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【BNSK】2016年7月品評会 
 1  3  4 «〔 作品5 〕» 6 
夕闇の彼方で
大沢愛
 投稿時刻 : 2016.07.03 23:47
 字数 : 11390
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夕闇の彼方で
大沢愛


               〇
 私の家の斜め向かいは「ラムネ屋」と呼ばれていた。
 私の生まれるずうと前に、ここでラムネを作ていたそうだ。いまではラムネ作りはやめて、おじさんは街へ働きに出ている。ラムネ屋時代には雇人さんたちに恐れられていたというおばあちんは、同じく勤めに出ているおばさんに代わて家の掃除や洗濯を一手に引き受けて忙しそうに立ち働いている。
 「ラムネ屋」と呼ばれるのはもうひとつ理由があた。私の住んでいたこの集落には二十軒の家があたけれども、私の家も含めてそのうちの十一軒が「大沢」だた。本家・分家のつながりもあるけれど、お互いに養子に取たり出したりして、複雑に入り組んでいた。「大沢」がこんなにたくさんあるので、名字だけではどこのことかわからない。そこで家の来歴や立地によて呼称が付け加わる。私の家は「中屋の大沢」だた。集落のちうど真ん中にあるからだそうだ。ほかにも「地蔵の大沢」「角の大沢」「樋門の大沢」などと大人たちは呼び交わしていた。「ラムネ屋の大沢」はとても分かりやすいし、カタカナが含まれているので私はずとかこいいと思ていた。「えなみの大沢」なんて、なんのことかわからない。ずと後になて「榎並」のことだと聞いて、ふうん、と思たきりだ。この集落には榎の樹なんて一本も生えていない。
 「ラムネ屋」には私と同い年の子がいた。ななこ、という名前でほそりとした色白の、なんだかラムネみたいに良い匂いのする子だた。私はその子とよく遊んだ。初めは「ななちん」と呼んでいたけれど、その子はその呼び方を嫌ていた。子どもぽいからだという。
「あとね、家にあたラムネの瓶を落として割て叱られたんだけど、あのときの『がちん』ていう音を思い出すんだ。だから『ちん』付けして欲しくない」
「じ、なんて呼べばいいの。呼び捨てなんて私が嫌だよ」
 しばらく考えてその子は言た。
「大人てさ、名前のあとに『氏』てつけるじん。『ななこ氏』、ちと長いから『なな氏』。うん、大人ぽい」
 こうしてその子の名前は「ななし」になた。
 初めは私が虐めているみたいに思われて、うちの両親には叱られるわ、当の「ラムネ屋」のおばあちんにも睨まれるわ、でさんざんだた。それでも、いつのまにか馴染んでしまたのは、この集落にはやし立てるような男の子がいなかたからかもしれない。ほどなく、ラムネ屋の玄関に立て「ななしー」と呼ぶと、おばあちんが奥の方で「はいはい、ななしー、出といでー」と声を上げるようになた。おばあちんが「ななしー」と言うと、なんだかよその国の言葉みたいだた。ずと後になて、英語の「ナンシー」に似ているからだと気づいた。おばあちんは英語を知ていたのかどうか。確かめるにはもう遅い。
 葭簀のかかた玄関から、午後の熱気が押し寄せてくる。土間の反対側は裏山に向かて開けていて、息のつける風が吹き抜けてゆく。畳一畳ほどの縁台が置かれていて、夕方になるとこの家のおじさんが一風呂浴びたあと浴衣姿で胡坐をかいてビールを飲む場所になていた。勤めから帰てきて、作業服を脱ぎながら玄関をくぐり、私を見ると日焼けした顔をほころばせる。
「おう、いらい」
 お邪魔しています、と頭を下げて、土間を通り過ぎるのを見送る。おじさんはいつも私を、ほんのちとだけ長く見つめる。そういうことに鈍感なひとなら気づかないくらい、ほんのちとだけ。視線が私から離れるのを待て、私はいつもなんとなく息をついた。
「うちのお父さん、愛が大好きなんだよ」
