労働の夏!職場小説大賞
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サラリーマン潮崎さん
投稿時刻 : 2016.08.06 23:59
字数 : 9200
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サラリーマン潮崎さん
塩中 吉里


 社員食堂から戻てすぐに声をかけられた。
 潮崎さんちと。
 先輩社員の今邨さんから呼ばれて、居室の横に併設されている会議室に向かう。
 会議室の中に入てすぐ、今邨さんは、顔をしかめて腰のケースから内線を抜いた。会社支給の旧式ピチの青色LEDが点滅している。着信だ。
「はい、キサンの今邨……ええ。はい、いまから打ち合わせなので……はい。はい、折り返し報告します」
 ほとんど相手の返事も待ていないような様子で通話が切られる。内線をケースに戻し終えて、今邨さんが腕を組む。口元は厳しい。わたしは、これからされる話が何なのか、もう分かていた。
「不具合込みのメデアはもう製造工程に回てるらしい」
 氷でも放りこまれたみたいに胃が痛む。
「出てしまたものは仕方ないとして、工程が稼働を始めるのが月曜。いつまでに修正版を出せばいいか、分かる?」
……今日が……金曜、ですから……
 考える時間を作るために当たり前の事実を口にしたところで、今邨さんの片眉が上がた。お前の時間稼ぎはみえみえなんだと言われた気がした。
「日曜までに作れば、なんとか、間に合うんじないでしうか」
 うつむいたまま急いで続きを答える。
 これが正解のはず。
 そう思ていたのに。
「あのさ……」今邨さんの声のトーンが下がる。「工場は群馬にある。ここは静岡。そり日曜の夜に出しさえすれば、こちの“日曜には出しました”ていうデドラインは守れるけど、向こうはどうなるの。週頭からメデア到着の待ちぼうけか? 郵送の時間があるでし。工場の納品てのはモノを受け取るまでだから」
 たたみかけるような早口で言うのは、彼が苛ついているということなのだろう。そして、今邨さんからここまではきりと苛立ちをぶつけられたのは、じつは初めてではない。今月でもう三回目だ。
 馬鹿を見るような目で、今邨さんは、わたしを見ている。その顔を、できるだけ直視しないようにする。
「すみません」
 本当は、言いたいこともあた。
 設計者は設計書を作るのが役割だ。工場がどこにあるかなんて、今まで気にかけたこともなかた。製造は担当外のことだから、わたしが分かるわけない。……とは、とても言えるような空気ではなかたから、わたしは反論しなかた。
「では、土曜の夜まででしうか。土曜の夜までに作て、日曜の朝イチで出せば」
「評価の工数は?」
 あ
 失念していた、という内心が、そのまま顔に出ていたのだろう。今邨さんの指摘は、けちのつけようがないくらいの正論だ。わたしが見落としていた事実の重大さを噛みしめるのを、冷静そのものの態度で、ただ待ている。緊急の場合なのだから、省いても良いのでは? という思考が全くなかたかといえば、嘘になる。それを見透かされていたのかもしれない。手のひらにいやな汗がにじんでくる。
「土曜の昼までにメデアを焼いて、午後から評価。動作確認が取れたら、日曜の朝に速達で出す。エビデンスは週明けに品証に声をかけて手分けして作る。それしかない。分かた?」
 分かていたが、わたしが答えるよりも、今邨さんの先回りのほうが早かた。答えるのが遅かたから、また馬鹿の上塗りをしたと思われているだろう。取り返すつもりで、わたしはすぐに返事をした。
「分かりました」
「分かたんだ」またなにかしくじてしまた。今邨さんの言葉は容赦がなかた。「じあ分かたとして、できるの?」
 できるか?
