名作の書き出しは必ず名文
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波紋
投稿時刻 : 2017.08.03 03:22 最終更新 : 2017.08.12 00:35
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- 2017/08/12 00:35:52
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波紋
白取よしひと


えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。待ち受ける現実を、受け止める器量などないのだけれど、生涯自分を苦しめ、悔恨の痛みを伴うあの情景に身を投じたのだ。

 夏の北海道。長万部を経て噴火湾沿いを走る。日差しに煌めく海が美しく寄せる浜風が爽快だ。ロードサイドに砂浜が長くのびる。釣り人が沢山の投げ竿を連ねて立てていた。
  愛車はランドナーと呼ばれる自転車で、ハンドル部分とフロントタイヤ脇に付けられた大きなバクには、たぷりとキンプ用具が詰めてある。昨晩は長万部のバスターミナルに野宿した。今日は登別まで走る予定だ。距離はあるけど、山間部ではないので走り切れるだろう。
 函館を下へおいた渡島半島は、噴火湾に大きく抉られている。僕は海岸線に沿て円を描き走た。登別は室蘭を通り越した先にある。
 途中、休憩を入れ過ぎたのか、登別温泉の麓に辿り着いた頃、陽は大きく傾いていた。
 登別温泉は山中にある。硫黄や蒸気を吹き出す地獄谷が有名で、ヒグマを集めたクマ牧場もあり、道南の観光拠点だ。
 ハンドルを引き寄せ、ワインデングの坂道を登た。呼吸を整え、20段変速をローに落としてゆくりと走る。もし、ジギングしている人がいたのなら楽々と越されていただろう。それだけ、ゆくりゆくりとペダルをこいだ。
 温泉街の灯りが見えた時、全身汗だくになていた。路肩に自転車を止めてユースの位置を確認した。
―― 風呂に入れる!
 それだけを楽しみに、ペダルをこぎだした。

 ユースはセルフサービスだ。食後の食器は自分で洗う。細長いステンレスのシンクを備えた洗い場に立つと、隣に女の子がやて来た。他は皆グループで洗ている最中も賑やかだけれど、彼女は静かに洗ている。僕自身、それと同じなわけで、僕らの一角だけが場違いに静かだた。二人は無心に洗ていて、お互いの顔をしかりとは見なかた。
『こんばんは』
『お疲れ様です』
 この程度の言葉しか交わさなかたと思う。
 ひと風呂浴びて、回していたランドリーに戻ると、乾燥機は未だ虚ろに回ていた。ぐるぐる回るそれを眺めていると、女の子がひとり入て来た。
「こんばんは」
 その声は、洗い場で一緒になた人だと思た。彼女の衣類も未だ乾いていない様だ。彼女は、少しためらいがちに僕の隣へ座た。
 二人きりの沈黙。乾燥機の音がその沈黙を埋めた。僕らは回転する衣類を見上げていた。
「あの…… ひとりで来てるんですか?」
 声を掛けてきたのは彼女だ。
「はい。そちらも?」
 彼女は頷いた。
「どこから来てるの?」
「わたしは、函館から」
「僕は、青森から。自転車で来たんだ」
  自転車と聞いて彼女は驚いた。そして、更に彼女を驚かせたのは、僕が高校生な事だ。
「高三て信じられない! 社会人だと思てた」
  日焼けした上に、無精ひげを生やしていたから年上に見えたらしい。
「えと。じ…… そちらは?」
「あ…… 遙て名前です。私は短大の一年よ」
「僕は、浩二です」自己紹介をしてその後、話は盛り上がた。
  プスン! と、間の抜けた音を立て、ランドリーが止また。タイムリミトのあるコミニケーンは、いよいよ終幕だ。旅の出会い。それは、在り来たりな会話で終わるはずだた。だけれど、それは彼女の一言で変わた。
「明日。一緒にまわりませんか?」
「え! 僕とですか?」
 明日、予定では札幌へ向けて走る予定だ。札幌へは、かなりの距離だけど平野なのでスピードを出せると計算していた。女の子と散歩でもしていたら、厳しくなるかも知れない。だけど僕は了承した。シトカトで小柄な遙さんは、僕のタイプそのままだたからだ。
  約束の時間。再会した遙さんは、デニムにスニーカー、そしてTシツのラフな格好だた。けれど、メイクした彼女は昨晩にも増してきれいだ。彼女は、前日に地獄谷を見終えていた。どうしようかと、観光マプを覗き込む。
「それじ、クマ牧場にでも行く?」
「そうね…… 私は、湖が見たいな」
 地図に載ているクタラ湖は、透明度日本一と書かれていた。地図の縮尺からすると、儚く小さな湖だ。
 坂道を進むと、間もなく舗装路は途絶えて砂利道になた。蛇行の連続で、どれだけ進んでいるのか実感が湧かない。
「暑くなてきたね」
 頷いた遙さんは、ミニタオルで汗を拭いた。時折、ガラガラと音をたてて車が通り過ぎる。ドライバーは皆涼しい顔でこちらを眺めた。暑い中、山奥の砂利道を歩いているんだ。当然、好奇の目で見るだろう。
 峠だろうか。高みにでると木々の切れ間から湖が見えた。見下ろしたその湖は、深い森に囲まれて、濃く蒼く沈んでいる。
「わー! きれい!」
 遙さんが嬌声をあげた。はしぐ笑顔は子供みたいだ。
 そこからは、一転下り坂だた。どうにか、湖畔に着いたものの一時間以上歩いていた事になる。

