第35回 てきすとぽい杯
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酔歌
投稿時刻 : 2016.10.15 23:27 最終更新 : 2016.10.15 23:39
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酔歌


 物を形作るには、必ず何か決定事項を付ける必要がある。
 大都市では大勢の人間が就職し、社会に奉仕するというルールがする。森の中では動物たちが虫を食べ、その動物より強大な動物に食べられる。家の中では長男に風呂掃除を任せ、母が料理を作る。
 彼等、「生き物」はルールを決める。そうすることで自分を縛り付け、より良い生活を送るようにする。
 だけれど、何故だろう。彼らは自らが「生きなければいけない」というルールを決めた覚えはないのだろう。おそらく。
 だから、私は彼らに考えてほしいのだ。彼らが何故「生きたい」と思い生活するのだろうと。

 生き物が生まれるためには必ず性的な合成を伴う。そうして生まれた子を、人は学ばせる。動物は野生へ独り立ちできるまで守る。
 人はそれを不自然だとは思わないのかもしれないが、この「必ず性的な合成を伴う」というルールは誰が考えたのだろう。人が生まれるずと前、まだ宇宙が存在していない無の状態から続くルールなのかもしれない。
 では、何故そのルールが必要だたのだろう。

 おそらく、今この世界を創るうえで最も重要事項なのが生命の創造だろう。
 私は思う。きと、今のこの世界が見たいという思いから、このルールを創たのだろうと。
 誰かが子を産み、誰かが働き、誰かが食を楽しみ、誰かが罪を犯す。
 私は彼らがどんな文明を築いてくれるのだろうと楽しみだた。
 しかし、この「罪を犯す」という事項だけは例外だ。これは元々発生させる気なんてサラサラなかたのだ。
 何故だろう。私でさえこの「罪を犯す」という項目が発生し、現代にはびこてしまたのか、根本的要因はよくわからないのだ。
 仮に考えるとしたら、私が世界を創るなどと妄想したこと自体が罪だたのかもしれない。私よりもずと上の存在の判断では。
 そして実行してしまた。それが犯罪者の思想に繋がり、現在のようになてしまたのではないか。
 だが、この欲求的な考えが無ければ、今日の芸術産業は起こていないと思う。元々は欲求思想なんてものは含むつもりはなかたし、入れたところで余分なエネルギーとしていつの日か消え去てしまうだけだと考えたからだ。
 だが、この「罪を犯す」というルールは、様々な変化を引き起こした。もしこのルールが無ければ、ここまでの発展は遂げずに、ただ見えない「神」という存在に対して奉仕するだけの世界だたのかもしれない。
 そういう意味では、私はこの「罪を犯す」というルールを作たのは正解であり過ちであると思うのである。
 だが、この「罪を犯す」というルールが発生したことによて生じるルールの中に、害悪が存在している。
 それが「破壊と創造」である。

 ついこの前第2次世界大戦が起こたように、人は破壊を行うことで自らの過ちを悔い改めるのだ。
 そうして今の世の中を形作て行く。
 ただ、一度きりならいい。そうではない所が、このルールの嫌な所だ。
 確かに犯罪者は一度「罪を犯す」だけでは飽き足らず、二度三度と「思考を流転」させる。つまり極端ではないのだ。
 だから人々はまた戦争を起こし、間違いを繰り返す。

 だから、現在の宇宙にはこのルールが私は不要だと考えている。
 それが「「罪を犯す」というルールのおかげで「破壊と創造」が生まれ、そして「思考の流転」が発生する」というルールである。
 私はもう彼らを破壊することしか許されてはいないから、いまさら覆すことは出来ない。でも、いつの日か、彼らがこのルールを変え、清き正しい世にできるルールを提示してくれることを私は彼らに託したい。
 それこそが、私が彼らに生きて欲しい理由であり、希望なのである。
 そうして私はまた、破壊を行うのだ。
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