【BNSK】2016年7月品評会 
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何事もなき夏の出来事 ◆W6mCFCW2q6氏
((仮))
投稿時刻 : 2016.07.04 00:49
字数 : 7920
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何事もなき夏の出来事 ◆W6mCFCW2q6氏
(仮)


 夏の日暮れどき、縁側の網戸に丸々としたカナブンがとまっていた。居間で兄と夏休みの宿題をやっていた僕はちゃぶ台に肘をつきながら、西日に照らされたカナブンの陰影をじっと眺めていた。隣の空き地から虫の鳴くのが聞こえる。風が吹くと、青っぽい湿った匂いがした。目の前には絵日記が広げられているが、日付以外は真っ白なままだ。かれこれ三日、日記をなまけている。絵にしろ文にしろ、何も書くことが思いつかなかった。 
「夏祭り兄ちゃんと行っていい?」 
 と僕は言った。 
 兄はカリカリと数学の問題を解きながら、顔も上げずに「おう」と応えた。今年高校受験を控えている兄は、春先から別人のように真面目に勉強をしている。進学先は偏差値の高くない地元の私立校だが、好成績で合格し、授業料が免除される特待を取らなければならない。両親は特待でなければ私立に進むことを許さないと言っている。兄はなにがしかの分けがあって、どうしてもそこへ入りたいらしい。 
 受験も何もない小学生なのに、何故勉強しなければならないのかと、白紙を鉛筆で突きながら考える。それから、山岸の姉のことを考える。 
   + 
 先週、夏休みに入ってすぐの頃、スーパーでクラスメイトの山岸に偶然出くわした。僕は母親に夕飯の買い出しで連れてこられていたのだが、野菜を選んでいるのを見ても面白くないので、一人お菓子コーナーをうろうろしていた。陳列棚の向こうに、山岸を見つけたのはその時だった。特に学校で親しい仲ではないが、体育のチーム分けや遠足のグループで同じになったことがあった。彼は背が高く、縁のない眼鏡をかけている。目立ったことをしないが、勉強はできるほうで、僕が密かに一目置いている男だった。「よう」と声をかけると、山岸はポケットに両手を突っ込んだまま、顔だけこちらに向けて「ああ」と応えた。少し驚いた風だったが、大して興味もないという顔だった。「何してんの」と訊くと「なんもしてない。ただ…‥」といいかけて僕の後ろに視線をやった。 
 振り向くと、色の白い学生服姿の女の人が買い物かごを持ってこっちに向かって歩いている。「姉ちゃんだ」と山岸は言った。彼女も気がついたようで近くまで来た。「リュウちゃんの友達?」と彼女は僕を見て言った。僕は人見知りの質で、口を閉じていた。山岸は「ああ、クラスメイトの中川」と言いながら、姉の横についた。僕は今更「こんちは」と頭を下げた。山岸はこれで終わりという風に「それじゃあな、中川」と背中を向けた。 山岸の姉もつられて歩き去って行った。
 また一人になったので、両手を頭の後ろに組んで、お菓子を物色しようと思った。その時、去って行く山岸の姉の話し声が聞こえてきた。「かわいい子だったわね」 
 僕はすっかり嬉しくなって、母親のところへ走って行った。それから荷物持ちを手伝って、夕飯を食べてる間「今日の料理はウマイなぁ」等と言ったりした。テレビもいつもより面白かった。 
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 それから夏休みの間、僕は山岸の家に遊びにいくことばかり考えた。しかしそれが実現することはなかった。家がどこにあるか知らなかったし、連絡網で自宅の電話番号がわかっても、山岸の家族が出たらと思うと、行動に移す気にならなかった。それに、僕が山岸と二人で遊ぶというのがそもそもおかしなことに思えた。今まで何度か二人で話したことがあったが、気がつくと当たり障りのない内容を話している内に「それじゃあ」と言われて終わってしまう。二人の間柄はそのくらい浅いものだ。