 ななしはそう言て笑う。お風呂場からお湯を使う音が続いて、浴衣に着替えたおじさんがキリンビールの瓶とグラスを手に持て現れる。石鹸のにおいと、うちの父親とはちと違う甘たるい香り。そのまま縁台に腰を下ろすと、栓抜きで蓋を取て、グラスに注いで一息に飲み干す。二杯目を満たしながら「愛ちん、大きくなたなあ」と笑いかける。私はいつもうつむく。おじさんはお風呂上りには下着をつけない。はだけた裾からは股間が丸見えだた。
「ちとお父さん、隠してよね。愛が困てるじない」
「なに言てるんだ。子どもが生意気に」
 おじさんは立て膝のまま、グラスを干す。いたたまれなくなて、暇乞いをして葭簀をぐりぬけて外に出る。夕陽が落ちかかると、集落の軒端にはあという間に夕闇が入り込んで来る。青空だと思ていた空にはいくつか星が瞬いていた。
七月になると、すこしずつ日が短くなるのが分かる。六月まではどんどん長くなていた昼間が、気がつくと立ち止まている。うなだれた昼間の影が砂利道に伸びてゆく。そのぶん、子どもにも手の届く夜がほんのすこしだけやてくる。七夕祭りと秋祭りだ。いつもなら家に居なければならない時間に、浴衣を着て峠向こうの秋吉神社まで出かける。お風呂に入たばかりなのに、峠をのぼていると腋の下を汗が伝う。ようやくてぺんに着くと、点々と続く提灯の向こうに、ひしく型に光が集まている。秋吉神社だた。下駄の鼻緒のところはじんじん痛んでいるのに、ななしと手をつないで下り坂を駆け下りる。お小遣いを入れたお財布を袂の中で握り締めて、ななしに遅れないように。並んだ屋台でなにを買て、なにを食べるかはななしが決めてくれる。言う通りにしていれば、お腹の下から温かいものがこみ上げてくる。峠向こうには、私たちの集落とは違てたくさんの子どもがいた。可愛い子もいれば意地悪そうな子もいる。去年の秋祭りのことだた。甚平姿の男の子五人組がやてきて、その中のひとりが擦れ違いざま私の金魚柄の浴衣をつまんではやしたてた。つぎの瞬間、その男の子は地べたに倒れた。私の前にはななしの背中と栗色の髪があた。男の子たちが退散したあと、ななしは私のけがを気遣てくれた。浴衣をつままれただけの私は無傷で、その代わりななしの浴衣の胸元は破れ、帯はちぎれていた。ななしによく似合ていた菖蒲柄の浴衣が台無しになているのを見て、私は泣き出してしまた。ななしに慰められながら、ふたりで暗い峠を越えた。闇の中で、ななしのにおいがいつもより甘く香た。
「今年も行こう。お小遣い、しかりためときなよ」
「うん、楽しみにしている」
 手を振て、砂利道を渡る。自分の家の玄関に入ると、いつのまにか沁み込んでいたななしの家の香りが顔を撫でた。

             〇
 七夕祭りの前には集落総出の草刈りがある。大人たちは背丈ほどまで伸びた神社の裏参道や山道。私とななしはお墓の掃除だた。といても、お墓の草抜きや枝打ちは一週間前に大人たちがすませている。ふたりでやるのは墓石の間に散た葉ぱを掃き集めることと、墓石をきれいにすることだた。江戸中期から続く集落のお墓は山の西側斜面を覆ている。朝の六時から始めて、十二時までに済ませないと陽射しが直接照り付ける。一時間で葉ぱを集め終えると、あとはふたり一組でひたすら墓石にお水をかけて、たわしで磨いた。私よりも誕生日が二カ月早いななしは、麓の井戸からバケツに水を汲んで何度も往復してくれた。
 ぼろぼろで崩れそうな墓石には、なるべくそと触れる。ところどころに、まるきり草刈りをしていない区画がある。
「家が絶えたんだよ」
 ななしが額の汗を拭きながら言う。小学校の長袖体操着に、首周りにタオルを巻き、頭に帽子を被ている。腰からぶら下げた蚊取り線香が煙を放ているものの、薮蚊の羽音は何度も耳をかすめた。
「子どもが生まれなかたり、生まれても死んじたりして、誰も家を継がなかてこと」
 たわしで擦る墓石が、ほんのちと欠けた。欠片を拾て、墓石の足元に置く。
