いかに人間的であるか
陽だまりの中を彼女と一緒にいると、まるで透明な、遠い過去を思い出して仕方がなか
った。不確かな原風景に思いを馳せらせると、胸にす~っと、塵状の細かな刃が溜まり、微かな痛みに涙さえ戸惑い歩く。呼吸を忘れた錯覚に陥り、隣の彼女の方を見る。視線を受けた彼女は僕を見、にこりと微笑んでくれる。慈愛の目、とことんまで堕ちた天使の笑顔、何かを彷彿とさせる首筋、僕は公園の椅子から立ち上がり、近くにあった自販機まで向かう。
心を失ったのは、高校生の頃だったと思う。思春期によくありがちな、恋愛の破綻で、僕の全ては音を出し、壊れた。それに、多少の感傷は憂うけれど、今となっては少しの後遺症だけだ。でも、それは、僕の心を蝕み、着々と破滅の兆しを見せている。悲しき憧憬が、頭にこびりついて離れていかない。
僕は自販機で缶コーヒーを二つ分買い、彼女の元へ戻る。彼女が受け取り、またもやにこりと微笑む。僕は安心し、また、二人掛けの椅子に座る。適度な距離を保つ。触れれば壊れてしまう柔和なガラス繊維なのだ、僕らの心は。
担当医が近くを通りかかり、僕らに声をかける。
「やあ、元気かい?」
「それほどでもないです」
僕は言ってから、彼女の方を見る。彼女は僕と担当医に、「私も」と言った風に、微笑みかける。担当医は僕らに「それでは、また診療の日にね」と言って立ち去る。
彼女が言葉を失くしたのは、中学生の時だったと聞いている。クラスで壮絶ないじめを受け、重度の精神病にかかり、それからこの精神病棟に入院しているらしい。十九歳という若さで、顔も綺麗な方なのに、世間に馴染めずここにいる事を思うと……いいや、やめよう。
僕が鬱病と診断され、この病棟に入院してきたのが、二か月前の事だ。親からは罵倒を受け、皆からは嘲笑され、命からがらここに逃げて来たというわけだ。だってそうだろう? 僕らにはここしか生きれないのだから。普通への切望は今もまだ残っている。それでも、人は僕を……。
彼女が僕の頬を指で突いた。我に返る。そうだ、僕はここにいる。僕は僕だ。彼女は僕が落ち込んでいる時に、いつも頬を突いてくる。見透かしたような天使、天国いきの切符を忍ばせているのかもしれない。
深夜、目が覚めると、なにやら病棟の一室が騒がしくなっていた。他の患者に話を聞くと、誰かが自殺をしたらしい。僕は、誰だろう? と思い、女性患者の病室を通路から覗く。部屋から、通路に流れ出た汚物が明かりに照らされて、目を逸らした。明日になればわかる事だ。でも、僕は薄々気が付いていた。彼女が死んだ事を。
彼女の症状としてはひどい幻聴や、妄想の類だった。深夜になるといつも病棟に悲鳴が響き渡る。僕は最初、それを聞いた時、他の患者に聞いた。「誰が夜に声を出してるんです?」と。「あの子だよ、十九歳の」と聞き、僕は彼女を知った。そして、恐れ多くも助けようとした。今日の昼までは元気な姿を見せていた。でも、僕は助けられなかった。死んでしまった。
僕が一人で公園の椅子に座っていると、隣に誰かが座った。
彼女だった。
「どうして、そんな悲しい目をしているの?」彼女は言った。
「だってさ、この世界で誰か一人、死ぬってことはとても、悲しい事だと思うんだ。だってそうだろう? その人には親も友達もいたはずなんだ。皆悲しむんだ。皆……」
「人はいつか死ぬわ」
「でも、今って事はないじゃないか。僕は、君を助けたかったんだ。心の底から、助けたかったんだ」
「それはね。私の問題なのよ。一人の問題なのよ。生きるか死ぬか選択するのは私だわ」
「うん……」
彼女は僕の頬を突いてから、言った
「でも、私はあなたに死んでほしくないの。このままここで生涯を終えるなんて、許さないわ。さっき言ったわよね。死ぬってことは、とても、悲しい事だと。自分の口で言ったんだから、貴方は今を生きなさい。懸命に生き延びなさい。そして、こんなくだらない世界で仮初の愛を見つけて、普通に過ごすのよ」
それは僕が生み出した妄想だったのか分からない。普通への切望が、そんな彼女の姿を生み出したのかもしれない。最後に、彼女は笑った。僕はそこで目が覚めた。
彼女が死んだ翌日、僕は担当医に「退院したいです」と言った。許可はすぐ下りた。家族に迎えの車を出してもらい、実家に帰った。夕食はデリバリーのピザで、久しぶりに飲むコカ・コーラは砂糖の味がした。
生きている、と思った。生き延びよう、と思った。普通の生活が僕を待っている気がした。