父さん、愛が大好きなんだよ」
 ななしはそう言って笑う。お風呂場からお湯を使う音が続いて、浴衣に着替えたおじさんがキリンビールの瓶とグラスを手に持って現れる。石鹸のにおいと、うちの父親とはちょっと違う甘ったるい香り。そのまま縁台に腰を下ろすと、栓抜きで蓋を取って、グラスに注いで一息に飲み干す。二杯目を満たしながら「愛ちゃん、大きくなったなあ」と笑いかける。私はいつもうつむく。おじさんはお風呂上りには下着をつけない。はだけた裾からは股間が丸見えだった。
「ちょっとお父さん、隠してよね。愛が困ってるじゃない」
「なに言ってるんだ。子どもが生意気に」
 おじさんは立て膝のまま、グラスを干す。いたたまれなくなって、暇乞いをして葭簀をぐりぬけて外に出る。夕陽が落ちかかると、集落の軒端にはあっという間に夕闇が入り込んで来る。青空だと思っていた空にはいくつか星が瞬いていた。
七月になると、すこしずつ日が短くなるのが分かる。六月まではどんどん長くなっていた昼間が、気がつくと立ち止まっている。うなだれた昼間の影が砂利道に伸びてゆく。そのぶん、子どもにも手の届く夜がほんのすこしだけやってくる。七夕祭りと秋祭りだ。いつもなら家に居なければならない時間に、浴衣を着て峠向こうの秋吉神社まで出かける。お風呂に入ったばかりなのに、峠をのぼっていると腋の下を汗が伝う。ようやくてっぺんに着くと、点々と続く提灯の向こうに、ひしゃく型に光が集まっている。秋吉神社だった。下駄の鼻緒のところはじんじん痛んでいるのに、ななしと手をつないで下り坂を駆け下りる。お小遣いを入れたお財布を袂の中で握り締めて、ななしに遅れないように。並んだ屋台でなにを買って、なにを食べるかはななしが決めてくれる。言う通りにしていれば、お腹の下から温かいものがこみ上げてくる。峠向こうには、私たちの集落とは違ってたくさんの子どもがいた。可愛い子もいれば意地悪そうな子もいる。去年の秋祭りのことだった。甚平姿の男の子五人組がやってきて、その中のひとりが擦れ違いざま私の金魚柄の浴衣をつまんではやしたてた。つぎの瞬間、その男の子は地べたに倒れた。私の前にはななしの背中と栗色の髪があった。男の子たちが退散したあと、ななしは私のけがを気遣ってくれた。浴衣をつままれただけの私は無傷で、その代わりななしの浴衣の胸元は破れ、帯はちぎれていた。ななしによく似合っていた菖蒲柄の浴衣が台無しになっているのを見て、私は泣き出してしまった。ななしに慰められながら、ふたりで暗い峠を越えた。闇の中で、ななしのにおいがいつもより甘く香った。
「今年も行こう。お小遣い、しっかりためときなよ」
「うん、楽しみにしている」
 手を振って、砂利道を渡る。自分の家の玄関に入ると、いつのまにか沁み込んでいたななしの家の香りが顔を撫でた。

             〇
 七夕祭りの前には集落総出の草刈りがある。大人たちは背丈ほどまで伸びた神社の裏参道や山道。私とななしはお墓の掃除だった。といっても、お墓の草抜きや枝打ちは一週間前に大人たちがすませている。ふたりでやるのは墓石の間に散った葉っぱを掃き集めることと、墓石をきれいにすることだった。江戸中期から続く集落のお墓は山の西側斜面を覆っている。朝の六時から始めて、十二時までに済ませないと陽射しが直接照り付ける。一時間で葉っぱを集め終えると、あとはふたり一組でひたすら墓石にお水をかけて、たわしで磨いた。私よりも誕生日が二カ月早いななしは、麓の井戸からバケツに水を汲んで何度も往復してくれた。
 ぼろぼろで崩れそうな墓石には、なるべくそっと触れる。ところどころに、まるっきり草刈りをしていない区画がある。
「家が絶えたんだよ」
 ななしが額の汗を拭きながら言う。小学校の長袖体操着に、首周りにタオルを巻き、頭に帽子を被っている。腰からぶら下げた蚊取り線香が煙を放っているものの、薮蚊の羽音は何度も耳をかすめた。
「子どもが生まれなかったり、生まれても死んじゃったりして、誰も家を継がなかったってこと」
 たわしで擦る墓石が、ほんのちょっと欠けた。欠片を拾って、墓石の足元に置く。
