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名作の書き出しは必ず名文
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無言
(
小伏史央
)
投稿時刻 : 2017.08.19 14:34
字数 : 5000
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感 想
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無言
小伏史央
(2)こころ/
夏目漱石
私はその人を常に先生と呼んでいた。それが唯一の教義だ
っ
た。
以前暮らしていた宗教では祈ることが教義だ
っ
た。四六時中私は祈り続けていた。祈り続けると私は私ではなくなる。他者が私と成り代わり罪を引き受けてくれる。そのために私は口が暇である限りぶつぶつと信仰心を養生させていた。先生と出会
っ
たのは私が鶴豆百貨店で祈
っ
ているときだ
っ
た。もうすぐ九月だ
っ
た。
先生は婦人服コー
ナー
で落ち着きなく辺りを見渡していた。しかし婦人服には微塵も関心を寄せていない様子だ
っ
た。まるで袋小路に迷い込んだ鼠のように見えた。あるいは道に迷
っ
た仔猫かもしれない。私はその人に販売員より先に近づいた。
「お困りですか」
祈りを中断しても良いのは食事と睡眠。そして会話だ
っ
た。教義の中で許されていることなら迷いなく行動を起こすことができた。先生は私を見た。その瞳は憐憫だ
っ
た。牙を抜かれた獅子のようなその顔は今にも泣き出しそうだ
っ
た。
「許してください」
先生は唇を震わせた。そのまま会話が途切れてしま
っ
たので私はやむなく祈り始めた。この人は何を許してもらいたいのか。何か悪事を働いたのか。それとも宗教家なのか。祈りながらも考える。祈りながら考えるとその疑問はそのまま他者のものにな
っ
てしまい定着しなか
っ
た。先生は身を縮こまらせていた。会話が途切れてもその場を離れるつもりはないようだ
っ
た。私は再び祈りを止めた。
「何か悪いことをしたのですか?」
「これからです」
「ならばまだ謝る必要はないでし
ょ
う」
「順番はあまり関係ないと思います」
「確かにそうかもしれません」
常に祈り続けているため活舌には自信があ
っ
た。我ながら流暢な会話だ
っ
た。しかし肝心なことは何ひとつ聞けていなか
っ
た。これからこの人はどんな悪行に走るつもりなのだろう。質問すれば答えてくれそうだが聞くのは憚られた。もし共犯にな
っ
てしま
っ
たら祈る量もそれだけ増えてしまうからだ。先生はひとつ大きく息を吐いた。それから私の傍を離れて隅の試着室のあるところへ向か
っ
てい
っ
た。私も少し距離を保つようにしてその背中に同行した。
試着室の前には中学生と思わしき学生服の子たちがたむろしていた。私は自分の祈る声が彼らに聞こえないくらいの位置で立ち止ま
っ
た。婦人服の陰から彼らと先生の様子を窺う。彼らは私が覗いていることに気付くかもしれない。気付かないかもしれない。天秤にかけられた私は祈り続けた。
先生が彼らに向か
っ
て何かを呟いている。ここからでは聞き取れなか
っ
た。少年少女はそれを聞いて蛙の合唱のような笑い声をあげた。そのうちのひとりが翅虫でもあしらうかのように手を振
っ
た。彼らは先生に対して偉そうだ
っ
た。その動作は先生との会話を終了させたらしい。先生はくるりと振り返りこちらに戻
っ
てきた。そのあいだ先生が顔を上げることはなか
っ
た。目が合うことはなか
っ
た。
「あなたのおかげで助かりました」
私の傍に着くなり先生は言
っ
た。祈りの時間を侵害しているという事実には気付いていないようだ
っ
た。しかし会話のために祈りを中断することは悪いことではないのだ。私はすぐに返答した。
「それは良か
っ
たですね」
どんな悪事に及ぶつもりだ
っ
たのか。私がどのように関わ
っ
て悪事を免れたのか。聞く必要はなか
っ
た。鶴豆百貨店は一階に喫茶店を有していた。先生は悪事から解放されるとともに婦人服コー
ナー
からも解放されたが
っ
ているように見えた。祈りながら先生を一階へといざなう。先生は団栗を掘り起こした栗鼠にな
っ
た。
百貨店に内蔵されているわりにはその喫茶店は個人経営の空気を醸している。カウンター
で頬杖をつく店員のおじさんや家庭用然としたテレビがそのような雰囲気を作り出しているのかもしれない。私はアイスクリー
ムの載
っ
たメロンソー
ダを注文した。先生はホ
ッ
トコー
ヒー
を注文した。先生は喫茶店の扉をくぐるときこそ兎のようにぶるぶるしていたがコー
ヒー
を待
っ
ている内にここの雰囲気に馴染んだようだ。お冷からレモンの匂いがすることに好意的な感想を述べていた。私は先生の意見を尊重し私見を挟むことはしなか
