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「覆面作家」小説バトルロイヤル!
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清らかな隔壁
(
伊守 梟(冬雨)
)
投稿時刻 : 2017.07.08 19:53
字数 : 6770
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清らかな隔壁
伊守 梟(冬雨)
お題:不倫/
懊悩
重たい雲が空を覆
っ
ている。雨が降りそうな気配はまだないけれど、一度降り出せば数日続く長雨になるだろう。そんな予感がした。
駅の三、四番線ホー
ムと七、八番線ホー
ムとの間で私たちはスマー
トフ
ォ
ンを使
っ
てメ
ッ
セー
ジのやりとりをしていた。四番線、六番線のホー
ムにはひ
っ
きりなしに電車が到着、出発を繰り返していたけれど、幸運なことに七番線に電車がや
っ
てくることはなか
っ
たから、四番線と六番線に停車している電車がないとき私たちはお互いの姿を確認しあうことができた。そして、手にしているスマー
トフ
ォ
ンでまた新たな言葉を送り、その言葉に対して新たな言葉で返信した。多くの恋人がそうであるように、私たちも常に新しい話題を欲していた。たとえこれまでに数え切れないほどの話題を共有してきたとしても。
やがて、彼は三番線に入線してきた電車に乗
っ
てホー
ムをあとにした。私もピンク色のラインの電車に乗
っ
てこの駅を去
っ
た。次に会えるのはどれくらい先だろうか。一か月か、二か月か、あるいはもう二度とふたりで会うことを許されないかもしれない。
電車の窓を見慣れた景色が流れていく。ほとんどが住宅でマンシ
ョ
ンが少し、国道沿いには大型店舗が姿を見せる。でもそれは、通勤で使うときに見るものとはだいぶ違う景色だ
っ
た。どこが違うのかはうまく説明できない。天気のせいもあるかもしれないし、寂しさを抑えきれない私の脳が、網膜にとらえられたものとは違う映像を作り出してしま
っ
ているのかもしれない。もしそうなら、それは残酷な役割分担だ、と私は思
っ
た。
スマー
トフ
ォ
ンにもう新たなメ
ッ
セー
ジは送られてこなか
っ
た。彼はこれから私の彼としての彼ではなく、彼女の彼としての彼を演じなければならない。同時に私は彼の彼女としての私ではなく、夫の妻としての私を演じなければならない。私はスマー
トフ
ォ
ンをバ
ッ
グにしま
っ
てため息をついた。わか
っ
ていることとはいえ慣れることはないだろう、残酷な役割分担だ。
次にドアが開いた駅で私は無意識に電車から降りた。それが降りるべき駅だ
っ
たのは、その日私が得ることのできた二度目の幸運だ
っ
た。
たかだか四十年余りの半生を歴史と呼ぶのはいささか気がひけるけれど、彼と私の関係はいくつかの意味で歴史だ
っ
た。簡単に言えば、私のスマー
トフ
ォ
ンに登録されている連絡先のうち最も古い名前が彼であり、私のことをも
っ
とも深く理解しているのが彼である、ということだ。彼の名前は私にと
っ
て、簡易的な手帳に始ま
っ
て、システム手帳、携帯電話、スマー
トフ
ォ
ンと渡り歩いてきた歴史あるものだ、と言い換えることもできる。
駅前のバス停には五人ほどの人が曖昧な列を作
っ
ていた。五人程度の人数ならこれから乗るバスの始発となるこのバス停では着席の可否について誰も危機感を覚えないのだ。実際に数えたことはないけれど、バスにはゆうに二十人分を超える座席があるはずだ。
私はその列の一番うしろに並んで、これから行くスー
パー
でする買い物のリストを作る。頭の中に一人分の夕食のメニ
ュ
ー
と日用品の数々が次々とリストア
ッ
プされていく。
釣りに行くと言
っ
て朝早く家を出た夫はおそらくまだ帰
っ
てはいないだろう。釣果によ
っ
ては一緒に行
っ
た釣り仲間とお酒を飲んでくる可能性だ
っ
てある。少なくとも今日私は夫に、夕食はいらない、と言われている。スマー
トフ
ォ
ンは私のこれからの予定について何も語らない。
五分ほどでバスが到着して、並んでいた六人はうしろ扉から気だるげに乗車する。バスに乗るときの説明しようがないあの陰鬱さはい
っ
たいどこからくるものだろう。あるいはそう感じているのは私だけなのだろうか。そんな答えの出ない疑問を私は無造作に頭の片隅から捨て去る。