 集落には私たち以外に子どもはいなかった。高校を卒業してよそに出て行ったお兄さんお姉さんたちは、いつかは戻って来るのだろうか。
「だから、あとは私たちが頑張るしかないよね。子どもをいっぱい産んで、一軒にひとりずつ養子に入れて。みなきょうだいだからすごく仲のいい集落になるよ」
 腰を伸ばしながらななしはそう言って笑う。私よりずっと大きなこの身体ならいっぱい子どもは産めるかもしれないけれど、私にそれができるだろうか。
 区画の隅に、お地蔵さんの描かれたちいさな墓石がある。享年七才・享年三才・享年五才、の文字が刻まれている。ななしの家の区画にもちいさなお墓があった。七つ並んだ手前にある比較的新しい二つには「俗名剛志 享年三才」「俗名健史 享年五才」とある。
「私のおにーちゃんだよ。私が生まれる前に死んじゃったの」
 そう言って手を合わせる。私も隣で静かに拝んだ。
 ちいさなお墓があると思うだけで、墓地はちっとも怖くない。だって、子どもだから。恨みなんてないし、死んじゃうにしても、ちょっとお隣の部屋でお昼寝をするみたいにふっといなくなるんだろう。
「剛志にーちゃんは日本脳炎で、ぱたって亡くなった。健史にーちゃんは、なんだかよく分かんない」
 もしかすると、剛志くんも健史くんも、ななしの家がラムネを作っていたのを見ていたのかもしれない。家の裏手には大きな井戸がある。ラムネを作っていたころにはその井戸水を使っていたそうだ。いまでは錆びた鉄蓋で覆われていて、ポンプも取り外されている。近づくと、ふだんはなにもいわないおばあちゃんが人が変わったみたいに大声で叱りつける。ポンプで一生懸命水を汲み出しているのを、家の陰からそっと見つめていたかもしれない。もしかすると、いまでも。
「子どもがあっという間に死んじゃうからさ、おばあちゃん、お寺のお坊さんに教えてもらっていろんなおまじないをしたって。おかげで私が生まれて、こうして元気に育っているの。愛のとこのおじさんおばさんも、おんなじおまじないをしたって」
 両親はふたりとも町の小学校で先生をしていた。父はラジオの組み立てが得意で、母はそろばん一級だった。おまじないに頼るようには思えない。
「どんなおまじないなの」
 ななしが私の背中をぽんぽんと叩く。こういうときの答えは決まっている。
「わかんない」
 急にうずくまり、腰の蚊取り線香を見つめる。
「やばいよ、切れてる。新しいのつけなきゃ。ほら、愛も外して」
 慌てて腰に回した紐をほどく。気がつくと日陰はどんどん小さくなっている。腰に食い込んだ紐は、いつの間にか汗を吸って黒ずんでいた。

              〇
 ななしの家にはラムネ屋の面影はなかったけれど、土間から敷居をひとつ越えたセメント敷きの間に白い、大人の背丈ほどの冷蔵庫があった。ラムネを作っていたころ、手伝いに来ていた人たち用の飲み物を冷やしていたそうだ。
「それがね、ラムネじゃなくてコーヒー牛乳とかプラッシーだったの。ラムネばっかり飲んでいたらばてるからだって」
 ななしはそう言って笑う。冷蔵庫にはもう電気は通っていない。ドアを開けると、木でできた工具箱が入っている。
「釘や金槌が錆びにくいらしいよ」
 本当なのか冗談なのか、よくわからない。
 もうひとつ、ななしが見せてくれたものがある。クッキーの缶の中に布を敷いて、並べられたもの。
 ラムネの瓶に入っていたガラス玉だった。
「うちって飲んだあとのラムネ瓶を回収して洗ってまた使ってたんだけど、たまに煙草の吸殻とか入れられてると洗えなくて廃棄になるんだよ。それから取り出したものだって、おばあちゃんが言ってた」
 手のひらに一つ載せてくれた。薄い緑の、まんまるい玉。駄菓子屋で売っている、透明な中に鮮やかな模様を入れ込んだビー玉のようには、心は浮き立たない。
 万が一にも罅を入れたり割ったりするわけにはいかない。ぶつけ合うビー玉遊びはできない。思いついたのは「ガラス玉隠し」だった。ひとりが後ろを向いて十、数える間にもうひとりはガラス玉を隠す。ただし、自分の身体から離してはいけない。オニは隠した側がゆっくりと百、数える間に見つける、というルールで。