 しかし山岸も夏祭りには来るだろう。そして姉も一緒にちがいない。根拠もないのに、僕はそう決めつけて考えた。そしたら彼女が「あら、あの時の子ね」と話しかけてくれるように思える。山岸の家に遊びにいくよりも彼女に会える可能性は高い。しかし会ってどうするのだか、僕も知らない。 
 ただ一つ、ラムネでも一緒に飲んだら楽しいだろうなと思う。 
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 今日の分でもさっさと終わらせようと適当にカナブンの絵を描いていると、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。 
「兄ちゃん」 
 と声をかけたが、兄はまだ問題を解いている。返事もよこさないので、僕は日記帳を閉じて鉛筆を筆箱にしまった。とっくにカナブンはどこかへ消えていて、外は薄暗くなっていた。 
「まだ終わんないの」 
「うるさいな。急がんでもまだまだ時間あるだろ。もうちっと黙っとけ」 
「はーい」 
 僕はまたじっと兄を待たなければならなかった。 
 母は病気の祖母の見舞いに出ていた。母の兄弟たちと話があるから帰ってくるのは遅いということだった。夕飯のお金は兄が持っている。ゆえに兄の言うことを聞いていないと、夕飯にありつけるかも危ぶまれる。もちろん夕飯は、夏祭りの屋台で食べることになるはずだ。 
 そしてラムネも……と考えて思い当たる。どうやって山岸の姉の分のラムネを買ってもらえばいいんだろう? 兄にはどうしても、二本ラムネを買ってもらわなければならない。僕は全然お金を持っていない。 
 太鼓と笛の音が風に乗って聞こえる。商店街はすっかり人でいっぱいだろうな、と想像する。焼きそばとイカ焼きと、かき氷と、水風船。金魚掬いはできない。うちの水槽には兄が以前掬った金魚が、鯉みたいに太って水槽の中を狭そうに泳いでいる。一緒に入れていた金魚をみんな食べてしまった奴だ。だからこれ以上の犠牲を生むわけにはいかない。 
 仕方がないので黙って畳の上に仰向けになって寝転んだりブリッジしたりしていると、兄が勉強道具をしまい出した。 
「よし、じゃあ行こうぜ」 
 大仰に伸びをしながら兄は言った。 
「うん。ラムネ飲みたいな」 
「ラムネ? いいよ。財布持ってくるからちょっと待ってな」 
 兄は階段を二段飛ばしで登っていき、すぐに戻ってきた。「P」のマークの赤い野球帽をかぶって、尻ポケットに折りたたみ傘を突っ込んでいる。「毎年この時期は夕立がすごいからな」と兄は言った。 
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 暗い、静まり返った住宅地を抜けて大通りに出ると、夏祭りの香りがいっぱいに立ち込めていた。 
 真っ直ぐの通り沿いに所狭しと屋台が並んでいる。浴衣姿もちらほらと見える。人の流れが切れることなくずっと続いている。街灯と街灯の間に赤と白の提灯がぶら下がっていて、それを見るとなんだか嬉しい気持ちになった。僕は人混みの中を兄の背中にくっついて歩いた。 
「エラくごった返してるなあ」兄は振り返って「何か食うか」と訊いた。 
「焼きそばかな」と僕が言うと「焼きそばだろうな、まずは」と返した。 
 しかしこれだけ多くの屋台があるくせに、食べようと思ったものの屋台は何故か近くにはなかった。人が多く、行きたい方にさっさと進むこともできない。 
「まあ、焼き鳥でも食うか」 
 すぐ近くの屋台を指差して兄は言った。僕は頷いた。 
 浴衣姿のカップルの後ろに並んでいると、「おい、中川じゃねえか」と声をかけてくるものがあった。振り向くと四人組の男たちがすぐ近くにいた。彼らには見覚えがあった。兄は彼らに「おう」と片手をあげて応えた。 
「中川の弟?」 
 と誰かが言った。また誰かが「似てるな」とか「似てないな」とか言って笑った。僕は口を閉じて様子見した。 
「ああ、ハヤトっていうんだ。こいつら俺のクラスメイト」 
 兄は僕の肩を掴んだ。彼らがうちに遊びに来たのを、僕は見たことがあるのだが、彼らはみんな僕のことは忘れているらしい。僕は初対面のような顔をしていいのだかなんだかわからなかった。 