 集落には私たち以外に子どもはいなかた。高校を卒業してよそに出て行たお兄さんお姉さんたちは、いつかは戻て来るのだろうか。
「だから、あとは私たちが頑張るしかないよね。子どもをいぱい産んで、一軒にひとりずつ養子に入れて。みなきうだいだからすごく仲のいい集落になるよ」
 腰を伸ばしながらななしはそう言て笑う。私よりずと大きなこの身体ならいぱい子どもは産めるかもしれないけれど、私にそれができるだろうか。
 区画の隅に、お地蔵さんの描かれたちいさな墓石がある。享年七才・享年三才・享年五才、の文字が刻まれている。ななしの家の区画にもちいさなお墓があた。七つ並んだ手前にある比較的新しい二つには「俗名剛志 享年三才」「俗名健史 享年五才」とある。
「私のおにーんだよ。私が生まれる前に死んじたの」
 そう言て手を合わせる。私も隣で静かに拝んだ。
 ちいさなお墓があると思うだけで、墓地はちとも怖くない。だて、子どもだから。恨みなんてないし、死んじうにしても、ちとお隣の部屋でお昼寝をするみたいにふといなくなるんだろう。
「剛志にーんは日本脳炎で、ぱたて亡くなた。健史にーんは、なんだかよく分かんない」
 もしかすると、剛志くんも健史くんも、ななしの家がラムネを作ていたのを見ていたのかもしれない。家の裏手には大きな井戸がある。ラムネを作ていたころにはその井戸水を使ていたそうだ。いまでは錆びた鉄蓋で覆われていて、ポンプも取り外されている。近づくと、ふだんはなにもいわないおばあちんが人が変わたみたいに大声で叱りつける。ポンプで一生懸命水を汲み出しているのを、家の陰からそと見つめていたかもしれない。もしかすると、いまでも。
「子どもがあという間に死んじうからさ、おばあちん、お寺のお坊さんに教えてもらていろんなおまじないをしたて。おかげで私が生まれて、こうして元気に育ているの。愛のとこのおじさんおばさんも、おんなじおまじないをしたて」
 両親はふたりとも町の小学校で先生をしていた。父はラジオの組み立てが得意で、母はそろばん一級だた。おまじないに頼るようには思えない。
「どんなおまじないなの」
 ななしが私の背中をぽんぽんと叩く。こういうときの答えは決まている。
「わかんない」
 急にうずくまり、腰の蚊取り線香を見つめる。
「やばいよ、切れてる。新しいのつけなき。ほら、愛も外して」
 慌てて腰に回した紐をほどく。気がつくと日陰はどんどん小さくなている。腰に食い込んだ紐は、いつの間にか汗を吸て黒ずんでいた。

              〇
 ななしの家にはラムネ屋の面影はなかたけれど、土間から敷居をひとつ越えたセメント敷きの間に白い、大人の背丈ほどの冷蔵庫があた。ラムネを作ていたころ、手伝いに来ていた人たち用の飲み物を冷やしていたそうだ。
「それがね、ラムネじなくてコーヒー牛乳とかプラシーたの。ラムネばかり飲んでいたらばてるからだて」
 ななしはそう言て笑う。冷蔵庫にはもう電気は通ていない。ドアを開けると、木でできた工具箱が入ている。
「釘や金槌が錆びにくいらしいよ」
 本当なのか冗談なのか、よくわからない。
 もうひとつ、ななしが見せてくれたものがある。クキーの缶の中に布を敷いて、並べられたもの。
 ラムネの瓶に入ていたガラス玉だた。
「うちて飲んだあとのラムネ瓶を回収して洗てまた使てたんだけど、たまに煙草の吸殻とか入れられてると洗えなくて廃棄になるんだよ。それから取り出したものだて、おばあちんが言てた」
 手のひらに一つ載せてくれた。薄い緑の、まんまるい玉。駄菓子屋で売ている、透明な中に鮮やかな模様を入れ込んだビー玉のようには、心は浮き立たない。
 万が一にも罅を入れたり割たりするわけにはいかない。ぶつけ合うビー玉遊びはできない。思いついたのは「ガラス玉隠し」だた。ひとりが後ろを向いて十、数える間にもうひとりはガラス玉を隠す。ただし、自分の身体から離してはいけない。オニは隠した側がゆくりと百、数える間に見つける、というルールで。