 最初は私がオニだった。十数える。振り向くと、ななしが縁台に腰かけていた。いつもよりいたずらっぽい顔で私を見ている。
「いーち、にー、さーん」
 もう始まっているのだ。気を取り直して、ななしのブラウスのポケットを探る。布地越しに肌の凹凸が感じられる。手のひらを滑らせて、お腹から脇腹を調べる。ななしが身をよじる。見つからない。
「さんじゅーいち、さんじゅーに」
 ななしのスカートはいつもの臙脂色だった。ファスナーのすぐ下に、白い点々が散っている。模様みたいだけれど、これはななしのおばあちゃんが間違って漂白剤を飛ばした跡らしい。ウエストゴムの中に手を入れて一周する。ななしの顔が間近をかすめる。思い切って、スカートの上を押えながら探る。かすかな膨らみが手のひらに感じられる。
「ななじゅーさん、ななじゅーし」
 下着の縁までたどりついた。どこにも見つからない。見上げると、ななしは得意げに声を張り上げていた。
「きゅーじゅーく、ひゃーく!」
 降参だった。
 ななしはゆっくりとスカートの中に手を入れて、緑色のガラス玉をつまみ出した。
「すごい、どこに隠してたの」
 思わず大声になる。ななしは目を細めてにっこりとした。
「ないしょ」
 渡されたガラス玉はほんのすこし温かかった。
 次は私の番だ。オニのななしが十数える間に、ふと思いついた。
 隠し終えた私を、ななしはゆっくりと眺める。くすっと笑った。
「じゃあ、数えるね。いーち」
 不意に間合いを詰めたななしは、私の脇腹に手を差し入れてくすぐり始めた。不意を突かれて身もだえする私の足元に、ガラス玉が転がった。
 拾い上げて、愛おしそうに撫でる。
「だって、愛ったら身体をかちかちにこわばらせているんだもの。ゆるめちゃダメなところに隠したんなら、ゆるめれば一発でしょ」
 ひと言もない。腋の下にはまだ、ガラス玉の感触が残っていた。
 今度こそ、なんとしてでも見つけなければ。
 十数える間、そのことばかりを考えていた。ななしのことだ。私が探さないところに隠すに決まっている。さっき、スカートの中から取り出して見せた。きっと、ほんとうは別のところに隠していたに決まっている。同じ場所に隠すはずはない、と私が思えば、スカートはもう探さない。ということは。
 振り向く。ななしは微笑んで座っていた。歩み寄る。ピンで留めた前髪の根元が、うっすらと汗ばんでいた。
「いい? いくよ。いーち、にーい」
 数え始めたななしの両肩に手を置いて、そっとうしろに押す。意外なことに、ななしの身体はそのまま倒れた。仰向けになったななしの目が私を捉える。
「ろーく、しーち、はーち」
 嗤っているみたいだった。なにをしてもかなうわけないことを知った上で、好きにさせている、そんな目だった。私はスカートに手を触れた。漂白剤の点々のそばのファスナーに手をかけて、引き下ろす。もし、数える声が止まったら。それだけで一矢報いることができる気がした。
「じゅーく、にーじゅ」
 ななしの声はとぎれることなく続いていた。私はスカートのウエストゴムに手をかけて、ゆっくりと引き下げた。悲鳴でも上げてくれればいい。ほんとうにそう思った。でも、ななしはいつもの声で数え続けた。それどころか、ゴムがお尻を通過するとき、そっと持ち上げて通りやすくしてくれさえした。
 膝まで下げたスカートと、ブラウスの間に、ななしの下着が見えた。あの中に手を入れて探せば、たぶん見つかる。でも、手は動かなかった。
「さんじゅーはち、さんじゅーく」
 白い下着の正面で、ななしの手のひらが揺れていた。手招きしている、そう思った。なにもできないとたかをくくっている。たぶん、私の顔はべそをかいていたに違いない。
 ななしは私を見つめていた。ふっと、なにか違う影が差した。胸はどきどきしていて、顔を背けたいのを必死でこらえながら、私は右手をそっと差し伸べた。
「あんたら、なにをしとる」
 静かな声が、身体を貫いた。
 私の右手は、ななしに触れる寸前で止まった。
 おばあちゃんはゆっくりと近づいてきて、私の右手を掴んだ。スカートを下げたままのななしは、縁台に仰向けになっている。
