第43回 てきすとぽい杯〈てきすとぽい始動6周年記念〉
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コアントローの小瓶
Raise
投稿時刻 : 2018.02.18 00:04
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コアントローの小瓶
Raise


 晴れてはいるよ。天気を訊かれて、努めてゆくりと、答える。そう、とリサは短く答えて、俺は開きかけたカーテンを戻す。彼女は椅子に座り、不機嫌に眉をしかめ、とんとん、と人差し指で机を叩く。わざと時間をかけて、珈琲を淹れる。痛み止めの水と飲んだほうが良い、何かあてからでは遅いと再三忠告してはいるが、彼女はこれがいちばん頭痛を治すのにいいやり方なのだといて、まだ湯煙の立つ珈琲を、一気にごくりと飲み干す。俺は三年経てもうまく茹で上がらない卵とトーストと、ごく簡単な野菜サラダを用意して、彼女が音を立てながら咀嚼しているのを、じと待つ。俺は一言も喋らず、彼女は時々髪をかき分けながら、卵の端をかじる。二杯目の珈琲を淹れて、日曜日の朝食、つまり俺の仕事は仕舞いだ。頭痛薬が効かないのに苛立たのか、リサは二杯目も一気に飲んだ。
「出かけるのはやめにしようか」
 彼女は自分の左手を右手に乗せて、唇をきと結ぶ。拒否のサイン。陽太郎なら、ここではと母の怒りに気付いて、慌てて目線を反らすところだ。その父も、同じ仕草をしている。リサの手が震えている。俺は、三杯目の珈琲に、エプロンの内側に隠し持た小瓶のオレンジリキルを垂らすか、少しだけ、迷う。

「世田谷公園でいい?」
 リサは少しだけ緊張気味に、ゆくりとアクセルを踏みだす。彼女の日曜の外出先が出発直後に決まることで、それに意見を差し挟むのは全然賢明でないことを父子共々知ているから、黙て頷く。
「車になんか乗るなて言われたの、覚えてる?」
 うん、と短く答える。午前十時の冬の光は、まだ弱く、寒々しい。うすらとだけ陽の輝きを帯びた、寒々しい住宅街を、俺たちの車はごく静かに走り抜けて、やがて大型量販店ばかりの国道にたどり着く。
「医者なんかアテになんないて言たのは、君だたよな。だから、こうして平気で乗てる」
 彼女は皮肉ぽく口笛を吹いて、ただじとフロントガラスの前方を見ている。ポケトの中の小瓶を握り締めて、いつその手が震え出すのか、とふと思う。窓ガラスに移る自分の顔は、頭痛に悩まされているときのリサよりも、更にずと気難しそうだ。全然平気じない、とようやく柔らかな笑顔で、彼女が答える。
「陽太郎はなにか言てた?」
「お母さんによろしく、て」
「嘘つくにしても、そけないね」
 溜息をついて、俺も笑た。あの子からリサへの感情は、そんなありきたりな言葉では言い表せないだろう。幼いころは優しかた母親が、ある日から、台所の隅で頭を抱えて唸り、便所でゲエゲエと吐いている。吐いたその水分を取り戻すように、美しい硝子瓶に直接口をつけて、血のように濁た果実酒を、ぐるぐると飲み干す。陽太郎にとて、スイスのチコレートや変わた果物のジム(カシスとか、ルバーブとか、なんかそういう気取たものが、あいつは好きだ)を買てもらえる輸入食品店は、いつの間にか、リサが黙て洋酒を買う店になている。甘い酒が好きだ、と大学で知り合たころから彼女は言ていた。苦いのは、嫌い。そのころは、珈琲ではなく、もぱら紅茶党だた。
「まだ会えないよね」
「嫌がられるかもな」
「嫌がたんでしう?」
 俺は嘘が苦手だた。信号が赤になて、左右を巨大なトラクに挟まれた形で、車は止まる。高校生になた陽太郎は、俺たちの心配をよそに、たぶん世間で言うとかなり上出来な息子に育ている。これから何があるか分からないから、堅い資格の仕事に就きたいんだと言て、医学部の進学を目指している。友達は多い。笑顔の作り方も自然だ。親の慰め方も知ている。子供のほうが、俺たちより余程よく出来ている。
 そういう息子に、今日はちといいかな、と曖昧に微笑まれると、それ以上はどうしようもない。
……なんで世田谷公園?」
 信号が青になて、俺たちは少しずつ加速していく。彼女はうん、とよくわからない答えを漏らして、乾いた唇を小さく舐める。渋谷から道玄坂、三宿へと下ると、首都高の長い影に入る。
「同じ病棟の人が、世田谷公園には明るい人ばかり居て、……飲んでしまう自分がいやになたときは、あそこに居る人たちを見て心を落ち着けてたていうの。確かに、世田谷区、だもんね。お金持ちも多そうだし、私たちみたいにはならなさそうだし。すごく口が悪いおじさんで、私もいやなことを度々言われたんだけど、なにかの拍子にそんな話を聞いて、そのときは、なんだかすごく感動的に思えたのね」
 入院していたころのことを話すリサは、いつもこんな風に饒舌になる。いいや、本当は家に居たときから、ずと彼女はお喋りだたのだ。俺が、家に居合わせなかただけで。
……変だよね。性格がすごく悪くて、本当なら嫉妬しそうなところなのに、そういう人が眩しく思えるような場所て、どんなところなんだろうて、前からずと行きたかたんだ」
 カーナビの音声誘導があるにもかかわらず、俺はそこ、右だよ、と声を出した。高速の、影を抜ける。
「お母さんは? 何か言てる?」
「うちの母さんなんか、どうでもいいだろ」
「陽太郎を預かてもらてるんだから、全然どうでもよくないよ」
 職場で閑職に飛ばされた息子の、母と妻。うだつの上がらない男と縁が結ばれた女たちは、自然と仲良くなるものじないかと、リサの入院をめぐて俺は深く感じた。母はリサよりも俺のほうに非があるように責めた。それは、絶対的に正しい。俺は拳を少しだけ握り締め、バーカーのポケトを探る。小瓶の感触を確かめて、ふうと、長い息を吐く。あるがままを、答える。
 週末だけと言わず、いつでも向こうから帰てきてほしいと思てる、陽太郎には確かに気を遣うかもしれないけれど、なあに、慣れだよ、と。まあ、そんなところを。彼女はおかしそうに笑う。
「そんな風に物事がうまく割り切れれば楽だよね」
 実際にうちの母なら、やて慣れろ方式で、なんとかしてしまうのかもしれない。昭和生まれというのか。それを知ていて、俺も笑う。ポケトの中の親指と人差し指で、小瓶をそと、撫でる。
「本当は、もとなんでも、簡単に、割り切れたかもな」
 駐車場に止まてから、俺たちはしばらく車を降りようとしなかた。ドアを開けてしまえば、二月の冷たい空気が暖房の熱気なんて軽く吹き飛ばしてしまて、俺たちの頭を冷やすだろう。もう少し、この生ぬるい暖かさに浸りたかた。そう、本当は、と唇だけ動かす。
「私が言うのもなんだけど、たられば、だよね」
 明らかに酔ぱらうことが増えて、なにかつらいことがあるんだろうと、勝手によくわからない推量をせず、黙て病院に連れていけば良かたのだた。次第に汚れていくテーブルや、アイロンのかかていない服に、言葉に言い表すこともなく、ただ不満げな顔なんかするんじなかたのだ。そのうちに力関係が逆転して、暴力が始まる。俺は酒を飲みさえすれば、彼女が落ち着くのに気付く。陽太郎の手前、酒を飲ませるのは嫌で、俺はこそり、紅茶に、琥珀色の滴を垂らす。彼女はそれを飲み、気まずそうに俺のほうを見て、今しがた夫の頬を打て赤くなた手を、じと凝視している。ごめん、と彼女は言う。皿が割れて、新しい滴が落ちる。シツにゲロを吐き、床に転がり、罵詈雑言をまき散らし、新しい滴が落ちる。一滴一滴に、どろりとした光が滲むのを、俺は見ている。酒は百薬の長というなら、毒の長でもある。毒薬なんか簡単に手に入らないが、人間が死んでいく滴というのはこんなにきれいなものか、と蛍光灯の下で思た。
 俺は何度も殴られたが、彼女は陽太郎のことはぶたなかた。俺はそれを、今でも偉いと思ている。
……リサはよく頑張たと思う。普通は、あの病棟からなかなか出られないらしいから」
「たまたま軽かただけだよ」
 ドアの取手に手をかけ、すうと息を吐くと、リサは一気に扉を開けた。