 最初は私がオニだた。十数える。振り向くと、ななしが縁台に腰かけていた。いつもよりいたずらぽい顔で私を見ている。
「いーち、にー、さーん」
 もう始まているのだ。気を取り直して、ななしのブラウスのポケトを探る。布地越しに肌の凹凸が感じられる。手のひらを滑らせて、お腹から脇腹を調べる。ななしが身をよじる。見つからない。
「さんじいち、さんじに」
 ななしのスカートはいつもの臙脂色だた。フスナーのすぐ下に、白い点々が散ている。模様みたいだけれど、これはななしのおばあちんが間違て漂白剤を飛ばした跡らしい。ウエストゴムの中に手を入れて一周する。ななしの顔が間近をかすめる。思い切て、スカートの上を押えながら探る。かすかな膨らみが手のひらに感じられる。
「ななじさん、ななじし」
 下着の縁までたどりついた。どこにも見つからない。見上げると、ななしは得意げに声を張り上げていた。
「きく、ひく!」
 降参だた。
 ななしはゆくりとスカートの中に手を入れて、緑色のガラス玉をつまみ出した。
「すごい、どこに隠してたの」
 思わず大声になる。ななしは目を細めてにこりとした。
「ないし
 渡されたガラス玉はほんのすこし温かかた。
 次は私の番だ。オニのななしが十数える間に、ふと思いついた。
 隠し終えた私を、ななしはゆくりと眺める。くすと笑た。
「じあ、数えるね。いーち」
 不意に間合いを詰めたななしは、私の脇腹に手を差し入れてくすぐり始めた。不意を突かれて身もだえする私の足元に、ガラス玉が転がた。
 拾い上げて、愛おしそうに撫でる。
「だて、愛たら身体をかちかちにこわばらせているんだもの。ゆるめちダメなところに隠したんなら、ゆるめれば一発でし
 ひと言もない。腋の下にはまだ、ガラス玉の感触が残ていた。
 今度こそ、なんとしてでも見つけなければ。
 十数える間、そのことばかりを考えていた。ななしのことだ。私が探さないところに隠すに決まている。さき、スカートの中から取り出して見せた。きと、ほんとうは別のところに隠していたに決まている。同じ場所に隠すはずはない、と私が思えば、スカートはもう探さない。ということは。
 振り向く。ななしは微笑んで座ていた。歩み寄る。ピンで留めた前髪の根元が、うすらと汗ばんでいた。
「いい? いくよ。いーち、にーい」
 数え始めたななしの両肩に手を置いて、そとうしろに押す。意外なことに、ななしの身体はそのまま倒れた。仰向けになたななしの目が私を捉える。
「ろーく、しーち、はーち」
 嗤ているみたいだた。なにをしてもかなうわけないことを知た上で、好きにさせている、そんな目だた。私はスカートに手を触れた。漂白剤の点々のそばのフスナーに手をかけて、引き下ろす。もし、数える声が止またら。それだけで一矢報いることができる気がした。
「じく、にー
 ななしの声はとぎれることなく続いていた。私はスカートのウエストゴムに手をかけて、ゆくりと引き下げた。悲鳴でも上げてくれればいい。ほんとうにそう思た。でも、ななしはいつもの声で数え続けた。それどころか、ゴムがお尻を通過するとき、そと持ち上げて通りやすくしてくれさえした。
 膝まで下げたスカートと、ブラウスの間に、ななしの下着が見えた。あの中に手を入れて探せば、たぶん見つかる。でも、手は動かなかた。
「さんじはち、さんじく」
 白い下着の正面で、ななしの手のひらが揺れていた。手招きしている、そう思た。なにもできないとたかをくくている。たぶん、私の顔はべそをかいていたに違いない。
 ななしは私を見つめていた。ふと、なにか違う影が差した。胸はどきどきしていて、顔を背けたいのを必死でこらえながら、私は右手をそと差し伸べた。
「あんたら、なにをしとる」
 静かな声が、身体を貫いた。
 私の右手は、ななしに触れる寸前で止また。
 おばあちんはゆくりと近づいてきて、私の右手を掴んだ。スカートを下げたままのななしは、縁台に仰向けになている。