「なあちょっと焼き鳥買っといてくれよ。これ財布」
 と兄はボロボロに擦り切れた帆布の財布を手渡して四人の輪の中に入って行ってしまった。その時ちょうど、前のカップルが買い物を終えた。仕方がないので、僕は一人で焼き鳥を注文しなくてはならなかった。店員のおじさんは肌が真っ黒で、顔は汗でびっしょりだった。 
「ボウズ」とおじさんは言った。「ボウズ」なんて呼ばれたのは初めてかもしれなかった。「どれがいい? いまこれが焼きたてで、ウマいよ」 
 と、一切れ一切れがごろりとした大きさの牛串を手に取った。僕は言われるがまま「それください。二本」と指を二本立てて見せた。 
 おじさんは舟皿に串を乗せて「八百円ね」と言った。僕は財布から千円札を出した。お釣りの二百円を、ちょっと考えてから、ポケットにしまった。 
 ビニルの暖簾をくぐって通りに出ると、兄の姿がなかった。僕は左手に皿、右手に財布をもって辺りを見回した。人の流れの向こうに、赤い帽子が見えた。ほっとして、人の間を抜けながら、早足に歩いた。僕は買い物を突然任せておいて、勝手に遠くに移動している兄に腹が立った。財布をポケットにしまって、牛串を一口かじった。肉は硬く、味がなく、かんでもかんでも、塊のまま口の中に居座った。何故、牛串なんて買ったのだろう。 
 その時、人混みの向こうに見える赤い帽子のマークが「C」なのに気がついた。僕はその瞬間、はっとその場に立ち止まった。腹が立ったのも何もかもみんなスポーンと出て行った。 
 さっきよりも速い足取りで元の焼き鳥屋に戻った。しかしやっぱり兄の姿はなかった。
 僕はしばらくの間歩き回った。歩いてきた通りを戻ったり、路地に入ってみたりした。そうしているうちに、だんだん人通りが増えて、ほとんど流れに乗って歩くしかできなくなった。 
 男たちの掛け声が響いた。みな、声の方を向いた。カメラを構えている人もいる。和太鼓がドンドンと打ち鳴らされ、神輿が立ち上がった。ワッと声が上がって、神輿が動きだす。神輿の上で、髪をまとめ上げたサラシ姿の若い女性が提灯を掲げて声を上げている。熱気がだんだんと高まっていくように見えた。しかし僕だけがひどく孤独だった。ちっとも興味が湧かなかった。突然よそ者になったような疎外感を覚えた。 
 僕は押しのけるようにして人混みを抜けた。 
 すっかり冷えた牛串をみんな口にほうばって皿と串を設置されていたゴミ箱に入れた。湿った分厚い段ボールを食べているようだった。 
   + 
 とうとう提灯が飾られていないところまで歩いてきてしまった。人通りは疎らで、屋台も並んでいない。祭りの外までやってきたのだ。 
 僕は小さい居酒屋の入り口で、水を張った大きなバケツの中に飲み物を冷やして売っているのを見つけた。バケツの横に兄と同い年くらいの子供が座っていた。バケツの店番をやっているらしい。ぼうっとしながらうちわを扇いで、いかにも退屈そうに見えた。
 僕はポケットから二百円出して、ラムネを二本買った。ラムネを差し出しながら、店番が言った。 
「君、一人で歩いてるの?」 
「うん」 
「それなら遅くなる前に、帰ったほうがいいよ。危ないからね。そろそろ酒の回った大人が現れる頃だから」 
「でも、兄ちゃんとはぐれちゃったんだ」 
「ふぅん。じゃあお兄ちゃんも探してるだろうな」片手で扇ぎ、片手で顎をさすりながら彼は言った。「最初にはぐれたところに戻ってじっと待ってたほうがいいかもね。お互い居場所のヒントはそこしかないから……おい、ずいぶんしょげた顔だな。オレも店番なんかしてなかったらね、一緒に探してあげるんだけどさ。悪いね」
「うん」と頷いて僕は背を向けた。 
 それから気づいて振り向き、「ありがとう」と頭を下げた。店番はうちわを振った。 
   + 
 僕は店番の言った通り、焼き鳥屋に戻ることにした。指針が与えられて、少し元気も湧いてきた。 
 遠くにお囃子が流れている。神輿の掛け声も聞こえる。しかしどこかへ移動していて、今はその姿が見えない。さっき神輿がいた場所に戻ってきたが、ずっと空いていて歩きやすくなっていた。 
