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穢れなき喪失
(
伊守 梟(冬雨)
)
投稿時刻 : 2017.08.20 17:08
字数 : 7063
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感 想
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穢れなき喪失
伊守 梟(冬雨)
(1)檸檬
/
梶井基次郎
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。それは私を喰らい尽くし、私を失わせる予感だ
っ
た。緩やかな坂道を上りながら、私は鮮やかな緑に変わ
っ
た桜並木のもとで大きく息を吸い込んだ。
空はどこまでも青く、風は呆れるほど暑か
っ
た。私はま
っ
すぐ前を見て通りを歩いた。対面通行のどこにでもある道路だ。両側に桜の木が植えられていて、春のまつりにはこの退屈な道の歩道におよそ二キロメー
トルにわた
っ
て露店が並ぶ。桜まつりというどこにでもあるようなベタな名前のイベントだけれど、開催される二日間で毎年のべ数十万人がここを訪れる。
幼いころよく目にした旧式の白いセダンがスピー
ドを上げて私の横を通り過ぎていく。
この通りを歩くのは久しぶりだ
っ
た。私がこの街を出たのが三年前で、それ以来になる。よく見るとあたりの景色は私が知
っ
ているものと比べて少し変化していた。
いくつかの時代を生き抜き、今にも崩れ落ちそうだ
っ
た空き家は取り壊され、まわりの空き地とともにマンシ
ョ
ンの一部にな
っ
ていた。一度だけ連れて行
っ
てもら
っ
たことがある寿司屋はそのままの外観で宅配ピザ店になり、駐車場だ
っ
た場所に五、六台の配達用バイクが停ま
っ
ていた。た
っ
た三年のうちになぜそうなるのか想像すらつかなか
っ
たけれど、立ち並ぶ団地の壁がどれもひどく黒ずんでいて、カー
テンがかか
っ
ている部屋の窓を探すほうが大変なくらいだ
っ
た。こんな状態では、もし月のない夜に複雑な団地内の道で迷
っ
た幽霊が出口を尋ねにふら
っ
と顔を出したとしてもち
っ
ともおかしくない、と私は思
っ
た。
とはいえ今もここは実際的な意味で人が眠る街だ
っ
た。住宅、マンシ
ョ
ン、団地。駅前の小ぢんまりとしたスー
パー
マー
ケ
ッ
トにチ
ェ
ー
ン展開しているドラ
ッ
グストア。戦後、早い段階で開発が始ま
っ
た典型的なベ
ッ
ドタウンだ。いささか旧時代的ではあるけれど、人が住むために合理化され、効率化されている。
十八歳からの数年、私はこの街であと戻りできないくらいの深い恋に落ちた。
ゆ
っ
くりと三十分ほどかけて私は目的の場所に到着した。用事もなく何年も戻らなか
っ
た街に突然帰るはずがない。
三年という時間だけを考えればそれほど遠い昔ではないのかもしれない。でも、物理的な隔たりはその世界を私の意識の外で記憶というタイムカプセルにおさめて静かに眠らせてしまう。私には、もはやこの街が私を余所者として扱
っ
ているように思えた。それは記憶と現実の狭間にできた一種のノスタルジー
なのだろう。
私はヒビキに呼ばれて再びこの街に足を踏み入れた。この先でヒビキが待
っ
ている。これから私はヒビキに会わなくてはならない。なぜならそれがヒビキの望みだからだ。
この街を離れていた三年間、私は幸せだ
っ
た。良いことも悪いこともあ
っ
たけれど、おおむね順調といえる生活を送
っ
ていた。朝起きてシ
ャ
ワー
を浴び、決ま
っ
た時間に出社しておおよそ決ま
っ
た時間に退社した。たまにお酒を飲み、近くのフ
ィ
ッ
トネスクラブに通い、週末には買い物に出かけることもあ
っ
た。交際には至らなか
っ
たけれど、数人の男の人に告白された。料理の腕が考えていた以上に上達した。
些細なことの積み重ねではあ
っ
たけれど、私は少しずつ自立しようとしていた。ヒビキを置き去りにしてこの街を出たことをひとつのき
っ
かけとして、私は自分の意思で考え、選び、そして決められるようにな
っ
た。
でも、私はヒビキに会わなくてはならない。
なぜなら、私が幸せを感じれば感じるほど、あの不吉な塊が私という存在をより重くおさえつけたからだ。それは人が持つ潜在的な予知能力のひとつなのかもしれない。おそらく啓示とか虫の知らせなどとい
っ
た言葉の前提とな
っ