 訪れる人が少ないのか湖畔は無人だ。桟橋にボートが何艘かつながれて、寂しく揺れている。
 「ボートに乗てみようか? 漕ぐのは上手じないけど」
 遙さんは頷いてくれた。
 店の主人が押し出したボートは、ゆくりと湖面に滑り出した。彼女は片手を水面に浸し、水を切るのを楽しんでいる。
「凄い見て! 底まで見える!」
 オールを止めてのぞき込んだ。湖底の砂粒が見えるほど透き通ている。
「悲しいわね。この湖……
「悲しい?」

 湖面が走た。そんな風に見えた。
 湖面に映る雲が駆け足で走ている。僕は空を見上げた。
 空は速い風が吹いているのだろう。
 遙さんに目を戻すと、微かな風に髪が揺れていた。きれいだと思た。

「もう少し、早く漕いでみようか?」
「このままでいいよ」
 殆どボートを漕いだ経験はなかたけれど、調子に乗てオールに力を込めた。
「冷たい!」
 不器用に返したオールは水飛沫をあげた。
「あ! ごめん!」
 水飛沫は止まらない。
「もう! 冷たいからやめて!」
 僕らは笑た。素直にゆくりとボートを進め桟橋へと戻た。北海道の森の中、夏の日差しに煌めく水飛沫と、どこまでも透明な湖は一生の想い出になた。

 戻り道は流石に疲れた。彼女は暑さでへたり、途中何度かおんぶをした。少しずつ、登別に近づく事は、別れが迫ている事を意味する。そんな寂しさを、遙さんも感じていてくれるのだろうかと彼女を背に乗せて思た。
 遙さんは、登別駅から電車で函館に戻るそうだ。
「写真送るね」
 彼女は、首に掛けたコンパクトカメラを両手で持て見せた。
「ありがとう。僕が撮たのも送るよ」
 僕らは住所を交換し合た。
 
 北海道から帰宅すると、遙さんからの手紙が届いていた。
 ユースの前で、ピースサインをする僕。
 湖へ向かう道で、へとへと顔の遙さん。
 湖畔のテラスでストローを口にして、ふざける僕。
 ボートで寄り添たツート。
 そのツートを選んで、机の本立ての前に立て掛けた。
 僕が撮影した写真を添えて、お礼の手紙を返した。そんな感じで、ぼくらは何度か文通を交わした。
 
 翌年、父の転勤で青森の社宅から盛岡へと引越した。それと同時期に、僕は進学先の東京で独り暮らしを始めた。荷ほどきしたダンボールには、遙さんからの手紙はない。盛岡行きの箱に入れてしまたのだろうか。送り先が分からなくなり、僕らの文通は途絶えてしまた。
 上京の際、携帯電話を持たされた。もしあの時、携帯を持ていたら連絡を取れたかも知れない。

 東京は刺激的だ。大学は楽しいし友達も出来た。高校と比べると、バイトで忙しい日もあるが、自由に使える時間が大幅に増えた。
 そんな事もあり、インタートで、小説投稿サイトがあるのを知て執筆を始めた。サイトには、読み切れないほどの作品が溢れている。実際、どの作者の名前も知らないから、適当にタイトルや見出しでつまみ読みをしてみる。すると、気になる見出しが目に入た。

