あのころ
時計の針を見ていた。教卓の真上にあるそれは、二分とち
ょっと、実際の時間より遅れている。秒針は間断なく進み続ける。五秒、十秒……。そのスピードは、1と2を通り過ぎるときにはもどかしく感じるのに、10と11にたどり着くころには、ある種の切実さを私に感じさせる。あと十秒、あと五秒……。次の一分が始まる。そして、さらに次の一分が終わるころには、私の退屈も終わるだろうか。
歴史の授業は退屈で、でも先生は楽しそうで、もっと喋りたい、もっと喋りたいって、唇がプルプルと震えているのが判る。中国史、好きだって言っていたもんね。けれど、私には一ミリだって判らない。何がそんなに面白いの?
きっと、頭がおかしいんだと思う。大人になると、頭がおかしくなるのだろうか。大人はみんな、頭がおかしい。毎日毎日、いったい何をやっているの。そんなことになんの意味があるの? でもそれを言ったら、私だって、頭がおかしいのかもしれない。だって、意味のない日々を送っているのは同じなんだから。
「まぁ、まだ焦らなくても良いんじゃないかな。でも、いずれ決めなくちゃな。理系か文系か、だけでもさ」
「先生は……」
「ん?」
「先生はどうして、歴史の先生になったんですか」
「どうして……。歴史なんか好きでもさ、なんていうのかな、食べていけないんだよ。それこそ研究者にでもなって、本でも出して、とかなら別だけど」
「だから、高校の先生に?」
「だからってわけじゃないけど、まぁ、でもそうかな。これなら、やっても良いかな、って思った。自分の好きなことでさ、お金を稼げるなら」
「ふーん。なんかでもそれ、諦めっぽくないですか」
「どうかな。望月さんは、何か好きなものとか、ないの? 将来、やりたいこととか」
「わかりません」
「そっか」
「でも、だからって、みんなみたいにとりあえず大学に行くってのも、違う気がして」
「そう」
「でも、大学、行かなきゃダメですよね」
「どうしてそう思う?」
「だってウチの高校、一応進学校じゃないですか」
「そうだね」
チャイムが鳴る。先生は教卓の上の時計を見ながら、アレ? って顔をしている。その時計、二分遅れているんですよ。私は心の中で、そう呟く。私が遅らせたのだ。先生は私の方を向く。でも、目が合うと、すぐ逸らす。私の笑顔の意味が、判っただろうか。退屈な授業が終わったから笑っていたんじゃないよ。あんな風になる先生の顔が見たかったから。おあずけをされた犬みたいで、面白い。だって、あなたの授業は退屈だもん。全部、知っていることばかりだから。全部見てきたことの様に、あなたが話すから。興味がなくたって、聞いているうちに覚えてしまう。
「望月さん……? 望月さん!」
「あっ、先生」
「傘忘れたの?」
「はい」
「でも……、まぁ、とにかく乗りなさい」
「はい……」
「傘がないからって、普通、そのまま歩くかい? こんな土砂降りなのに」
「普通って何ですか?」
「とにかく、家まで送っていくから。どこらへん?」
「美雪町です」
「良かった。市内か」
「でも……」
「なに?」
「家には誰もいません」
「ん? だから?」
「だから、入れません」
「ご両親は仕事に?」
「そうです」
「鍵は? あるでしょう?」
「持たせてくれないんです」
「……じゃあ、いつもどうしてるの?」
「どうもしてません」
同情されているんだと思う。別に嫌でもないし、嬉しくもなかった。ただただ、時計の針が進むのを眺めているように、ずっと、ずっと彼の話を聞いていた。退屈そうな素振りは、見せていたと思う。でも退屈だなんて、そんなことは言わなかった。彼は彼で、歴史の話くらいしか、饒舌に語れるものを持っていなかった。それだけのことなのだ。
授業中に、プルプルと震える唇。もっともっと喋っていたいって、熱を帯びているみたい。でも実際は、ちょっと冷んやりとしてる。何百年ものあいだ、見てきたかの様に語るときの、ほんのりと上気した表情も、その時は強張っている。
「こんなこと、やっぱりダメだと思う」
「どうして?」
「君は未成年だから」
「もうすぐ十八才になるよ」
「でも、僕は教師で……」
「いまさら、そんなこと言うの?」
「いや、だから……」
「今までバレなかったんだから、あと少しくらい、大丈夫だよ」
「そういう問題じゃない」
「どういう問題?」
「あたまがおかしくなりそうなんだよ!」
「違うでしょう?」
私は知っている。彼が先生をやめることを。教師を辞めて、また大学に行く。本当はもっと前から、そうしたかったけれど、世間体があるから働いていた。でも、自分の本当にやりたいことのために、彼は決心した。
まぁ、良いんじゃない。そういうのも。そうやって、前に進んでいくあなたも良いと思う。カッコイイって、きっと自分でも思っているんじゃないかな。言葉では否定しても。全てを投げ打って、手にれたものを手放して、都合の悪いことからは逃げて。そうやって、前に進んでいく。あなたはあなたの正しい道を進んでいく。
きっと、望んだものが手に入ると思うよね。
きっと、それを誇らしげに思うのでしょうね。
そうやって手に入れてきものばかりだもんね。
そうやって手放したものを、憶えてやしないのにね。
了