 その時、山岸が一人で歩いているのが見えた。向こうのほうが先に気づいていたらしく、人通りを抜けながらこっちに向かってくるところだった。 
 見知った顔に出会って嬉しくなった。 
「よう、よく会うな」と山岸が手を挙げた。 
 いつもクールぶっているが、今は祭りの空気のせいか、いつになく朗らかな顔つきだった。 
「ひとりかい」と聞くと「いつも姉といるわけじゃないさ」と彼はにやりと笑った。 
 もしかしたらそのままいつものように「それじゃあ」といって立ち去るのではと思ったが、今日に限っては僕の歩くのに合わせて隣についた。一人で行動していて手持ち無沙汰だったのだろう。 
「さっき神輿を見たか?」と山岸が口を開いた。「あれに乗ってるの、みんな姉ちゃんの友達なんだ。威勢のいいこったよな」 
「山岸の姉ちゃんもなんかやってるの?」 
「ああ、そいつらの写真撮ってるよ。なんていうの、記録係っていうかさ」 
「ふぅん」 
 つまり神輿を見た時、近くにいたんだと僕は思った。 
   +
 僕は話しながら、ひっそり、手に持っている二本のラムネのことを思った。山岸が何度か、そのラムネをちらと見た気がした。しかしこのラムネは……。 
 ひどく自分が貧乏くさく思えた。二本あるんだから、それを分けてやるのが普通じゃないか。 
 それに、彼に秘密で山岸の姉と親しくなろうと思っていたことが、後ろめたい気もした。頭のいい山岸はそういう全てを見透かしている気もした。 
 みんな僕の思い込みにすぎないけれど、それでも気持ちが良くないものは良くないのだ。 
 僕は、まるで今気がついたというふうに「そうだ、これやるよ」と言って山岸にラムネを一本差し出した。彼はなんでもないふうに「サンキュー」と言って瓶を開けて口にした。 
 これで妙な夢想も泡と消えた。 
「ちょっと前までは姉ちゃんと、姉ちゃんの友達と一緒に遊んでたのに、近頃は僕のことをのけものにするんだ」山岸は言った。「何も言ってないのに、今日も、『あんたとは出かけないからね。いつまでも子供のお守りはごめんなんだから』なんて言うんだぜ。ドラマの女優みたいな口調でさ。バカバカしいよな」 
 山岸はビー玉をとりだして遊びだした。僕はそういう山岸の姉の性格を知って、全く意外に思った。大体、彼女がどういう人かなんて一つも知りはしなかったのだ。なんだか夢から覚めたような気になった。そしてこの山岸も、一人の「弟」に過ぎないのだと思った。 
「上の兄弟なんて、みんなそんなもんなんだぜきっと。僕も今、兄ちゃんにおいてけぼりにされてるところなんだ。勝手にどっか行っちゃってさ、しかも財布まで僕に渡したままでさ、アホなんだ」
 山岸はふっと笑った。僕も同じ笑いをした。それは僕と山岸との間では今までなかったやりとりの形だった。 
   + 
 焼き鳥屋の屋台の通りまで僕らは来ていた。30分か40分か、下手したらもっと長いこと歩き通しだ。ここらはまだ人が多く、流れに沿って進むしかなかった。 
「おい、あれ」と山岸が不意に服を引いて指差した。彼の指差した先は提灯で照らされた通りから外れた、少し広場のようになっている暗い三叉路だった。 
 数人の大人たちがにらみあって何か話しているのが見えた。 
  そして誰かが辺りに響くような怒鳴り声をあげた。大勢が歩みを緩めて、声の方を注目した。僕らも足を止めて遠巻きに見ていた。 
 一方がつかみ掛かっていき、殴りつけた。陰になって漠然とした動きしかわからなかったが、動物のようなうなりやうめきをあげていた。僕は人がそんな風にむき出しになっているのを見るのは初めてだった。十メートル以上は離れていたし人の壁もあったのに、すっかり怖気づいてしまった。野次馬たちが輪を作り始めていた。
 喧嘩を見物しようとする連中が寄り集まってくる流れに逆らって僕らは歩いた。喧嘩している人以外の声も上がり始めていた。 
 ちょっとの間黙って歩いていたが、山岸は「そろそろ姉ちゃんのところに行こうかな」と口を開いた。 