『どこまでも透明な水の上、大切な人を見つけた』

 それは、旅先で知り合た二人が、ひんな事から一緒に湖を目指して歩き始める物語だ。動悸が激しくなり、先を探る様に読み進める。湖へ至る山道は蛇行を繰り返す急な坂道で、湖を見降ろせる高台に出ると、その小さな湖は青く沈んでいた。
 二人は湖に辿り着くと、ボートで遊ぶ。湖水はどこまでも透明で、湖底の砂までしかりと見えた。彼がボートを漕ぐと、その水飛沫が跳ねて…… 
―― おい! ちと待てくれよ。これ……
 遙が小説を書いているなんて聞いた事がない。だけれど、こんな偶然なんてあるだろうか。北海道や登別。そしてクタラ湖の名称は書かれてはいない。
 物語は進んだ。帰郷した二人は文通を始めた。だけれど、ある日を境に彼との連絡は途絶えてしまた。あれは、ひと夏の残酷な幻だたのかとヒロインは嘆く。
 これは、僕が抱いている感情と同じだ。サイトには、作品の感想を書き込む機能がある。淡い期待を込めてコメントを入力する事にした。

『もしかして、北海道のクタラ湖ではないですか? もしそうなら、僕もそこへ行た事があります』

 パソコンを落とすまで、返信はなかた。そして、翌日も来ない。もともと、メセージに返信の義務はないのだ。
 その明くる日。パソコンを起動すると、メセージ有りのアラートが付いていた。

『そうです。偶然ですね。北海道のクタラ湖が舞台でした』

 メセージは、それだけだた。ペンネームは、YUKI。遙とは全く違う。だけれど、函館の人だから雪を文字ても不思議はない。しつこいと思われるかも知れないけど、もう一度メセージを入力した。

『物語に登場する彼は、自転車に乗て旅行をしていませんでしたか?』

 すると、返信は翌日すぐに掲載されていた。それは、一般公開の感想欄ではなく、ダイレクトメセージで送られていた。

『あなたは、だれ?』

 僕も、ダイレクトで返す。

『僕は浩二です。遙さんですか?』

 反応は直ぐにあた。その人はパソコンの前にいるのだ。
『浩二君! 青森の浩二君?』
『よかた。遙さん。連絡が取れて!』
『お手紙を書いたけれど、戻てきてしまて』
『ごめん。僕は今、東京にいるんだ』
『私も東京にいるのよ!』

 遙さんも携帯を持ていた。僕らは、携帯に切り替えて会話をした。遙さんが通ていた短大は、都内に提携校があて四年制に編入できるのだそうだ。そして、この春から上京したらしい。
「遙さんて、小説書いてたんだ」
「ううん。今までは日記程度だたの。こちへ来て、文芸サークルに入たから、書いてみようかなて」
 僕らは、会う約束をして電話を切た。こんな事が起きるなんて信じられなかた。僕は嬉しさと興奮の中、遙さんの面影を思い浮かべた。

 それから頻繁に、遙さんと会うようになた。二人とも東京は初めてだたから、行く先々冒険みたいだ。それは実際、事実上のデートなのかも知れない。
「こんど文芸サークルの集まりがあるんだけど、浩二も来てみない?」
「サークルか…… うん。いいよ」
 活動に興味があたし、遙の話によく出てくるチコさんにも会てみたいと思た。

 参加したのは、サークルの飲み会だ。居酒屋に集またのは8人だ。
「チコさんよ」
 紹介されたのは、スキニーで長身な女性だ。丸くて細いメタルフレームのメガネが知性的だ。その呼び名から、勝手に小柄で童顔の女の子をイメージしていたが、遙の一歳上、つまり僕より二歳年上になる。
「彼が浩二さん」
「有名人登場ね! 湖畔の彼氏さん」
 チコは、鈴の様に軽やかに笑た。サークルの中で噂になているのかと思うと、僕は顔が熱くなた。続けて紹介されたのは、陽に焼けた長身の男だた。垢抜けたスポーツマンで都会的だ。田舎から上京した僕は、少し気後れした。
「サークルの部長にして、随一の書き手の牧田さん」
「おいおい。ハードルあげるなよ!」
「北見浩二です」
  よう! と、笑て見せたが、どこかぞんざいにスルーされた感じがした。
 サークルは主に、個人活動が主体になていて、各自の成果を報告し合う様な事をしているらしい。部長の牧田は、出版社主催のコンテストに入賞した事もあるそうだ。
 僕の隣に遙。そして遙の横に牧田が座ている。会話がサークルの話になると、どうしても部外者の自分は大人しくなたけれど、チコさんは気を使て話題を振てくれた。その話題は、遙が書いた湖畔の短編に関わるものが殆どだ。それに話が及ぶと、牧田は不機嫌に押し黙た。
 
