魔術師と竜
吹き飛ばされた羊のような雲が一つ、ぽかりと浮かぶ青空だ
った。仰げば、空の真ん中ほど青は深く、端に近づくとそれは薄くなる。空の端は、鋭い峰が連なる山で縁取られていた。山の中腹まで白く、本格的な冬の訪れを告げている。
しかし、山に囲まれたここは、今日はまだそれほど寒くない。夏場は忌々しいほど強い日差しも、今の季節は心地よい暖かさだ。日当たりのいい窓辺でまどろむには絶好の天気だった。
長椅子に横たわり、日向ぼっこを楽しみながら、ヴィーノは本を読んでいた。しかし、ページをめくる手はなかなか動かない。
小難しい魔術書を読んでいても目が滑るばかりだ。ならばいっそ、日向の心地よさに身を任せてまどろむ方がどれほど幸福だろう。瞼をおろせば明るい闇が訪れる。ふっと息を吐けば、それと共に意識を手放せる気がした。
「ヴィーノ! なにのんきに昼寝なんてしてるんだ!」
けたたましい声が、ヴィーノの鼓膜を叩いた。頭の中に直接声を叩き込まれたかのように顔をしかめたヴィーノは、声の主をじろりと睨んだ。
「昼寝くらいさせろよ。俺は昨夜、というかほとんど朝方まで働いてたんだぞ」
「そんなの、『奴ら』は気にしちゃくれないよ。さっさとしないと、今日も徹夜になるよ。いいのかい?」
長椅子の背もたれに降り立ったのは、濃い赤紫色の鱗が美しい、小さな竜だった。つぶらな瞳は更に濃い色で、まるで宝石のようだ。溜め息がこぼれるほど美しい小竜である。黙っていれば。
「懲りない連中だな」
「それだけが『奴ら』の取り柄さ。いいから早くしな。〈天気の魔術師〉の出動が遅いと、村人が不安になる」
小竜が翼をはためかせ、背もたれから離れる。ヴィーノは椅子に立てかけていた杖を掴み、外へ飛び出した。
ヴィーノがいた窓辺からは見えない方角に、灰色の雲が広がっていた。雨雲よりも、どこかまがまがしい雰囲気を放っている。その雲から逃れるように、村人たちがあぜ道を走っているのが見える。
「もうこんなに広がってるのか」
灰色の雲の予想以上の広がり具合に、ヴィーノは瞠目した。頭のそばを飛んでいた小竜が溜め息をつく。
「だから急げと言っただろう」
「山の端に現れた時点で教えろよ」
「寝てたんだ。仕方ない」
小竜は屋根の上で日向ぼっこをするのが好きだ。今日も天気がいいからそこにいたのだろう。ヴィーノが軽く睨むと、小竜は宝石のような目をそらした。人のことは言えないので、それ以上つっこむのはやめて、杖を振り詠唱を始める。
呪文を紡ぎながら、灰色の雲に向かって走り出した。
途中で、ヴィーノと反対方向へ逃げていく村人と何人もすれ違う。すれ違う度、「頼んだぞ」「頑張って、ヴィーノ」と声をかけられた。
詠唱中で言葉は返せない。言葉で返せない分、〈天気の魔術師〉として行動で返す。
「来た!」
小竜が叫ぶ。ヴィーノは灰色の雲の真下にいた。日を遮られたにしても、異様なほど暗かった。
灰色の雲の下は『奴ら』の領域だ。
その雲から、黒い塊がいくつも降ってくる。
「来たよ、ヴィーノ!」
「分かってるよ!」
ほとんどは雨粒ほどの大きさだが、中には人のように大きなものもある。落ちてくる間にぶつかり合って、大きくなる塊もあった。
村を覆う結界。そのための詠唱が終わり、ヴィーノは地面に杖を突き立てる。村の要所に配置した呪石に向かってヴィーノの魔力が駆け抜ける。
黒い塊が灰色の雲から次々と降ってくるが、空の途中で弾けて消える。これで、小物は村に到達しない。
「早くしないから、侵入されたじゃないか」
ぼやく小竜の声を聞き流し、ヴィーノは杖を構えた。
結界で防ぎきれなかった大きな塊が、地面に転がっていた。叩きつけられた大きな袋のように見えるが、もちろんそんなものではない。塊の周辺の地面はどす黒い色に変わり、白い煙を上げて悪臭を放っている。
小竜が、美しい体躯には似合わない厳つい声で鳴いた。竜の吐息は空気を浄化する。ただし、小さな竜の吐息が届く範囲は、たかがしれている。ないよりはましだが。
ヴィーノは塊に杖を向け、新たな詠唱を開始した。
