◆OD氏の節◆
あわただしく、玄関をあける音が聞こえて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきま
っているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。
夫は、隣の部屋に電気をつけ、何やら物音が聞こえて参りましたが、どうせまた悪い虫が起きて、薬でも探しているのだろうと寝入ってしまいました。
首筋が、何やらこそばゆく感じます。目を開けたなら既に朝でした。エビにも似て丸めていた体を起こしますと、案の定、気味が悪い程に大きく眼を見開いたネコが、覗き込んでおりました。これは珍しい事もあるものよと、寝床の傍らを眺めますと、夫の姿はありませんでした。
白毛に黒の牡丹を散らしたネコ。
前妻の頃から居ついたこのネコは、偉く夫に懐いておりました。朝、日が昇りますと一番に夫の寝床に現れて、朝餉の催促をするのです。
だけれど今日は蛻の殻。それで仕方なくこちらに寄ってきたのでしょう。昨晩遅く、帰宅した夫は、何かしらの理由で家を飛び出していたのです。
ひとりきり。いえ、ひとりきりと一匹が置き去りにされました。パピナール漬けの夫から移された薬臭いのネコを抱き、ひとり縁側で呆けるより、ほかありません。
◆JT氏の節◆
前妻の頃より、どれだけの贅沢に晒されてきたのか分かりもしませんが、この猫たるや、そんじょそこらの惣菜など見向きもせずに、只々、七輪で香ばしく炙られた小魚を欲しがるのです。
飼い主様が、漬物だ、煮しめだと辛抱しているにも関わらず、皿を差し出すと、ついと鼻先を他へ向け、うろうろと歩き出します。その有様に、憎たらしいわ、頭にくるわと、皿を片付けると、何やら香ばしく濃厚な香りが漂って来たものですから、襖を開いて縁側に飛び出ますと、それは、お隣の御屋敷から流れて来る様に思えました。
嗚呼。これはきっと、肉を調理しているに違いないわと、夫に誑かされる前、母と一緒に定禅寺通りを散歩した際に、洋食屋の店先に溢れていたヴイオンの香りを思いだしました。
猫は風上を向いて、物欲しそうに「ミャー!」と、鳴きます。
―― 恥知らず!
贅沢なものに尾を振るこいつに腹が立ち、それを抱き上げて座敷に駆け込みました。
◆AH氏の節◆
まな板を叩いていると、奴はやって来た。時折、その叩く音が強くなる度に、奴の背は獰猛に弧を描く。
挑発しているのか。その鳴き声は台所に響き渡った。それは遮るものがない、大海原に発せられたシャチの雄叫びに似ていた。
この音は戦いを告げているのか。助けるものは誰もいない。ここには二人だけが存在している。わたしは、ひとり船で漕ぎ出して孤高の戦いを挑む漁師だ。手を流水で清め、しっかりと包丁の柄を握り直した。
そして、再び野菜を刻み始める。凪いだ海は緊迫の象徴だ。目の端で奴を追うと、ぶら下がったシャモジやヘラを盾として、強かに移動している。カラカラと揺れたシャモジに、奥方の眉は寄った。
奴は跳ね上がると、目算を誤ったのか、刻み野菜の上に転落した。辺りが野菜塗れになった。
憤怒で放った銛ならぬ包丁は、見事にまた板に突き刺さった。その鈍い音と共に、奴は総毛立ち、座敷の彼方にその姿を消した。戦いは疲労感とともにあっけなく終わった。
それは遠き、バハマの潮の満ち干きに似ていた。
◆KY氏の節◆
進めど進めど、出口の兆しすら見えないこの長い回廊は、逃避の道かそれとも懺悔の牢なのか。
救いようもないこの身にも、燈火は注がれるのか。県境の長いトンネルを抜けると、雪原がひろがっていた。ひとりならず二人の妻を不幸にし、薬に溺れ、薬欲しさに薬局の内儀にも手を出してしまった。その上、身のやりどころが無くなると、嘗て逢瀬を重ねた芸妓を頼って汽車に乗ったのだ。
まさに救われない馬鹿者は、車窓から見えるま白の雪でさえ、清める事はできない。
汽笛が胸を突き、汽車が駅へと滑り込んだ。悲鳴を上げた車両が軋み、曇った硝子が震える。
山形へ一歩足を踏み降ろすと、一片、二片と舞い落ちる雪は大きな牡丹であった。ふわふわと、右往左往しながら落ちて握中にて消える雪を見詰めると、不憫な女たちの面影が過ぎった。
駅舎を歩いていると、子連れの母親が慌ただしく追い越して行った。追い越される刹那、頬が林檎となった童と目があった。上目使いに向けられたその瞳は、見知らぬ大人に向けられた警戒の目であるのだけれど、一角の幸せを築けなかった己を裁く、冷たい目に感じた。
◆KM氏の節◆
くたびれたコートの襟を立て、駅舎の外に出ました。雪をかぶった大きな森と、ま白な田んぼがひろがっております。ふと、振り返ると、次の目的地へ向かった汽車は、白い煙をもくもくと吐き出しながら、エメラルドをひらたくのばした空に飛び立って行きました。
お見送りでしょうか。白サギの群れが、汽車に付き添って飛んでいます。
「ハレルヤ、ハレルヤ」
その歌声は、この世界中にひろがります。
突然、何かが体にぶつかって倒れそうになりました。