「お好み焼きパーをするの。浩二君も来る?」
 遙は探る様な声音だ。
「どこでやるの?」
「牧田先輩の家」
 居酒屋で会た牧田の顔が過ぎた。 
「どうしたの? 気が進まない?」
「どうしようかな……
「浩二が行かないなら、私も行かないよ」
「そんな…… 分かた。行くよ」
 パーは、チコさんも含めて4人でやるらしい。チコさんが来てくれるのは救いだ。

 当日。スマホのマプを頼りにしたので少し遅刻してしまた。牧田のアパートを漸く見つけて、部屋を見上げた。確か2階の一番隅のはずだ。
―― チコさんの車がない。
 彼女は、実家通学だから、ピンクの軽に乗ている。まだ来ていないのだろうかと思いながら外階段を上がた。カンカンと靴が金属音をたてる。
 ドアに近づくと、中から泣き声が漏れていた。苦しそうなくぐもた声だ。血の気が引けるのが分かた。頭の中が空ぽになりつつある。
 痺れる手をドアノブにのせた。
 

 男が下半身を剥き出しにうつ伏せになていた。その尻の両脇には白い足が揺れている。泣き声は遙の声だた。
「なにやてんだよ!」
 男の両肩を掴み引き剥がした。遙は顔面を血で濡らしている。目は大きく見開き僕を見た。その驚きと絶望の表情は、僕の理性を崩壊させた。
「この野郎!」
 無防備に後ろへ倒された牧田は、倒れた拍子に頭を打てうな垂れていた。その唇は引き裂かれている。遙が噛みちぎたんだ。
 蹴りに蹴た。ガタイは奴の方がでかいが反撃して来ない。
「やめて……
 背後から掠れた声が聞こえた。
「お願いだから二人とも出て行て」
 無理もない。誰とも顔を合わせたくないんだ。
 牧野を外へ引き擦りだして、アパートの駐車場の隅へ放り出した。為されるがままアスフルトに尻をつき、項垂れている。
「どうして……
 怒りで、漏れる激情は言葉にならない。
「すまん。申し訳ない」
 牧野は掠れた声を漏らした。
「謝て済むか! 遙さんは……
 彼女の傷ついた気持ちを思うと、張り詰めていたものが萎えてきた。
「好きだたんだ。初めて会た日から…… そこへお前が現れた。分かていたよ。遙さんはお前の事が好きだて。だけど」
 牧野は肩を震わせ嗚咽した。その姿は、ちぽけに見えた。
「魔が差したんだ。今だたら、間に合うかも知れないて」
 好きになる気持ちは、自分が一番よく分かている。だけれど、強姦なんて言い訳ができるもんじない。
「もう遙さんの前に現れるな。約束しろよ!」
 牧野は頷いた。遙の事が心配で階段を再び駆け上がる。そして、部屋に戻ると遙の姿は既になかた。携帯の電源も入ていない。
 
 遙に連絡が取れず、アパートも留守になていた。協力者が欲しくてチコさんに相談をした。電話で子細を聞いた彼女は暫く言葉を返さなかた。・
「そんな…… 牧野さんが。遙ち……
 電話の向こうでチコさんは泣いていた。
「ごめんなさい。私、急用ができちて 行けなかたから」
 僕は努めて冷静に状況を説明した。
「遙ちん。もしかして函館に戻たんじないかしら」
 確かに、あの時間だたら最終の新幹線には乗れたかも知れない。
「一刻を争うけれど、デリケートな問題だわ。明日、連絡をして無事が確認できなかたら、警察に通報しまし
「でも、函館の実家は?」
「ちと待てね」
 何か控えがあるのだろうか。暫くすると、春に親戚からもらた果物を函館に送た時の送り状が見つかたと話してくれた。チコさんは、いつも冷静だ。走り回り動転していた自分が情けない。
「浩二君。電話はわたしがしてみるね。あなただと出ないかも知れないから」
「チコさん。僕は何も彼女の力になれないかも知れない」
「何を情けない声出してるのよ。最後の最後、遙ちんを助けられるのは君だけなんだからね!」
 電話を切ると、チコさんに向けて頭を下げた。それと、同時にチコは背中を壁に預け嗚咽していた。漏らした名前が牧野だたのは、本人だけの秘め事だ。