 言われてから気がついた。今まで話していた内容は、方針の、計画の話だ。「こうすれば良い」という話。じあ「誰がそうする」のか。修正版作成の実作業……設計を間違えたのはわたしだ。もちろん、わたしが修正するのが、一番早いだろう。自分の埋めた不具合だから、自分が一番よく分かている。だが、そうすると、休日も会社に出なくてはならない。経費削減の一環で、入社年度の若い社員の時間外労働は、原則禁止だ。入社時から二年目の今まで、耳にタコができるくらいに聞かされ続けている。わたしは入社からここまで、大きなトラブルに見舞われることがなかた。だからいままで休日出勤した経験がない。
 休日出勤。なにか手続きが必要だた気がする。勤怠の事務方と課長に許可を取らないといけないはずだ。そこで課長に、休日出勤の許可を出さないと言われたら、どうすればいいのか。代役を自分で探して立てなければならないのだろうかか。そんなこと、自分にできるのか……
「できるの、できないの」
 わたしが黙りこんでいるから、今邨さんは焦れたようだ。わたしが今まで休日出勤をしたことがあるかどうかなんて、今邨さんは知らないだろうし、気にしているはずがないのだ。
 だけど、わたしは、したことがないのに。
 ここが居室じなくて助かた、と思た。会議室で良かた。こんなふうに怒られているところを、同僚に見られたくなかた。いや、怒られているわけではないのだろう。手を打てと言われているだけだ。外部に流出してしまた、不具合が入た製品データが焼かれているDVDをどうにかしろと言われている。再来月には臨床試験が始まる新製品だ。そのために今月から工場で製造工程を通して、製品にデータをインストールして、チニングを加えて、臨床で購入を確約している施設に向けた二十台を、売れる状態にもていかなければならない。どこか他人事のように考える。
 チ、と対面で舌打ちが聞こえた。今邨さんだ。「できないなら他に……
「できなくはないです」
 またいやな言い方になてしまた。
「どういうこと」
「時間外労働禁止の措置がなければ、できます」
「つまり、できるの?」
「それは、課長に聞いてみないと、わからないです」
 ため息をつかれた。
「そういうときは、課長には許可を求めに行くんじない。これこれこういう理由があるので、責任を持て休出しますと報告する。あの人はあれで融通がきくから」
 融通がきく? そんなこと知らない。融通がきくなら、会社の規定は何のためにあるのだろう。残業禁止だとかいう徹底はなんのために? そう聞いてみたかた。聞いてみたかたが、同時に、また馬鹿にされるのだろうということも分かていたので、瞬きをたくさんしていまの話を深く考えないようにした。そういうもの。そういうものなんだ。わたしが間違ていただけ。しうがないことなんだ……
「はい、分かりました、勤怠と課長に相談してみます」と言て、今邨さんが頷くのを確認して、わたしは会議室のドアを開けた。
 今邨さんはドーモとだけ言て自席に戻て行た。
 わたしは、三十秒間だけ、この会議室をわたし自身のために使うことに決めた。息を吸て吐く。しうがない。そういうもの。瞬きをする。息をつく。ひとつ賢くなたんじない。よかたね。…………
 顔をあげて、会議室を出て、デスクに戻る。スクリーンセーバーがかかたデスプレイをにらみつけて、いつもより乱暴にマウスを動かす。
 少し泣きそうだと思た。
 本当は、日曜がダメだた時点でかなり苦しいことは分かていた。土曜の昼がデドライン? なぜ、できます、などと言てしまたのだろう。


 休出した土曜日、わたしは初めて終電を逃した。
 修正した箇所の評価が終わろうかというタイミングで、別の不具合が見つかたのだ。同じく休出していた今邨さんに状況を報告すると、舌打ちが返てきた。
「不具合が見つかたときに取る施策はいくつかある。直す、先送りにする、運用回避する……が、これは駄目だね。いままで見つからなかたのが不思議なレベルの不具合だ。直すしかない」
「誰が直すんですか」
 今邨さんはわたしを指している。
 今邨さんは……と言いかけてやめた。メデア出し直しの承認作業と各方面への合意取りは、さすがにわたしでは代行できない。今邨さんの仕事は今邨さんしかできなくて、わたしの仕事は誰だてできるのだ。
「三十分で修正方針の設計出してくれる。レビは俺がするから」
 わたしが設計した場所ではなかたが、ノーとは言えなかた。見ようと思えば見れなくもない箇所であたというのもあるが、なにより、とても逆らえる雰囲気ではなかた。わたしにできた抵抗は、せいぜい、ソースコードにふらと現れた〈 @date 20XX/XX/XX T.TOKINO 〉という文字列を睨むことくらいだた。
 自分の席に戻りしな、居室の壁時計を確認すると、十八時を少し過ぎたところだた。もともと休日なのだから、居室内に人はほとんどいない。加えて、十七時を回た辺りから、面倒な最終退出手続きを避ける目的もあるのか、みなぽつぽつと帰りだす。
 そうだ、誰だて休日に遅くまで会社にいたいはずがない。
 少し離れた島のデスクに座ている今邨さんだて、今日は本当は出なくても良かたはずだとか、いなくなた設計リーダーの代役として余所の部署から引張られてきたばかりなのにトラブル続きだとか、それが誰のせいなのかとか、そういう余計なことは考えず、設計をしなければならない。