「おじさん、ごめんなさい! おじさん、ごめんなさい!」
それは、子ぎつねの兄弟でした。耳の縁がまっ黒の、兄さんきつねが陽気に話します。
「これから、森の幻燈会!」
すると、弟きつねも合わせました。
「これから、森の幻燈会!」
兄弟は、しばれて固まった雪を、その小さな足で踏み鳴らします。
「きっく きっく きっく! 嬉しいな。凍み雪、らくちん嬉しいな!」
二人は、嬉しそうに森へ向けて歩きだしました。
「おーい。君たち! 山華楼を知らんかねー」
「山華楼はこっち! 山華楼はこっち!」
二人は、ふわふわ尻尾を揺らしながら手招きをします。わたしは、それについて行きました。
森の山華楼は、三層に重ねられた豪華な建物でした。大きな雪の結晶はそのまま水晶となって、辺りにたくさん気をつけをして立っています。
「はて? こんな建物だったかしら」
煌びやかな観音開きの扉を開けると、帳場には大きな梟が立っていました。それは、身の丈程にも大きく、大きな硝子玉の瞳をきらきらさせながら、首を回しています。
「梟さん。駒子と呼ばれる芸妓はおりますか?」
くるくると回していた首を止めて、梟は首を小さく傾げました。
「駒子は…… いないゾ」
どこぞやに行ってしまったのかと、問いを重ねると、梟は無責任にも「いないものはいない。いないものは仕方ない」と連呼するではないですか。
「どこへ行ったか、ご存知ないのですか?」
梟は首ばかりか、顔までも回し始めると、硝子玉が真下になったところで止まって、上になったくちばしで語り出しました。
「会える人は会える。会えない人は会えない。会えない人は、会わない方が吉」
ともかく、駒子はいない。このまま、水晶に囲まれた森にいても仕方がない。合わせる顔もないけれど、仙台の屋敷に戻ろうかと、汽車の時間を聞いてみました。
「次の汽車…… 山形ケンタウロス駅」
梟は、忘れたのでしょうか。くるくると勢いよく首が回り出し、梟の口ばしから、カニさんの泡が溢れました。
「大変だー。梟さんが大変だー」
奥からモモンガや、リスが飛び出すと、二人で梟の頭を押さえます。そして、モモンガが小さなほっぺを膨らませて言いました。
「星がみっつ降ったら、汽車が来るよ!」
―― 星がみっつって…… 。
そして、やっとの思いで梟の頭を止めた二匹は、声を揃えて言いました。
「ハラが減っても料理屋行くな! ハラが減っても料理行くな!」
料理屋って、何の意味があるのだろう? 途方に暮れて、窓から外を眺めると、きれいな幻燈会の灯りがたくさんの水晶を通り抜け、辺りの森一面が紫色と電球の橙色に輝いていました。
それは、サファイヤやトパーズの森でした.
◆SN氏の節◆
いつの間にやら、細君が替わったかと思えば、旦那も姿を消したらしい。風来坊で自由闊達の看板を背負った吾が輩なのだが、どうにも面倒な屋敷に転がり込んだものだ。
旦那は、それなりに良くしてくれた。来る日も来る日も、何とかのひとつ覚えで、魚を炙り、鼻先にぶら下げてくれたものだ。そう考えれば、それなりに待遇は良い方だったのかも知れない。新しい細君は、前妻の時分から居ついている、吾が輩の事を気に入らないらしい。
あの、旦那が消えた朝。仕方がないものだから 細君に食事を催促した時のあの顔。吾が輩のどこが悪いと云うのだ。前妻がいようが、亭主が逃げようが、こっちには関係の無い事である。
旦那につけば角が立つ。爪を出しては窮屈だ。媚びを売っては流される。兎角、猫稼業は難しいのである。
ひとり暮らしが堪えると、毛嫌いしていた吾が輩でも慰めになるのだろう。女学生が初めて与えられた同胞を終日手放さぬ様に、奥方はいつも身近に置きたがった。あまりにも、それがしつこいものだから、時折「ミャー!」と抗うのだが、一向に変わらない。
魚も与えてくれる様になった。旦那の様に、七輪で炙った魚をつまみ、目の前でゆらゆらと揺らす。吾が輩が目で追うのを楽しんでいるのだろう。まあ、いいだろう。こっちは魚を食えればそれでいいのだ。
今日は、朝から奥方の様子が変だ。落ち着きなく、縁側に出ては空を眺めたりしている。腰を下ろしたかと思えば立ち上がり、押し入れから何やら袋を出した。吾が輩がその袋に飛び込むと、凄い剣幕で叱ったりする。ともあれ、触らぬ神に祟りなしだ。こっちは、夕餉の魚があればそれで良い。
突然、奥方は立ち上がり、着物の上からショールを羽織ると、大きな袋を手にとった。そして、慌ただしく玄関に向かうと草履に足を入れた。
―― 出て行くのか?
ついに、奥方も出て行くのだろう。吾が輩は、この屋敷に主となるのか…… 。
奥方は、玄関先の、日の当たる場所に出ると、肩越しにこちらを向いた。
「山形に行って来るわ!」
奥方は、確かにそう言った。そして、微かに口が動いた。それは明らかに戸惑いの動きだった。しかし、その口が言葉を語る事はない。奥方は、そのまま小走りで駆けだした。
ここに来て、この期に及んで今更気が付いた。吾が輩に、名前はまだなかったのである。