 おばあちんは私の手を引いて、葭簀をくぐた。端が鼻先を引掻いて痛んだけれど、なにも言えなかた。
 砂利道に立ち、左右を見回して、そのまま私の家へと歩いてゆく。
 はるか後方から、声が聞こえた。
「きはち、きうじく、ひく」

              〇
 おばあちんと、私の両親がなにを話したのかは分からない。
 納戸に入れられていた私は、夜中になてようやく外に出された。
 父は黙り、母は泣いていた。
 新聞紙を敷き詰めた上に座らされた私は、まず、髪を切られた。ふだんなら絶対に黙て切られていない。でも、ななしとのことが見つかて、その罰だと思た私は、黙て耐えた。ななしほどきれいではないけれど、ときどき三つ編みにしたりリボンでまとめたりしていた私の髪が、頬に、肩に、散てゆく。ハサミを持つ父の手は容赦なかた。ようやくハサミが止まて、鏡を見せられたときには目を疑た。そこには丸刈りの男の子がいた。
「明日から、お前はズボンを穿きなさい。名前は愛樹だ」
 お風呂場に促されて、ひとりで裸になた。湯船に浸かる前に、私の姿が鏡に映る。泣きべそをかいた男の子が、股の間の膨らみを両手で包み込んで、前屈みになていた。
 お風呂から出て、両親の前に正座させられる。
「もう、ななこちんと会てはならない。ラムネ屋のご両親ともそう約束した」
 私はうなずいた。涙がぽたり、と膝に散た。
 会えるわけがない。
 よりにもよて、こんな情けない男の子になてしまた。ななしが見たら悲鳴を上げるだろう。そばに寄ろうとすれば、あの秋祭りの男の子みたいに張り倒されるんだ。ななしなら、いくらでも新しい友だちができるだろう。私を殴り倒して、可愛い女の子を気遣いながら遠ざかてゆく後ろ姿に、私は涙した。
 両親は有無を言わせず髪は切たけれど、怒てはいないようだた。
「お前はもともと男の子なんだ」
 父の声は、優しかた。
「早くに亡くならないように、死神除けのおまじないに、女の子として育ててきた。七歳を過ぎれば死神もよそへいく、と言われていたのに、言い出せなくて、気がつけば十歳になてしまた。もういいから、男の子に戻りなさい」
 母は、しくりあげながら何度もごめんねと繰り返していた。
 父も母も、なにかほとしたようにさえ見えた。
 私は、引掛かていた。
 男の子に、戻る?
 私が男の子だたときはないのに。
 私の部屋には女の子としての服しかない。いつか男の子と知り合て結婚し、子どもを産むものだと思い続けていた。分校には男の子と言えば一年生のちいさな子しかいないけれど、いつか心が動くものだと思ていた。
 それよりも、ななしだ。
 私は、ななしをどう思ていたのだろう。
 大好きな友だちだと思てきた。
 でも、私が男の子なら、ななしを女の子として見るということは、つまり。
 薄暗い土間の縁台に横たわたななしの姿が浮かぶ。かと血が昇る。
 とんでもないことをしてしまた。
 謝らなければならない、と両親に言うと、穏やかな顔でかぶりを振た。
「大丈夫。ラムネ屋も今度のことは怒ていない。ただ、ななこちんにまた会たりすると、取り返しのつかないことになる。会わないことがいちばんだ。いいね」
 懇々と諭されて、ようやくお布団に入たのは、東の空が明るみ始めたころだた。

              〇
 翌朝、起きると、枕元には男の子の服が用意されていた。それを着て姿見に映る。道で会たら顔を背けたくなるような男の子がそこにいた。
 朝ごはんのときにも、両親は私の変貌については触れなかた。夏休みはまだ始またばかりだた。がらんとした田舎道に放り出された男の子には、途方に暮れるほど長い時間だた。
 いつもならラムネ屋へ行き、そこで過ごすうちにお昼になり、家に駆け戻てご飯を食べたあと再びラムネ屋に戻て、そして夕方になていた。
 こうなてみると、むしろななしには絶対に会いたくなかた。この姿を見られたくない。家に居たらラムネ屋の気配ばかりを窺てしまう。