黒い塊がぶるぶると震え始める。はじめは小刻みに、やがて大きく。震えが大きくなるほど、腐った地面が広がっていく。小竜が早くしろとせかすが、詠唱はできる限り省略しない。魔術は、長く唱えるほどに威力が増すのだ。呼吸するのが詠唱しているのと同等である小竜は、なかなかそれを理解してくれない。
塊から、腕のようなものが突き出た。二本、三本と増えていく。足のようなものも生え、頭らしく丸いものも突き出る。これは久しぶりの大物だ。
突き出た手足は、塊と同じ黒い色だった。地面に付けば、やはりそこの土は腐って臭いを放つ。
この辺りは、最近ようやく自分の土地を手に入れた、と喜んでいたモリノスのものだ。彼には両親と、生まれたばかりの赤子を入れて五人の子供がいる。大切な農地が腐ったとなったら一家の存続に関わる。
ヴィーノを捕まえようとしてか、黒い手が伸びてくる。詠唱しながら、ヴィーノは自分に伸ばされる手を避けていく。ヴィーノを捕まえ損なった手は地面をえぐり、えぐられた地面は腐っていく。
「くそっ」
ヴィーノが逃げるだけ、土地が腐る。仕方なしに、詠唱途中で杖を降った。ヴィーノに伸ばされた二本の手が砕け、塵のようにバラバラになる。そこへすかさず小竜が息を吐きかけ、塵を浄化する。
「ヴィーノ、まだだよ!」
「だから、分かってる!」
腕を消されたせいで、塊は痛みに狂ったように暴れ出した。めちゃくちゃに振り回される腕の合間を、小竜は縫うように飛び回る。突き出た頭に近づき、厳つい鳴き声と共に息を吐きかけた。だが、所詮小さな竜の吐息だ。頭は少し形を崩しただけで、塊は暴れ続けた。
ヴィーノはその間も、暴れる腕を避けながら、再び詠唱を始めた。遠くからでも攻撃はできるが、近くにいる方が、距離の分だけ詠唱を短くできる。わずかの差なので、ふつうの魔術師は距離を置く。だが、ヴィーノは至近距離で詠唱するのを選んだ。近い方が、『奴ら』の動きにあわせて臨機応変に詠唱の内容を変えることができるからだ。
黒い塊は暴れるのをやめ、突き出していた手足を引っ込めつつあった。まずい兆候だ。
「ヴィーノ!」
小竜もそれを察知して声を上げる。一度塊に戻り、やり方を変えるのだ。
詠唱の内容を変え、ヴィーノは杖を握り直した。叫ぶように呪文を紡ぎながら、渾身の力で地面を蹴る。小竜が、ヴィーノの襟をくわえて更に上へ引っ張り上げた。
塊の真上に来たところで、小竜が襟を離した。落ちていく間も、ヴィーノは詠唱をやめない。逃げようとする黒い塊の真ん中に、杖を突き立てる。唱え続けるヴィーノを腐臭が襲い、塊と触れたところから痺れるような感覚が広がっていく。
どうせ口は最後の方だ。ヴィーノはなおも詠唱を続けた。塊から再び手が突き出てヴィーノを突き飛ばそうとするが、体を捻って避けられる分は避けた。避けられなかった分はそのままだ。
「ヴィーノ!」
痺れはひどくなり、何も感じなくなる。だが、口が動けばいい。
長かった詠唱が、ようやく終わる。締めくくりの言葉を唱え終わると同時に、塊は一瞬で塵に変わった。砂粒よりも細かい塵にしてやったから、小竜が浄化する必要もない。
「ヴィーノ!」
倒れ込んだヴィーノに、小竜が舞い降りる。どす黒く色が変わった部分を、小竜に何度も舐められた。そのたび、少しずつ痺れが消えていく。全身から痺れがなくなるには、結構な時間がかかってしまった。
「さっきのが、雲の本体だったみたいだな」
灰色の雲は消えてなくなり、暖かな日差しが、地面に転がるヴィーノに降り注いでいた。
「そうみたいだね」
しかし、ヴィーノと小竜を取り巻く空気は腐りきっている。黒い塊が暴れたせいで、周辺の地面は腐りきっていた。
「これを全部浄化するのは骨が折れるな」
「でもそれが、〈天気の魔術師〉の役目だろう」
「おまえがもっと早く教えてくれれば、本体が落ちてくる前にどうにかできたのに」
「ヴィーノは詠唱が長すぎる。もっと短くしな」
「おまえがいるから、長く詠唱できるんだ」
小竜は、ヴィーノの体が腐りかけても、いつでも癒してくれる。だから、彼はぎりぎりまで『奴ら』に近付いて戦えるのだ。
「そんなんじゃ、いつか死ぬよ」
「そうかもな」
呆れた小竜が溜め息をつく。その一息が、かすかに残っていた腐臭を綺麗に消し去った。