バスは大通りをゆ
っ
くりと走る。雲は頭上から私たちごとバスを飲み込んでしまいそうに見えた。バスだけじ
ゃ
ない。存在する空間と時間をすべてその体内におさめてしまおうとしているようにさえ思えた。
帰
っ
て料理をするのが面倒だ
っ
たので、夕食は惣菜と果物で済ませることにした。いつもならスー
パー
から歩いて二、三分のところにあるドラ
ッ
グストアで買うテ
ィ
ッ
シ
ュ
やトイレ
ッ
トペー
パー
、ボデ
ィ
ー
ソー
プの類も同じスー
パー
でまとめて買うことにした。バスに揺られている間に私の頭の中で作り上げられた買い物リストはかなり長いものにな
っ
ていた。しかしそこには調教された野菜も美しい断面のサンドイ
ッ
チも記入されていなか
っ
た。
両手に大荷物をぶら下げて、私は玄関の鍵を開けた。鍵が閉ま
っ
ていたということは夫はまだ帰
っ
てきていないということだ。何が起こるかわからないこの世の中において少し物騒な話だとは思うけれど、夫は家に帰
っ
てきても自分から鍵をかけようとしない。何度口うるさく言
っ
てもほぼ毎回とい
っ
ていいほどかけ忘れるのだ。
私はリビングのテー
ブルに荷物を置き、照明をつけて、大きく息を吐いた。首筋のあたりにまだ彼の匂いが残
っ
ているような気がして、私はすぐに買
っ
てきた詰め替え用のボデ
ィ
ー
ソー
プを掴んでシ
ャ
ワー
を浴びに行く。あまり匂いのしない、使い慣れたボデ
ィ
ー
ソー
プだ。彼も夫も強烈な匂いのするシ
ャ
ンプー
や石鹸や化粧品を好まない。
給湯器の温度を三十七度に設定して、私はシ
ャ
ワー
を浴びる。ぬるめの温度にしないとこのからだにこも
っ
た熱をうまく冷ませないような気がした。濃密な泡そのもののように柔らかいボデ
ィ
ー
スポンジでからだを洗
っ
ているとき、冷蔵庫に入れるべきものをリビングのテー
ブルの上に置き
っ
放しにしてしま
っ
ていることに気づき、私は短くため息をついた。
からだを拭いて部屋着に着替えリビングに戻ると、窓の外からラジオのノイズのような雨の音が聞こえてきた。まだ四時を回
っ
たころだというのに、窓から見える景色はもはや夜のはじめのようだ
っ
た。いや、夜ではない。何か不吉な予兆を孕んだ明るさであり、暗さだ
っ
た。二度か三度窓に閃光が走り、巨大な鋼鉄の球体でビルが暴力的に破壊されるときのような轟音が響いた。冷蔵庫に卵を入れながらふと、彼は無事に帰れただろうか、と心配にな
っ
た。
雨の時間はその騒がしさから想像できないくらいにゆ
っ
くりと流れた。このリビングで動いているものといえば時計の秒針くらいだ
っ
た。
私は椅子に座
っ
てテー
ブルに肘をついている。変わらないリビングの光景をぼんやりと見つめている。戸棚や、電話や、観葉植物や、漫画しか並んでいない本棚や、ふたりがけのクリー
ム色のソフ
ァ
や、夫と写
っ
ているいくつかの写真や、リビングの広さに不似合いな大きさのテレビや、隅で折りたたまれている古いノー
ト型のパー
ソナルコンピ
ュ
ー
ター
や、そんなありきたりなものたちだ。
スマー
トフ
ォ
ンは静かに時を刻んでいた。相変わらず私の今後の予定について何の指示もなか
っ
たけれど、どこかにいる誰かと確実につなが
っ
ているのはそれだけだ
っ
た。
そのスマー
トフ
ォ
ンに夫から連絡があ
っ
たのはキ
ッ
チンでりんごの皮をむいているときだ
っ
た。
「今から帰るよ。タクシー
を呼ぶから三十分くらいで着くと思う」
夫は珍しく上機嫌だ
っ
た。よほどたくさんの魚が釣れたのか、あるいは友人と飲んで盛り上が
っ
たのか、どちらにしても私にと
っ
て悪いことではない、と思
っ
た。
雨はいくぶん小降りにな
っ
ているようだ
っ
た。さ
っ
きまでしきりに続いていた雨音はほとんど聞こえなくな
っ
ていたし、不吉な予兆はずいぶん前から消えて無くな
っ
てしま
っ
ていた。
りんごと竹輪の磯辺揚げという妙な組み合わせの夕食とその洗い物を済ませたとき、気の抜けた音のインター
フ
ォ
ンが鳴
っ
た。
「ただいま」
聞き慣れた抑揚のない声が耳に届く。
「おかえりなさい」
そう答えて玄関に向かい鍵を開ける。
クー
ラー
ボ
ッ
クスをかつぎ、釣り竿を持
っ
た夫が静かに微笑んでいる。夫は雨に濡れてはいなか
っ
た。