 私は自転車に乗て家を出た。遠くへ。すこしでも遠くへ。
 知らないところまで走たところで、自転車を止めた。田んぼが広がていて、用水路で男の子たちが遊んでいる。素裸になて飛び込んだり、別のこの腰に腕を回して引きずり込んだり。
 しばらく見ているうちにいたたまれなくなり、自転車を漕ぎだした。
 うちに帰る。お昼ご飯を食べると、いつもならちとも寝付けないはずなのに夕方までぐすりと眠てしまた。父が花火を買てきてくれた。裏の畑の畦道で家族三人でちいさな火花を見つめた。父と母の顔が花火に浮かぶ。こんな顔をしていたんだ。燃えカスを入れたバケツを持て、ぽつんと明かりのともた家へと戻た。
 私なりに努力はしたと思う。
 毎日、自転車で遠乗りをするうちに、ななしほどではないけれど色白だた身体は真黒に日焼けしていた。思いついて捕虫網と虫かごを持てみた。「田舎の悪ガキ」そのものだた。涙は真黒な頬には汗としか見えなかた。
 自転車で走るうちに、ラムネ屋で過ごしている間は柔らかかた足の筋肉が固くなていた。峠向こうを走ていたときだ。
「捕まえてー!」
 女の子の声がした。ななし以外の女の子の声を聞くのはほんとうに久しぶりだた。自転車を止めてあたりを見回す。田んぼの畦道に、青いお腹にごま塩の頭をした小鳥が止まていた。セキセイインコだ。自転車を降りて、網を構えてゆくりと近寄る。セキセイインコはとんとん、と歩いたあと、飛び立た。数メートル先に着地し、あたりをせわしなく見回している。
「それなのー。うちの子なのー
 ななしよりもちいさくて、ぼんやりした顔立ちの女の子が息を切らせて走てくる。
 何のとりえもなさそうなところが、まるで私みたいだた。
「網で捕まえてー
「わかたから、静かにしといてよ」
 それから三十分ほど、畦道からときには田んぼの中まで、わたしと女の子はセキセイインコを追て、にじり寄て、飛びかかては逃げられる、を繰り返した。やとのことでセキセイインコは捕また。女の子に渡そうとすると、もじもじする。籠を持ていないのだ。餌をやているときに逃げられて、取るものも取りあえず追いかけたらしい。ななしなら「ばかじないの」というところだ。
 しかたなく、虫籠に入れて渡した。女の子は何度も頭を下げて、きと返しに行くから、という。この子はたぶん強い女の子に付き従う子だろう。もと強い子がいたら籠を放り出して走り寄るに違いない。わかるよ。私だてそうだたから。
「私、古賀早苗。あなたは」
 大沢愛樹、という名前を初めて名乗た。手を振る早苗に見送られながら、捕虫網を担いで自転車を漕ぎだす。もしここで珍しい虫に出会ても、籠がなければどうしようもない。早苗はやぱり私に似ている、と思た。
 その日の夕方、早苗はお母さんと一緒に菓子折りを持て虫籠を返しに来た。私の母はほんとうに驚いていた。「ぜひ仲良くしてやてちうだい」と早苗に微笑みかける。早苗は照れたように笑て、私の方をちらちら見ていた。
 親同士が約束して、私と早苗はピクニクに出かけた。自転車に乗れない早苗のために、歩いて峠の祠まで出かけた。早苗の歩き疲れるタイミングを見計らて休みを入れながら、最後まで歩きとおした。
 迎えにきたお母さんに、早苗は感心したように言た。
「愛樹くん、すごく優しいのー。私の心が読めるみたいー
 私は照れ笑いを浮かべて見せた。私ならここで疲れるだろうな、というところで休んだだけだ。ななしならそんな私にどうしてくれるだろうか、と考えながら。

              〇
 夏休みも半ば近くが過ぎた。秋祭りが近づいていた。早苗とはときどき会ていた。秋祭りに一緒に行こう、と誘われたけれど、私は言葉を濁していた。早苗を連れて行て、男の子たちに絡まれたとしても、ななしみたいに毅然と守れる自信がなかた。なによりも、私はそこまでして早苗を守りたいのか、と思う。答えは否だた。