 修正箇所の特定。状態遷移したときにフラグを立てる……フラグはこう引き継ぐ……引き継いだフラグはこのイベントで参照して、……本当に? ここで更新してここで初期化する。異常系のタイミングは? ああ、抜けてる。クロスは上でガードしているから、下はログを吐くだけで良い? でも万一が……デフルトを突込んで動かす……ぱり駄目だ。ユーザーに問題があるから、エラー関数を仕込んでフタルに落とす。できた? 図に書いてもう一度……
 ……大丈夫。
 できた。
 デスプレイにかじりついていた姿勢から顔をあげる。この時点で既に十九時だた。すぐにレビに入て、その修正で十九時半。製造からメデアを焼くまでで二十二時に。いざ評価を終えた時にはとうに二十四時を過ぎており、評価実験室から戻てくると、居室にはもう今邨さんしかいなかた。
 静かな居室内に、今邨さんがキーボードをぱちぱち打ている音だけが聞こえている。
「今邨さん」キーボードの音が止まる。疲れた顔がこちを向いた。「評価終わりました」
「なんか出た?」
「出ませんでした」
「そう。まあ、そのためのレビだからね。お疲れさま。週明けでいいから、評価結果シートにハンコ押して机に出しといて」
「はい」
「さすがに俺たちが最後か。居室閉めるから。あちの空調切て、帰る準備して」
「はい」
「メデアは俺が明日の朝イチに送るから、潮崎さんは出なくていいよ」
「はい」
 実際、このときはもはやハイかイイエかオウム返しで足るような受け答えしかできない状態だたので、今邨さんの矢継ぎ早の指示も気にならなかた。
 最終退室の手続きをして、居室を施錠して、守衛さんに鍵を渡す。
 言われるままに動いていただけだたので、帰りの足がないと気がついたのが、守衛さんに挨拶して会社の門を出たところだた。終電はもう一時間以上前に終てしまている。タクシーを呼ばなければ……と、考えたところで、財布の中身が気になた。今朝、出がけに昼食をコンビニで買たとき、小銭しか入ていなかた気がする。この時間帯ならば、タクシーは当然、深夜料金だ。会社から家までの正確な距離を知ているわけではないが、私鉄の準急で三駅かかる距離が、千円二千円の額で済むものではないことくらいは、なんとなくの想像がついた。
 お金、おろさないと。
 最寄りのコンビニは、と反射的に考えたところで、今の時間が二十四時をとうに回ていることを、わたしはもう一度思い出すはめになた。今は深夜だ。週末の深夜。駅前にあるATMは取引停止の時間帯だ。
 守衛門の街灯が頭上を照らしている。
 小さな羽虫が電灯にたかている。
 五月の風が生ぬるい。
 心がけいれんしているような気がした。麻痺のような、笑いのような、奇妙な感情が湧いてくる。そういうものなんだ、ともう一度言い聞かせる。なんでこんなことを何度も反芻しなくてはならないのだろう。でも、そういうものなんだ。
 今日一日頑張たことへの現実の返礼がこれなのだ。
 歩いて帰ろう。
 明日は……今日は休みなのだから、帰れないということはないだろうと決めて、わたしは人通りのない夜の道を眺めた。人もいなければ、車も通りがからない。会社が周囲の田畑ごと土地を買い上げているものだから、この会社の周りは、電灯と自販機と水田以外は、本当にしばらく何もない道ばかりが続いている。
「ちと、潮崎さん」
 一歩を踏み出す前に、今邨さんの声がした。わたしが居室の戸締りをしている間に、今邨さんは評価実験室の戸締りをしていた。評価実験室のほうが守衛門から遠い場所にあるから、わたしのほうが先に帰り支度が済んだ。
 今邨さんは、ちうどいま鍵を返しにきたところなのだろう。作業着から私服に着替えているので、いつもと違う人に見える。
「潮崎さんの家てこの近く?」
「近くではないです」
「今日は車?」
「車は持てないです」
「実家暮らしだけ」
「一人暮らしです」
「そう。潮崎さんて彼氏いるの」
 突然の変調にぎとして、とさに言葉を返すことができなかた。反応を、見越していたのかもしれない。街灯の下の今邨さんは平静なものだた。
「あー、勘違いしないでね。帰りは危ないから、誰かいるなら車で迎えにきてもらうようにてことだから」
 わたしはというと、今邨さんの年齢が二十九で引き算をすると六だとかを考えていた。死んでしまいたい。
「ふーん、いないの。じあタクシーか。タクシーは領収書取ておくように」
 こちらがなにかを答える前に、今邨さんは勝手に納得して、駐車場方向に去ていた。


 歩いて帰ていると、途中から、腹の底が痛くなてきた。
 家は遠かた。
 歩いている間じう、腹の中で黒い炎が燃えているような心地がした。
 今邨さんの車に乗せてくださいとなぜ言わなかたのか、考えながら、遠い道を歩いた。あの人は明日も……今日も出ると言ていた。そんなことはどうでもいい。せめて、お金を貸してくださいと言えばよかた。いや、言わなくて正解だた。正解だて、なにが。わたしはわたしが正しい選択をしたことを証明しようと、うつむき加減で暗い道を速足で歩き続けた。
 なにもかもがうまくいていない気がする。でも、働くていうのは、そういうものなんだ。わたしがしかりしていれば、こんなに足が痛くなるまで歩かなくてすんだんだ。もう二度とこんなことにならないように、気を付けるしかないんだ……

 本当に?