 おばあちゃんは私の手を引いて、葭簀をくぐった。端が鼻先を引っ掻いて痛んだけれど、なにも言えなかった。
 砂利道に立ち、左右を見回して、そのまま私の家へと歩いてゆく。
 はるか後方から、声が聞こえた。
「きゅーじゅーはち、きゅうじゅーく、ひゃく」

              〇
 おばあちゃんと、私の両親がなにを話したのかは分からない。
 納戸に入れられていた私は、夜中になってようやく外に出された。
 父は黙り、母は泣いていた。
 新聞紙を敷き詰めた上に座らされた私は、まず、髪を切られた。ふだんなら絶対に黙って切られていない。でも、ななしとのことが見つかって、その罰だと思った私は、黙って耐えた。ななしほどきれいではないけれど、ときどき三つ編みにしたりリボンでまとめたりしていた私の髪が、頬に、肩に、散ってゆく。ハサミを持つ父の手は容赦なかった。ようやくハサミが止まって、鏡を見せられたときには目を疑った。そこには丸刈りの男の子がいた。
「明日から、お前はズボンを穿きなさい。名前は愛樹だ」
 お風呂場に促されて、ひとりで裸になった。湯船に浸かる前に、私の姿が鏡に映る。泣きべそをかいた男の子が、股の間の膨らみを両手で包み込んで、前屈みになっていた。
 お風呂から出て、両親の前に正座させられる。
「もう、ななこちゃんと会ってはならない。ラムネ屋のご両親ともそう約束した」
 私はうなずいた。涙がぽたり、と膝に散った。
 会えるわけがない。
 よりにもよって、こんな情けない男の子になってしまった。ななしが見たら悲鳴を上げるだろう。そばに寄ろうとすれば、あの秋祭りの男の子みたいに張り倒されるんだ。ななしなら、いくらでも新しい友だちができるだろう。私を殴り倒して、可愛い女の子を気遣いながら遠ざかってゆく後ろ姿に、私は涙した。
 両親は有無を言わせず髪は切ったけれど、怒ってはいないようだった。
「お前はもともと男の子なんだ」
 父の声は、優しかった。
「早くに亡くならないように、死神除けのおまじないに、女の子として育ててきた。七歳を過ぎれば死神もよそへいく、と言われていたのに、言い出せなくて、気がつけば十歳になってしまった。もういいから、男の子に戻りなさい」
 母は、しゃくりあげながら何度もごめんねと繰り返していた。
 父も母も、なにかほっとしたようにさえ見えた。
 私は、引っ掛かっていた。
 男の子に、戻る?
 私が男の子だったときはないのに。
 私の部屋には女の子としての服しかない。いつか男の子と知り合って結婚し、子どもを産むものだと思い続けていた。分校には男の子と言えば一年生のちいさな子しかいないけれど、いつか心が動くものだと思っていた。
 それよりも、ななしだ。
 私は、ななしをどう思っていたのだろう。
 大好きな友だちだと思ってきた。
 でも、私が男の子なら、ななしを女の子として見るということは、つまり。
 薄暗い土間の縁台に横たわったななしの姿が浮かぶ。かっと血が昇る。
 とんでもないことをしてしまった。
 謝らなければならない、と両親に言うと、穏やかな顔でかぶりを振った。
「大丈夫。ラムネ屋も今度のことは怒っていない。ただ、ななこちゃんにまた会ったりすると、取り返しのつかないことになる。会わないことがいちばんだ。いいね」
 懇々と諭されて、ようやくお布団に入ったのは、東の空が明るみ始めたころだった。

              〇
 翌朝、起きると、枕元には男の子の服が用意されていた。それを着て姿見に映る。道で会ったら顔を背けたくなるような男の子がそこにいた。
 朝ごはんのときにも、両親は私の変貌については触れなかった。夏休みはまだ始まったばかりだった。がらんとした田舎道に放り出された男の子には、途方に暮れるほど長い時間だった。
 いつもならラムネ屋へ行き、そこで過ごすうちにお昼になり、家に駆け戻ってご飯を食べたあと再びラムネ屋に戻って、そして夕方になっていた。
 こうなってみると、むしろななしには絶対に会いたくなかった。この姿を見られたくない。家に居たらラムネ屋の気配ばかりを窺ってしまう。