 遙かは実家に戻ていた。函館までは、東北新幹線一本で行ける。東京駅発ハヤテに飛び乗た。
 陽が落ちる前に函館駅に着いた。駅から出ると、冷やかな風が体をすり抜ける。
―― ここに遙がいるんだ。
 教えてもらた住所は函館駅に近い。観光客で賑わう朝市食堂を通り越し、繁華街から抜けた。道筋は次第に一般住宅が多くなてくる。そして、マプが指し示した場所は、小さな美容室だた。
 カウベルが鳴り、客の対応をしていた美容師の女性がこちらに気付いた。
「あの……
「はい。いらいませ!」
「あの。こちらは相沢遙さんのお宅でしうか?」
「はい。そうでございますが……
「北見浩二と申します。遙さんの事が心配で東京から来たのですが」
「北見さんて文通の方ね! マキちんお客様お願い!」
 応対してくれたのは遙のお母さんだた。僕らは店の外に出た。
「あの子。いきなり帰て来て、部屋から出て来ないの。あちで何かあたの?」
「いえ 学校の事で悩んでましたから。会わせて頂けますか?」
「こちからお願いしたいくらいよ。こんな事…… 今までなかたから」

 遙の部屋は2階だた。心配そうに階下から見上げるお母さんは、気を利かせて店に戻ていた。
「遙さん。浩二です。聞こえてる? 話がしたいんだ」
 中からは全く反応がない。
「君に会いに来たんだ。ここを開けてよ」
「帰て! もう、私を忘れて!」
 痛々しく掠れた声だ。
「ゆくりと話そう」
「嫌なの。あなたの顔も見たくない! もう忘れてよ」
 中から嗚咽が漏れて来た。
「忘れろて、忘れられる訳がないじないか。会えなくなて、奇跡的に再会して、そんな遙を忘れられる訳がないじないか」
「私はもう、浩二君が知てる遙じないの」
「遙だよ。連絡が取れなくて寂しくなた遙だよ。一緒に東京探検した遙だよ。そして、これからもず……
 僕は涙が溢れてきた。遙からの返事はない。何を言ても、どれだけ訴えても遙は答えてくれなかた。自分の無力さを感じた。
「そんなに会いたくないなら帰るよ。僕が何を言ても、遙を苦しめるだけなら二度と姿を現さない。ごめん。君を守れなかた」
 背を向けると、ドアノブの音がした。振り返ると、泣き腫らした顔の遙が立ていた。
「見たくないわけないじん。会いたくないわけないじん」
 号泣した遙を僕は抱きしめた。奴によて遙は深く傷付いたけれど、それを一緒に乗り越えたいと思た。
「湖に行こう」
「え?」
「僕たちが初めて会たあの場所に行こう」
  俯いた遙の髪を撫で肩に引き寄せた。彼女は「うん」と、言てくれた。

 あの日と違い、風が出ていた。ざわざわと森の木が騒いでいる。樹間を抜けた風は、湖面に微かな波紋をつくた。清く澄んだ水は湖底を覗かせてくれるけれど、繰り返す波紋がその邪魔をした。遙の横顔もゆくりと揺れた。
 風で剥がれた落ち葉が、 笹舟の様にボートの脇を流れていた。
「遙…… 今まで言えなかた事があるんだ」
 湖面を眺めていた白い顔がこちらを向いた。
「初めてここで会た時から、僕は遙を好きになた。それは今でも変わらない。 と、こんな風に一緒のボートに乗ていたい」
「私も…… ずと好きだたのよ」

 あれから十年が過ぎた。僕はつまらないサラリーマンになた。その、つまらない男の嫁さんは遙だ。二人の家族も増えた。僕たちは波紋を乗り越え、平凡な家庭を築いて幸せになた。
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