 全然居ないね、とリサは困たように笑た。その言葉の通りで、鳩と老人は居ても、リサがきと見たかただろう、明るい家族連れとか、そういう理想の人々は、日曜の朝十時半には居ないのだた。たぶんきと、まだ朝食の準備をしているのだ。起きてすらいないのかもしれない。俺たちはまだ開いていない売店前のベンチに座り、噴水が弱弱しく水を吐き続けるのを、なんとなくにやにやしながら見ていた。
「なんか、こういう出かけ方て、私たちらしい」
「そうだけ」
「昔からそうだよ。大学のときから、どこかに行こうて話になるたび、遊園地でも目玉のアトラクシンが壊れたりとか、嵐でロープウが止まてるとかさ、いつもこう、期待と違うんだよね、少しずつ」
 そういうわりに、彼女は缶珈琲片手に、楽し気に足を揺らしているのだた。
……どうなんだろうな。なんか、当たり前だけど、こういうところに来てる家族だて、当たり前のようになにかしら悩みがあて、病気とかもあ……そういや、前に週刊誌の広告で読んだんだけど、世田谷区の七十代てのは早死にするらしいよ。……なんだたかな。どこの雑誌だたかは忘れたけど」
 馬鹿馬鹿しい、三十を超えた人間にするようなことでもない話を、彼女はじと聞いてくれる。
「私もきと早死にだよ。一回死んだような、ものかな」
 彼女は立ち上がり、噴水に向かて歩き出す。追いかけようとした俺の前を、犬を連れた老女が、のろのろと鈍い動きで過ぎていく。その背中に、どういう言葉をかければいいのか解らなくて、俺は立ち止まる。素直に言えばいい、帰てきてほしいと、ただそれだけだ。たたそれだけの請願が、言葉に出来ない。
 いつの間にか護符のようになてしまた、オレンジリキルの小瓶を、ぐと握り締める。これさえ垂らせば、彼女は心を落ち着けて、俺の言葉を聞いてくれるのだと、理解不能な妄念に陥ていたときがあた。そんな自分を思い出すと、泣きたくなる。陽太郎とリサへの罪悪感より、その馬鹿らしさへの苦い気持ちが先立つ自分が、いやでいやで、本当はしうがない。それを、どうしてか、言葉に出来ない。
「ケンちん」
 彼女が俺の名を呼んで、それで立ち止まていた足を、頭ではなく身体で動かす。陽の強さが少しずつ増して、今更のように、酒を垂らしたことだけは一度も責められなかたのに気付いた。言葉にされることすらなかた間違いが、じと結晶して、細かな針のようにして身体の奥底へと沈み込む様子を想像しながら、俺は彼女の背を鈍い足取りで追て、ポケトの中の小瓶を潰すように、両手を握た。
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