 アパートに帰り着いたとき、既に山の端は白みはじめていた。腕時計をちらと確認すると、四時間半かけて歩いていたらしいことがわかた。
 階段をのぼり、鍵を開けて、玄関に倒れこむように靴を脱ぎ、歩きながら脱衣して、とりあえずシワーを浴びる。お腹の中を燃やしている炎を消火するつもりでザアザアと勢いよく洗い流す。途中でタオルも着替えも用意していないことに気が付いたけれど、投げやりな気分にはちうどよかた。思いきり部屋を汚してしまいたい気分だた。
 湯上りの髪も乾かさず、そのまま泥のように眠り、目が覚めたのは正午過ぎだた。髪の毛がひどいことになていたけれど、想定通りなので気にしない。気になるのは、もやもやしたいらだちのようなお腹の痛みがおさまていないことだた。いよいよたた一日の休日を諦めて病院に行こうとしたが、わたしは結局、行き先を変更した。
 水族館だ。
 アパートの最寄り駅からずと遠い駅にあるけれど、わたしはあの水族館が好きだた。そこよりももとずと遠い故郷の町にあたものと似ていたから。
 水族館に着いたとき客はまばらだた。日曜日の昼下がりだから、だろうか。手をつないで生睦まじい様子のカプルと、親子連れが、ちらほらいる程度。彼らから離れて、わたしは腹に手をあてながら、水の中で息をする生き物たちをながめて回た。歩いている間じう、腹の中で黒い炎が燃えているような心地がした。
 わたしは小さなシチのキーホルダーを買て帰た。
 火には水をと思ていた。


 週明けから、職場での使われ方が変わていることに気がついた。
 休日出勤したときに、ついでに不具合を潰したことが、わたしの評価を上げているらしかた。いままでは自分の力量ではむりだとされていた仕事が、回てくる。
 だが実態として、たた一度の休日出勤をしたからといて、仕事のスキルが上がているわけがない。わたしが使える人間になたという見方は表向きの建前だ。本音はというと、ようやく自分たちの仕事を押し付ける先が見つかたということなのだ。それくらいは分かるようになていた。
 いやな見方だ。
 この会社は常に一〇〇%以上の仕事に追われている。
 だが、経費削減という名目で、残業は減らせと言う。
 だからわたしは課長に怒られる。
「潮崎さん。今月の残業時間、二十時間越えてるじない。原則ゼロて言てるよね。どうしたの」
「十二時間は、先週の不具合対応のものです」
「あ、あれ。なるほど。あれはしうがないけど、代休取たら減るでし。なんで代休取てないの?」椅子の上でくるくる回りながら課長が言う。「あと、他の残業はなに」
「あー、石尾さん、それ構造見直しの工数ですよ。キイチからおカネ貰てやてるデスコン対応の」
 いきなり今邨さんが割り込んできた。
 課長がメガネを直して、傍を通りかかた体の今邨さんに椅子ごと向き直る。
「機器開発第一から? いくら?」
「一人月ぶんどてます」
「へえ? そりまたずいぶん……
「ぼたくてません。あんなゴミみてーな母体預けてくるならこちもそれなりに貰うモン貰わないと割に合わないですよ。ねえ潮崎さん」
 はあ、と曖昧に頷いたが、今週に入てから突然押しつけられた仕事の意味を知たのは、そのときが初めてだた。よその部署が抱えきれなくなた仕事を引き取て、その分の代金をもらていたらしい。
「ふーん。今邨くん、他にも内部発注のネタ持てる?」
「まあ、いくつか。まだ確定じないですけどね。今期中に、三百くらいの案件と、細かい百くらいのが取れそうです」
「なるほど。それで潮崎さんを養えるわけね」
「そういうことですね。だから今月はだいたい四十時間まではセーフです」
 それで話はまとまたらしかた。課長はデスクの書類に視線を落とす。もう戻ていいよという意味なのだろう。
「潮崎さん、ちといい」
 自分の席に戻ろうとしたら、今邨さんに呼ばれた。あち、と言われて会議室についていく。中に入ると、椅子を引かれて、対面に座るよう指示された。
「さきの話、意味分かた? 俺と石尾さんが話してたやつ」