 それとほぼ同時に、絶えず空を覆っていた太鼓と笛の音を割くように雷が低く轟いた。はっとして空を見上げると、雨の香りが吹いて辺りを満たした。次の瞬間に、なだれ込むようにして雨粒が一斉に降り注いだ。叩きつけるような激しい雨だった。屋台の屋根やアスファルトを打つ雨音で耳の中がいっぱいになった。 
 人々は走って軒下に飛び込んだり、もう諦めて雨に打たれるがままになったりした。僕と山岸は全身びしょ濡れになって足早に歩いた。 
「それじゃあ」と山岸は言った「姉ちゃんのとこ、行くから!」 
 雨音に負けないように、声を張る必要があった。 
「それじゃあ!」 
 僕が手を振ったのを見るが早いか、土砂降りの中山岸は走り去っていった。 
   + 
 焼き鳥屋はすぐそこだった。その軒下には何人かが雨を逃れて集まっていたが、兄の姿はなかった。肌の黒いおじさんは、屋台の周りに透明なビニルシートを張ってずぶ濡れになっていた。 
 避難している数人は服を絞ったりしながら、雨の時間を過ごした。雨脚の強さに、地面が白んでいた。側溝に流れができて川のようになっている。天にまします何者かが祭りを強制終了したように思えた。神輿の少女たちの威勢が良すぎたのかもしれない。暴力沙汰が起きたせいかもしれない。だとしたら、なかなかいい判断だ。 
 僕は自分のラムネを開けていないことに気がついた。歩き続けて、喉も渇いていた。 
 キャップでビー玉を押し込むと、白い泡が盛り上がって瓶の口からこぼれ落ちていった。慌ててすすり口に含むと、しゅわしゅわとはじけながら甘い香りが鼻腔を通り抜けて行った。すっかり温くなっていたし、炭酸も抜けてしまった。なんでこんなもの、飲まなきゃならないんだろう? と僕は眉根を寄せた。そういえば、今日はずっとこんな思いばかりしている。 
   +
 ビニルの向こうから人影がやってくるのが見えた。黄色い雨ガッパを着ているその影が、ビニルシートを開けて中に入った。下ごしらえか何かをしていたおじさんは顔を上げて「いらっしゃい?」と言った。 
 その人物がカッパのフードを脱いだ時、僕は声を上げた。 
「お母さん!」 
 髪の毛を頬にはりつけた顔で、母は目を見開いた。 
「あっ、ハヤトみっけ」 
 店員はそれを見て、わけを察して下ごしらえに戻った。 
   + 
 降ってきたのと同じように、雨が止んだもの唐突だった。視界を覆い尽くしていた雨は幕を引くようにあっというまに消え去った。あとには水たまりと、湿った空気と、申し訳程度の星空だけがもたらされた。 
 雨が降っていたのはちょっとの間だけで、すぐに祭りは再開された。 
「お兄ちゃん、顔青ざめてたよ、かわいそうに。責任感じちゃってるの」 
「おいてかれたの、僕の方だよ」 
 僕と母は帰路についていた。祭りの中心を離れ、静かな住宅地を歩いている。どこかの家の庭から、虫たちが慎ましく鳴いているのが聞こえる。祭りの囃子は、既に遠いものになっている。 
 僕が迷子になった後(僕はそういう風に言われるのを遺憾に思う)、兄はすぐ家に帰って、母に電話したらしい。母は予め、何かあった時の連絡先を兄に教えていたのだ。 
 それから母はできるだけ早く切り上げて、帰って来たという。兄は電話した後、僕と同様に探し回っていたらしい。それから搜索に加わった母が、先に僕を見つけたということだ。これらのことは思い返せば、ほんの一時間とか、一時間半くらいのことにすぎない。なんだか随分長い出来事のように思えるので、不思議だった。 
 家に帰って兄とようやく再会を果たすと、怒るでもなく喜ぶでもなく、鼻から息を吐いて、眉を寄せた変な顔をした。それはおそらく、僕と同じ表情だったに違いない。今日はいろいろあったけど、これは何事でもない出来事なのだ。 
   + 
 祭りから家に帰るとさっさと風呂に入って寝てしまったその翌日、僕は前日のことを絵日記に描いてしまおうと思った。しかしよくよく考えると、やっぱり何か起きたようで、何も起きていない。書くことは山岸のことか、神輿のことか、雨のことか、思案しながら絵日記帳を開くと、既に絵を描く欄の真ん中に、丸々とした緑色のカナブンの絵が描かれていた。
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