憂国の朝
茶屋新三郎は、国を憂いていた。
ただ憂いているのではなく、激しく憂いていた。
広義な意味での公務員である新三郎だが、一体何が起きているのかと不安にな
ってくる。昨日中に届けられるはずの薬が、まだ来ていない。さっき新聞受けをのぞいたら、そこに入っていたのは東スポが一部だけだった。
新三郎は、生まれながらの透明人間である。母親が産み落とした時には、泣き声はすれど姿はなく、助産婦はエアー出産さながらに新三郎を抱き上げ、産湯につけた。
透明人間が生まれることは稀にあり、その事態に直面した際には国へ報告することが義務付けられている。新三郎も母親の手を離れ、三沢基地の一角にある施設で育てられた。基地には通信傍受システムのエシュロンが配備されており、主にロシアに対する情報収集やテロの防止に活用されている。が、これはあくまで建前だ。「透明な僕」が無数にいるこの国にはいつしか透明人間が誕生し、政治的駆け引きの切り札となっていた。新三郎も、物心ついた時から三沢基地で諜報部員としての教育を受けていた。
「これでは、コワルフスキーを尾行できないではないか」
新三郎はテーブルを拳で叩き、苛立った。
シャツをめくると、目覚めに飲んだコーヒーが、胃にたまっているのが見えた。なにしろ透明人間だ。口に入れたものは、すべてが透けて見える。だから薬が必要なのだ。薬があれば、消化中の食べ物も身体と同様に透明にできる。そして発熱効果があるので、裸になっても寒さに耐えられる。
薬は透明人間の命綱だった。定期的に新三郎のマンションに届けられる手はずになっているが、さっき本部に確かめてみるたところ些細な連絡ミスで支給が遅れるという。
ベランダの窓から見える、まだ陽の力の弱い太陽が疎ましかった。重要な取引があるにも関わらず、本部の判断で今日の尾行は中止されたのだ。
些細な連絡ミスというのは、何かの陰謀ではないのか。
新三郎の胸のうちに疑念が湧いてきた。
きっと俺は知り過ぎてしまったのだ。まさかロシアの指導者に女装趣味があったとは。
透明人間の影に怯える新三郎の背後で、ピアノ線が一本、宙に浮かんでいた。その細く小さな輝きに、新三郎はまだ気がつかない。