 内部発注の話をしていることは、なんとなく分かた。
「よく分かりませんでした」
「そう。仕事振たときも、さきの話も、にこにこしながら聞いてるからてきり理解しているのかと思てたけど」
 突然の通り魔にあたような気分だた。いまさらながら、わたしはこれが説教部屋なのだと気がついた。背中が緊張の汗で濡れた。
「まずね、」
 と言われて、怒られる内容が一つでないと知た。
「基本中の基本なんだけど、残業時間の管理は、必ず上長と意識を合わせて。休出も含めて、俺が仕事を振たとき、残業は石尾さんに確認するよう言たよね?」
「休日出勤の件は、金曜日に伝えました……
「それで、以降の残業もオケーだと思たわけだ」
 頷くとため息が返てきた。
「今後は気をつけて。本当は今日俺が言た内容は、潮崎さんが石尾さんに伝えるべきことだから」
「はい。すみません」
 気分が悪くなてきた。早くこの会議室から出たい。
「別に叱てるわけじないから」
 今邨さんはそう言うが、とてもそうは思えない。
「それから、キイチから一人月稼いでるて意味が分かてないみたいだたけど」
「すみません」
 先に謝ると、今邨さんが片眉を上げた。今邨さんはよくこれをする。外国人みたいな仕草だ。昔、留学でもしていたのかもしれないが、そんなことは今この場ではどうでもいい。たんなる思考の現実逃避だ。
「潮崎さん、顔色悪いよ。俺、叱てないて言たよね」
 とてもそうは思えないが、そう言ていた。
「あれは機器開発第一から、潮崎さんが、潮崎さんの力で八十九万円分の仕事を請け負て、うちの機器開発第三の利益に貢献してるて意味だから」
 つまりどういうことなのだろう。
「土曜日、潮崎さんの設計をレビしたでし。あれを見て、潮崎さんならいまのプロジクトをやりつつキイチのお荷物まで見れそうだと思たんだよね」
 仕事が増えたのは、今邨さんのせいらしい。
「二年目でもう自分の食いぶちを稼いでるてことだよ。すごいことだから、もと自信をもていい」
 今邨さんが穏やかな声で言う。わたしは耳をふさいでしまいたかた。卑怯なやり方だと思た。だから他人事みたいに「そうですか」とだけ返した。
「潮崎さんはよく頑張てるよ」
 できれば自分が何の仕事をしているのか気にかけてくれたり、もう少し周りと積極的にコミニケーンをとれるようになたりするともと良いけど、そこまで求めるのはまだ早いかな。そう続けた今邨さんの話の後半は、独り言のようだた。
 わざわざ聞こえるように言うから、いやな人だと思た。
 ほんの少しでも嬉しいと思てしまた自分を殴りつけたい。


 その日の帰り道、寝過してしまた。
 わたしが目を開けると、窓の向こうに、降りるべき駅名を掲げた看板が流れてゆくところだた。あ。と思た時には、すでに電車は加速を始めていた。とりあえず立ち上がてみたが、もはやなんの意味もない。また元の座席に座りなおす。これが朝の通勤でなくて助かた、と思うことにする。
 電車の振動をゆりかご代わりに眠る人はどれくらいの数いるのだろう。鋼鉄の駆動装置つきの巨大な箱を母親代わりに生きている人のことを、わたしは考えた。短いトンネルに入て、風がうなり声をあげる。
 次の駅で降りて、反対側のホームへまわて、電車を待つ。
 あーあ。
 ばかなことをしたなあ。
 あーあ。
 時刻は十九時を回ろうとしていた。ここはまあまあの田舎だから、一本逃してしまうと、次の電車はなかなか来ない。一時間に多くて四本。待つ時間が長いと、どうしても考えこむ時間が増えてしまう。歩いて帰ろうかと一瞬だけ考える。
 でも、わたしは、それがどんな徒労か既に分かている身なのだ。
 わざわざもう一度つらさを確かめる理由はない。それでも、ただ立て待つことは耐えがたかた。嫌なことばかりを考える。
 体が勝手に小さく揺れはじめる。
 鞄につけたシチのキーホルダーも揺れる。
 腹の中で黒い炎が燃えているような心地がした。
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