何事もなき夏の出来事 ◆W6mCFCW2q6氏
夏の日暮れどき、縁側の網戸に丸々としたカナブンがとま
っていた。居間で兄と夏休みの宿題をやっていた僕はちゃぶ台に肘をつきながら、西日に照らされたカナブンの陰影をじっと眺めていた。隣の空き地から虫の鳴くのが聞こえる。風が吹くと、青っぽい湿った匂いがした。目の前には絵日記が広げられているが、日付以外は真っ白なままだ。かれこれ三日、日記をなまけている。絵にしろ文にしろ、何も書くことが思いつかなかった。
「夏祭り兄ちゃんと行っていい?」
と僕は言った。
兄はカリカリと数学の問題を解きながら、顔も上げずに「おう」と応えた。今年高校受験を控えている兄は、春先から別人のように真面目に勉強をしている。進学先は偏差値の高くない地元の私立校だが、好成績で合格し、授業料が免除される特待を取らなければならない。両親は特待でなければ私立に進むことを許さないと言っている。兄はなにがしかの分けがあって、どうしてもそこへ入りたいらしい。
受験も何もない小学生なのに、何故勉強しなければならないのかと、白紙を鉛筆で突きながら考える。それから、山岸の姉のことを考える。
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先週、夏休みに入ってすぐの頃、スーパーでクラスメイトの山岸に偶然出くわした。僕は母親に夕飯の買い出しで連れてこられていたのだが、野菜を選んでいるのを見ても面白くないので、一人お菓子コーナーをうろうろしていた。陳列棚の向こうに、山岸を見つけたのはその時だった。特に学校で親しい仲ではないが、体育のチーム分けや遠足のグループで同じになったことがあった。彼は背が高く、縁のない眼鏡をかけている。目立ったことをしないが、勉強はできるほうで、僕が密かに一目置いている男だった。「よう」と声をかけると、山岸はポケットに両手を突っ込んだまま、顔だけこちらに向けて「ああ」と応えた。少し驚いた風だったが、大して興味もないという顔だった。「何してんの」と訊くと「なんもしてない。ただ…‥」といいかけて僕の後ろに視線をやった。
振り向くと、色の白い学生服姿の女の人が買い物かごを持ってこっちに向かって歩いている。「姉ちゃんだ」と山岸は言った。彼女も気がついたようで近くまで来た。「リュウちゃんの友達?」と彼女は僕を見て言った。僕は人見知りの質で、口を閉じていた。山岸は「ああ、クラスメイトの中川」と言いながら、姉の横についた。僕は今更「こんちは」と頭を下げた。山岸はこれで終わりという風に「それじゃあな、中川」と背中を向けた。 山岸の姉もつられて歩き去って行った。
また一人になったので、両手を頭の後ろに組んで、お菓子を物色しようと思った。その時、去って行く山岸の姉の話し声が聞こえてきた。「かわいい子だったわね」
僕はすっかり嬉しくなって、母親のところへ走って行った。それから荷物持ちを手伝って、夕飯を食べてる間「今日の料理はウマイなぁ」等と言ったりした。テレビもいつもより面白かった。
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それから夏休みの間、僕は山岸の家に遊びにいくことばかり考えた。しかしそれが実現することはなかった。家がどこにあるか知らなかったし、連絡網で自宅の電話番号がわかっても、山岸の家族が出たらと思うと、行動に移す気にならなかった。それに、僕が山岸と二人で遊ぶというのがそもそもおかしなことに思えた。今まで何度か二人で話したことがあったが、気がつくと当たり障りのない内容を話している内に「それじゃあ」と言われて終わってしまう。二人の間柄はそのくらい浅いものだ。
しかし山岸も夏祭りには来るだろう。そして姉も一緒にちがいない。根拠もないのに、僕はそう決めつけて考えた。そしたら彼女が「あら、あの時の子ね」と話しかけてくれるように思える。山岸の家に遊びにいくよりも彼女に会える可能性は高い。しかし会ってどうするのだか、僕も知らない。
ただ一つ、ラムネでも一緒に飲んだら楽しいだろうなと思う。
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今日の分でもさっさと終わらせようと適当にカナブンの絵を描いていると、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。
「兄ちゃん」
と声をかけたが、兄はまだ問題を解いている。返事もよこさないので、僕は日記帳を閉じて鉛筆を筆箱にしまった。とっくにカナブンはどこかへ消えていて、外は薄暗くなっていた。
「まだ終わんないの」
「うるさいな。急がんでもまだまだ時間あるだろ。もうちっと黙っとけ」
「はーい」
僕はまたじっと兄を待たなければならなかった。
母は病気の祖母の見舞いに出ていた。母の兄弟たちと話があるから帰ってくるのは遅いということだった。夕飯のお金は兄が持っている。ゆえに兄の言うことを聞いていないと、夕飯にありつけるかも危ぶまれる。もちろん夕飯は、夏祭りの屋台で食べることになるはずだ。
そしてラムネも……と考えて思い当たる。どうやって山岸の姉の分のラムネを買ってもらえばいいんだろう? 兄にはどうしても、二本ラムネを買ってもらわなければならない。僕は全然お金を持っていない。
太鼓と笛の音が風に乗って聞こえる。商店街はすっかり人でいっぱいだろうな、と想像する。焼きそばとイカ焼きと、かき氷と、水風船。金魚掬いはできない。うちの水槽には兄が以前掬った金魚が、鯉みたいに太って水槽の中を狭そうに泳いでいる。一緒に入れていた金魚をみんな食べてしまった奴だ。だからこれ以上の犠牲を生むわけにはいかない。
仕方がないので黙って畳の上に仰向けになって寝転んだりブリッジしたりしていると、兄が勉強道具をしまい出した。
「よし、じゃあ行こうぜ」
大仰に伸びをしながら兄は言った。
「うん。ラムネ飲みたいな」
「ラムネ? いいよ。財布持ってくるからちょっと待ってな」
兄は階段を二段飛ばしで登っていき、すぐに戻ってきた。「P」のマークの赤い野球帽をかぶって、尻ポケットに折りたたみ傘を突っ込んでいる。「毎年この時期は夕立がすごいからな」と兄は言った。
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暗い、静まり返った住宅地を抜けて大通りに出ると、夏祭りの香りがいっぱいに立ち込めていた。
真っ直ぐの通り沿いに所狭しと屋台が並んでいる。浴衣姿もちらほらと見える。人の流れが切れることなくずっと続いている。街灯と街灯の間に赤と白の提灯がぶら下がっていて、それを見るとなんだか嬉しい気持ちになった。僕は人混みの中を兄の背中にくっついて歩いた。
「エラくごった返してるなあ」兄は振り返って「何か食うか」と訊いた。
「焼きそばかな」と僕が言うと「焼きそばだろうな、まずは」と返した。
しかしこれだけ多くの屋台があるくせに、食べようと思ったものの屋台は何故か近くにはなかった。人が多く、行きたい方にさっさと進むこともできない。
「まあ、焼き鳥でも食うか」