 その日も自転車に乗て家を出た。集落のつきあたりまで走たところで、水筒を忘れたことに気づいた。大急ぎで砂利道を引き返す。凹凸に揺さぶられながらだたけれど、太陽を背にしての走りはそれなりに快適だた。家が見えてきた。ラムネ屋もすぐそこだ。ふと、塀の内側が見えた。誰かが立ている。髪が長くて、背の高い、女の子。
 私はそのまま家に帰た。自転車で出かけるのは止めた。そと家を脱け出して、裏山への斜面を駆け上る。ラムネ屋の真裏になたところで、すこし躊躇したけれど、笹の繁る崖を駆け下りた。足首が痛み、心臓は苦しい。この時間、ラムネ屋のおばあちんは奥の和室でお昼寝中だ。塀と建物の隙間を、平たくなて通り過ぎる。ヤツデに覆われた庭は、便所の裏手になていて、ふだんはひとが来ない。葉を掻き分けて縁側に出る。
 そこに、ななしが立ていた。
 懐かしさよりも、恥ずかしさよりも、どろりとした感情が溢れてきた。
 確かに、ななしだた。髪はいつも通りで、最後に会たときと同じブラウスに、漂白剤の散た臙脂色のスカートだた。
 でも、違う。
 早苗を見ていたせいもあるかもしれない。思たより首が太く、顔は頬骨が出ていた。輪郭は記憶にあるとおりだた。私は記憶を恨む。
「会いたくなかたよ」
 ななしの声だた。大好きだた声だ。私はなにも言えない。
「絶対に、私のこと嫌いになると思たから」
 言いながら、髪をかきあげる。
「でもね、絶対にもう一度、会うときにはこの姿で、て思てた。だから、お父さんがハサミを持て切りに来たとき、大暴れしちた。肋骨折て。それからなにも言わなくなたけれど」
 ななしの手を取た。私より一回り大きな手。何度も私を守てくれた手のひらは、ごつごつしていて、涙がまた出てきた。
 ななしは私を見つめていた。嗚咽が収またところで言葉を継ぐ。
「あの日、ちんとわかて欲しかたんだよ。触れて、見て、それでも嫌にならないでいてくれるかて」
ななし、と言いそうになる。大好きだよ。
「お父さんがね、私の本名は大沢七志だて。笑た。偶然だけど、ほんとの名前で呼んでて言てたんだね、私」
 昼下がりの陽射しが庭に滑り込んでくる。
 ななしはぽつりぽつりと話した。私は黙てうなずいた。
 夕方が近くなた。そろそろ出ないと、見つかてしまう。
「約束、果たせなくてごめんね」
 ななしが言た。
「いに秋祭り、行けなくなたね」
「行こう」
 私は言う。ななしはしばらく私を窺ていた。
「いに歩けないよ、もう。身体もごつごつしてきちたし。愛まで嗤われるよ」
 屋台の明かりが蘇る。提灯に導かれて辿た暗い道を思う。背中を支えてくれた温もりを思う。
「ななしと行くよ。浴衣着て、目一杯可愛くして、さ。絡まれたら、今度は私が守るから。約束」
 しばらくしてから、ふたりで小指を絡めた。涙が収まるころには、庭のヤツデは闇に溶け出していた。

              〇
 そして、秋祭りの当日。
 私は集落のはずれでななしを待ていた。
 二週間も晴れが続き、砂利道は風が吹くだけで土埃が舞た。
 両親は早苗と出かけると思てか、いつもより多めのお小遣いを持たせてくれた。
 来ないかもしれない、と思ていた。それでもいい。
 きれいなままのななしでいたいという気持ちは、私だて分かる。
 あの日、肩からこぼれる髪を見送たのだから。
 ななしはハサミと戦た。私のためなのか、それとも自分のためなのか。
 どちでもいい。ひとつだけ言えるのは、私はなにがあてもここで待つ。それだけだ。
 砂利道には闇が降りていた。道に面した家々の明かりが、ときおり吹き抜ける涼しい風に揺らぐ。

 何百回見上げただろう。道の彼方に、人影が見えた。足元がきちんとそろている。
 手を振ることも忘れて、私はすこしずつ大きくなる姿を見つめる。
 そう。
 女の子の支度が遅いのは当たり前でし
 夕風が吹き抜ける。
 浴衣姿のシルエトが、ほんのすこし、歩みを早めた。

         (了)
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