っ
た。そのあいだ私は祈
っ
ていた。先生は決して多弁ではなく会話は途切れがちになるからだ
っ
た。祈れば祈るほど私は他者と成り代わる。しかしそれは私と他者とを交代しているだけであ
っ
て私に変化があるわけではなか
っ
た。その気楽さがこのメロンソー
ダのように甘
っ
たるくて好きなのだ。ストロー
でアイスクリー
ムを突
っ
つくと緑色の海が白く歪んだ。先生は優美にコー
ヒー
を啜
っ
ていた。頬杖のおじさんがテレビのボリ
ュ
ー
ムを上げた。二〇二六年冬季オリンピ
ッ
クの開催地が決定されたという報道だ
っ
た。その結果に私は胸をなでおろした。先生はコ
ッ
プの縁から口を離した。
「残念でしたね」
先生の言葉に私はふふと笑
っ
た。笑いは会話に含まれるだろうか。曖昧だ
っ
たためストロー
をくわえ込んだ。冷たい微炭酸が鼻腔をくすぐ
っ
た。
「あなたは不思議な人ですね」
と先生が続けた。その言葉の意味はよく判らなか
っ
た。私にと
っ
ては先生のほうがよ
っ
ぽど不思議だ
っ
た。疑問が先生にも伝わ
っ
たのだろう。先生はさらに私の祈りを削
っ
ていく。それは直截的な話法だ
っ
た。
「ず
っ
と喋
っ
ていて疲れないんですか?」
「もうす
っ
かり鍛えられました」
「どうしていつも喋
っ
ているのですか?」
「これは祈りです」
「祈り?」
その説明をすることについては気乗りがしなか
っ
た。しかし好奇心旺盛な仔犬はそれを許さなか
っ
た。教義について話すことにした。人に信仰を語るのは気が引けた。宗教が良いものだとしてもその信者や教会が良いものだとは限らないからだ。先生は私の説明を聞いているあいだコー
ヒー
に口をつけなか
っ
た。それなのに先生の唇は瑞々しく映
っ
た。
「不思議なことではないのです。ただの祈りです」
説明の最後にそう付け加えた。それは心ばかりの反論だ
っ
た。しかし先生は梟のように首を傾げた。
「でもみんな不思議が
っ
ています」
「祈る人は珍しくなりましたから」
「祈るのが好きなのですか」
「いいえ。祈るだけでいいという気楽さが好きなのです」
「だ
っ
たらも
っ
と楽なものがあればそちらに移るのですか」
その質問には言葉を詰まらせた。会話を中断したのなら祈りを再開しなければならないが私は口を動かせなか
っ
た。次に口を動かすのは先生の質問に答えるときだろうという観念が強制力を持
っ
ていた。私は私だ
っ
た。
「もし移ることができるなら」
答えないのを見て先生が続けた。空にな
っ
たカ
ッ
プを持ち上げながら。それを再び下ろして先生は言
っ
た。
「うちに入りませんか」
緑の海は干上が
っ
ていた。氷がからんと音を立てた。ストロー
が行き場を失いコ
ッ
プの縁を転が
っ
ていた。私はその一連を見ていた。見ているのは私だ
っ
た。先生の話に嫌悪感は含まれていなか
っ
た。
「どんなところですか」
「名前はまだありません。信者もまだひとりもいません。ひとりいれば充分だと思
っ
ています」
「それは。それは素敵ですね」
「教義はあなたが決めてください。祈りよりも楽なものを」
「では私はこれから教祖を『先生』と呼ぶことにします」
「先生ですか。皮肉ですね」
私は満足だ
っ
た。入信した。新しい宗教に教会はなか
っ
た。私以外の信者もいなか
っ
た。神もいなか
っ
た。喫茶店内にはニ
ュ
ー
スキ
ャ
スター
の音声が氷のように漂
っ
ていた。初めて無言にな
っ
た私のもとへおじさんが飴を差し出してくれた。ふたりへのサー
ビスだという。その飴は流氷の形だ
っ
た。
それから、
それからの私はその人を常に先生と呼んでいた。それが唯一の教義だ
っ
た。
数日経
っ
てから先生とは以前から顔を合わせていたことに気付いた。会話相手として認識したのは鶴豆百貨店の婦人服コー
ナー
が最初だ
っ
たがそれ以前から頻繁にすれ違
っ
ていたのだ。先生と私は同じ壁の中にいた。そうと気付くと個人的な都合で先生を喫茶店に連れて行くのは憚られた。立場とは宗教のようなものだ
っ
た。それでも私に課せられた教義はただひとつでありたか
っ
た。私は先生と顔を合わせるたびに心の中で先生と呼び続けた。硝子細工の店が並んでいた。今日最後の仕事は下見だ
っ
た。そこでまた偶然先生に会
っ
た。改宗してからち
ょ
うど二週間が経
っ
ていた。
先生はまだ白い服を着ていた。今年はそんな人が多い印象だ
っ
た。先生は昆布屋の看板に見入
っ
ていた。私は先生に声をかけた。先生は驚いていた。私は仕事で来たのだと言
っ
た。先生は納得した様子だ
っ
た。それにしては先生がその格好でここまで来ていたことは不思議だ
っ
た。しかしそれを聞くのは仕事ではない。
「先生」
と私は文脈も作らずに呼びかけた。信仰心の顕れだ
っ