 私は自転車に乗って家を出た。遠くへ。すこしでも遠くへ。
 知らないところまで走ったところで、自転車を止めた。田んぼが広がっていて、用水路で男の子たちが遊んでいる。素っ裸になって飛び込んだり、別のこの腰に腕を回して引きずり込んだり。
 しばらく見ているうちにいたたまれなくなり、自転車を漕ぎだした。
 うちに帰る。お昼ご飯を食べると、いつもならちっとも寝付けないはずなのに夕方までぐっすりと眠ってしまった。父が花火を買ってきてくれた。裏の畑の畦道で家族三人でちいさな火花を見つめた。父と母の顔が花火に浮かぶ。こんな顔をしていたんだ。燃えカスを入れたバケツを持って、ぽつんと明かりのともった家へと戻った。
 私なりに努力はしたと思う。
 毎日、自転車で遠乗りをするうちに、ななしほどではないけれど色白だった身体は真っ黒に日焼けしていた。思いついて捕虫網と虫かごを持ってみた。「田舎の悪ガキ」そのものだった。涙は真っ黒な頬には汗としか見えなかった。
 自転車で走るうちに、ラムネ屋で過ごしている間は柔らかかった足の筋肉が固くなっていた。峠向こうを走っていたときだ。
「捕まえてー!」
 女の子の声がした。ななし以外の女の子の声を聞くのはほんとうに久しぶりだった。自転車を止めてあたりを見回す。田んぼの畦道に、青いお腹にごま塩の頭をした小鳥が止まっていた。セキセイインコだ。自転車を降りて、網を構えてゆっくりと近寄る。セキセイインコはとんとん、と歩いたあと、飛び立った。数メートル先に着地し、あたりをせわしなく見回している。
「それなのー。うちの子なのー」
 ななしよりもちいさくて、ぼんやりした顔立ちの女の子が息を切らせて走ってくる。
 何のとりえもなさそうなところが、まるで私みたいだった。
「網で捕まえてー」
「わかったから、静かにしといてよ」
 それから三十分ほど、畦道からときには田んぼの中まで、わたしと女の子はセキセイインコを追って、にじり寄って、飛びかかっては逃げられる、を繰り返した。やっとのことでセキセイインコは捕まった。女の子に渡そうとすると、もじもじする。籠を持っていないのだ。餌をやっているときに逃げられて、取るものも取りあえず追いかけたらしい。ななしなら「ばっかじゃないの」というところだ。
 しかたなく、虫籠に入れて渡した。女の子は何度も頭を下げて、きっと返しに行くから、という。この子はたぶん強い女の子に付き従う子だろう。もっと強い子がいたら籠を放り出して走り寄るに違いない。わかるよ。私だってそうだったから。
「私、古賀早苗。あなたは」
 大沢愛樹、という名前を初めて名乗った。手を振る早苗に見送られながら、捕虫網を担いで自転車を漕ぎだす。もしここで珍しい虫に出会っても、籠がなければどうしようもない。早苗はやっぱり私に似ている、と思った。
 その日の夕方、早苗はお母さんと一緒に菓子折りを持って虫籠を返しに来た。私の母はほんとうに驚いていた。「ぜひ仲良くしてやってちょうだい」と早苗に微笑みかける。早苗は照れたように笑って、私の方をちらちら見ていた。
 親同士が約束して、私と早苗はピクニックに出かけた。自転車に乗れない早苗のために、歩いて峠の祠まで出かけた。早苗の歩き疲れるタイミングを見計らって休みを入れながら、最後まで歩きとおした。
 迎えにきたお母さんに、早苗は感心したように言った。
「愛樹くん、すごく優しいのー。私の心が読めるみたいー」
 私は照れ笑いを浮かべて見せた。私ならここで疲れるだろうな、というところで休んだだけだ。ななしならそんな私にどうしてくれるだろうか、と考えながら。

              〇
 夏休みも半ば近くが過ぎた。秋祭りが近づいていた。早苗とはときどき会っていた。秋祭りに一緒に行こう、と誘われたけれど、私は言葉を濁していた。早苗を連れて行って、男の子たちに絡まれたとしても、ななしみたいに毅然と守れる自信がなかった。なによりも、私はそこまでして早苗を守りたいのか、と思う。答えは否だった。