ている力だ。人はときに無関係な事柄から、現実味を帯びた予兆を取り出すことができる。
「私は幸せだ」
そうは
っ
きり言葉に出してから、私は団地と団地の間にある小さな公園に向か
っ
た。
遊具のわきにあるベンチにヒビキは座
っ
ていた。私はヒビキと目を合わせることなく、その横に座
っ
た。
「久しぶりね」
私が三年前に来たときあ
っ
たイチ
ョ
ウの木は切り倒され、切り株だけにな
っ
ていた。
私はイチ
ョ
ウが好きだ
っ
た。秋の黄色く色づいたイチ
ョ
ウも好きだ
っ
たけれど、なにより夏の濃い緑色の葉をつけたイチ
ョ
ウがも
っ
とも好きだ
っ
た。幾重にも重な
っ
てついた葉から底知れぬ生命力が溢れているように思えて、なんだか見ているだけで勇気をもらえるような気がした。
ヒビキは退屈そうにスニー
カー
で地面に転が
っ
ている小さな石をいじ
っ
ていた。石は地面に浅い傷をつけながら惨めに這いずり回
っ
ていた。
「久しぶり、響子」
「ヒビキ
……
」
ヒビキは静かに微笑んだ。吐く息すら凍らせてしまうような、冷たい笑みだ
っ
た。
*
東雲キリムという男がいた。自動車整備士になるための学校に通
っ
ていて、ずいぶん前に絶版にな
っ
たという時代遅れのスポー
ツカー
に乗
っ
ていた。厳めしい顔をしていたけれど、実際話してみると物腰が柔らかくて、誰に対しても優しか
っ
た。
ただ、女性の立場からみて、彼の素行はあまりいいとはいえなか
っ
た。彼は常に数人の女と交際していたし、ときには深夜の繁華街で知り合
っ
た女と一定以上の関係になることもあ
っ
た。威圧的な態度で自分の意思を通そうとしたこともあ
っ
たし、力に訴えたことも一度や二度ではなか
っ
た。
私はキリムにと
っ
て交際相手でもなければからだだけの女でもなか
っ
た。私はおそらく、特殊な女だ
っ
た。
キリムと恋人のようにデー
トをすることもあ
っ
たけれど、約束をす
っ
ぽかされるなんてし
ょ
っ
ち
ゅ
うだ
っ
たし、そのくせ私が約束の時間に待ち合わせ場所にいなか
っ
たら見るからに不機嫌にな
っ
た。彼の独りよがりな性的欲求を満たすために場所を問わず脱衣するよう命じられ、また、しばしば他の女とはできないような種類のセ
ッ
クスを求められた。それでも、キリムは私を抱きしめてくれた。薄
っ
ぺらい愛の言葉も、波の揺らぎのような包容力もなく、ただ物心のつかぬ子供みたいな純粋さで私を抱きしめてくれた。
私はキリムが好きだ
っ
た。他の誰よりも何よりも好きだ
っ
た。
キリムから愛されるのは常に私だ
っ
た。他に女がいようが、誰とセ
ッ
クスしようが、愛されているのは私だけだ
っ
た。
キリムの冷酷な行為を受け止めるのはヒビキの役目だ
っ
た。ヒビキはとても我慢強く、理性的で、口数が少なく、受動的だ
っ
た。そして、彼女は一度も泣いたことがなか
っ
た。私にはヒビキが必要だ
っ
た。ヒビキは私が受けるはずの苦難をすべて引き受けてくれた。恋人でも友人でもない私には彼に対する発言権なんてなか
っ
たから、もしヒビキがいなければ私はどこかおかしくな
っ
ていたに違いない。
とはいえ、私はヒビキにだけ辛い思いをさせることに一種の罪悪感を感じていた。キリムの愛をすべて享受する自分が卑怯な人間に思えた。ヒビキにもその一部を分け与えるべきだ、とわか
っ
ていた。でも、どんなにそうすべきだと自分に言い聞かせても、結局、私の本質的な心は自分が得た地位を誰かに譲り渡そうとしなか
っ
た。たとえその誰かが私という個体から私自身が産みだした存在であるヒビキであ
っ
ても。
それはまだ肌寒い春の初めの日曜だ
っ
た。並木の桜のつぼみが少し膨らんできたころだ。私はキリムと待ち合わせをしていた。靴を買いにいく予定だ
っ
た。
シ
ャ
ワー
を浴びた私はドライヤー
で髪を乾かしながら、ぼんやりとテレビのニ
ュ
ー
スを見ていた。音はま
っ
たく聞こえてこない。熱風を作るために必要な轟音は私から他のすべての音を奪い去
っ
てしま
っ
ていた。
テロ
ッ
プに「死亡、東雲キリム(二二)」と表示されているのを見て、私は持
っ
ていたドライヤー
を床に落とした。ドライヤー
はギギと耳障りな音をたてたあと、静かにな
っ
た。
ヒビキだ、と私は思
っ
た。根拠はなか
っ
た。それでも、この事件にヒビキが関わ
っ
ている予感がした。人はときに突如として突きつけられた事実から、瞬時に現実味を帯びた予感を取り出すことができる。