 その日も自転車に乗って家を出た。集落のつきあたりまで走ったところで、水筒を忘れたことに気づいた。大急ぎで砂利道を引き返す。凹凸に揺さぶられながらだったけれど、太陽を背にしての走りはそれなりに快適だった。家が見えてきた。ラムネ屋もすぐそこだ。ふと、塀の内側が見えた。誰かが立っている。髪が長くて、背の高い、女の子。
 私はそのまま家に帰った。自転車で出かけるのは止めた。そっと家を脱け出して、裏山への斜面を駆け上る。ラムネ屋の真裏になったところで、すこし躊躇したけれど、笹の繁る崖を駆け下りた。足首が痛み、心臓は苦しい。この時間、ラムネ屋のおばあちゃんは奥の和室でお昼寝中だ。塀と建物の隙間を、平たくなって通り過ぎる。ヤツデに覆われた庭は、便所の裏手になっていて、ふだんはひとが来ない。葉を掻き分けて縁側に出る。
 そこに、ななしが立っていた。
 懐かしさよりも、恥ずかしさよりも、どろりとした感情が溢れてきた。
 確かに、ななしだった。髪はいつも通りで、最後に会ったときと同じブラウスに、漂白剤の散った臙脂色のスカートだった。
 でも、違う。
 早苗を見ていたせいもあるかもしれない。思ったより首が太く、顔は頬骨が出っ張っていた。輪郭は記憶にあるとおりだった。私は記憶を恨む。
「会いたくなかったよ」
 ななしの声だった。大好きだった声だ。私はなにも言えない。
「絶対に、私のこと嫌いになると思ったから」
 言いながら、髪をかきあげる。
「でもね、絶対にもう一度、会うときにはこの姿で、って思ってた。だから、お父さんがハサミを持って切りに来たとき、大暴れしちゃった。肋骨折って。それからなにも言わなくなったけれど」
 ななしの手を取った。私より一回り大きな手。何度も私を守ってくれた手のひらは、ごつごつしていて、涙がまた出てきた。
 ななしは私を見つめていた。嗚咽が収まったところで言葉を継ぐ。
「あの日、ちゃんとわかって欲しかったんだよ。触れて、見て、それでも嫌にならないでいてくれるかって」
ななし、と言いそうになる。大好きだよ。
「お父さんがね、私の本名は大沢七志だって。笑っちゃった。偶然だけど、ほんとの名前で呼んでって言ってたんだね、私」
 昼下がりの陽射しが庭に滑り込んでくる。
 ななしはぽつりぽつりと話した。私は黙ってうなずいた。
 夕方が近くなった。そろそろ出ないと、見つかってしまう。
「約束、果たせなくてごめんね」
 ななしが言った。
「いっしょに秋祭り、行けなくなったね」
「行こう」
 私は言う。ななしはしばらく私を窺っていた。
「いっしょに歩けないよ、もう。身体もごつごつしてきちゃったし。愛まで嗤われるよ」
 屋台の明かりが蘇る。提灯に導かれて辿った暗い道を思う。背中を支えてくれた温もりを思う。
「ななしと行くよ。浴衣着て、目一杯可愛くして、さ。絡まれたら、今度は私が守るから。約束」
 しばらくしてから、ふたりで小指を絡めた。涙が収まるころには、庭のヤツデは闇に溶け出していた。

              〇
 そして、秋祭りの当日。
 私は集落のはずれでななしを待っていた。
 二週間も晴れが続き、砂利道は風が吹くだけで土埃が舞った。
 両親は早苗と出かけると思ってか、いつもより多めのお小遣いを持たせてくれた。
 来ないかもしれない、と思っていた。それでもいい。
 きれいなままのななしでいたいという気持ちは、私だって分かる。
 あの日、肩からこぼれる髪を見送ったのだから。
 ななしはハサミと戦った。私のためなのか、それとも自分のためなのか。
 どっちでもいい。ひとつだけ言えるのは、私はなにがあってもここで待つ。それだけだ。
 砂利道には闇が降りていた。道に面した家々の明かりが、ときおり吹き抜ける涼しい風に揺らぐ。

 何百回見上げただろう。道の彼方に、人影が見えた。足元がきちんとそろっている。
 手を振ることも忘れて、私はすこしずつ大きくなる姿を見つめる。
 そう。
 女の子の支度が遅いのは当たり前でしょ。
 夕風が吹き抜ける。
 浴衣姿のシルエットが、ほんのすこし、歩みを早めた。

         (了)
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