暁文学
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ねじれのハンスⅡ
投稿時刻 : 2018.04.10 23:43
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ねじれのハンスⅡ
白取よしひと


 落ちつかぬ硝煙の名残は、風とともに青年の顔をぬぐた。早暁のかすかな光は、年老いた犬にも似たあぶら気のない黄金の髪を照らした。いつになく穏やかなその顔は、彼方からとどく爆音を、ワーグナーの旋律に似せて夢みているのだろうか。頬がぴくりと引きつると、ひからびたバターのように土が剥がれ落ちた。露わになた無数の吹き出物は、青年のながく節くれた指で掻きむしられると、蘇生した生き物のように粘液を滲ませた。
 朝日がいよいよ辺りの見通しをよくすると、散乱した土嚢と鼠の巣穴にも似た塹壕がいくつもあらわれた。言葉を失た帝国軍兵士たちは、巣穴へすがるように身を倒し、ある者は天を仰いでいた。
 青年はのしかかる無言の兵を押しやると、半身を起こした。我を忘れた碧眼は朝日を返したが、誰ひとりとしてそれを美しいとは思わないだろう。必要を越えて突き出した鼻梁は地の力に屈して、もたりとうわ唇まで垂れ落ちている。 目的のない夢遊病者となた彼は立ち上がり、煙の立ちのぼる帝都を遠望するころには、生来の不機嫌な顔にもどていた。四頭立ての馬車を駆る山高帽の貴公子。鳶色の瞳をした美しい娘たち。つややかな大理石から吹き出した噴水の公園。彼は、それら帝都の残像が、もはや幻となてあの立ち昇る煙の煤となてしまたことに何の感傷も覚えないだろう。はなから彼には、足指の先ほども関わりのない世界だたからだ。
「ふう!」
 息を吐き出し背伸びをするとその四肢は異状に長く、寸足らずの軍服は両裾両袖とも長い四肢をもてあまして珍妙に見えた。まるで、かた田舎でもお目にかかれない出来損ないの案山子だ。
『ハンス! 早く砲弾を持てこい!』
 忌ま忌ましい上官の声が過ぎたのか。彼は傍らの兵士を蹴飛ばした。首都防衛の最中、彼は任務を放り出し、塹壕から塹壕を、蚤(のみ)のように跳びはね逃げ回ていたのだ。
 乾いた蹄の音が、ぱらぱらと迫てきた。連合軍か、はたまたコサクか。けれど、彼にはどうでもいいことだ。
「生き残りがいるぞ! 手をあげろ!」
「なんだこいつ……にやついてやがる」
「子供だ。捕虜にしろ」
 後続の機甲師団から担架が運ばれてきた。青年が足を負傷していたからだ。
 担架に揺られる青年は碧眼を空に向けていた。野太い羽音を鳴らす虻のような編隊が首都を目指していた。あれは、メサートであるはずはない。首都に引導を渡す虻の群れだ。
「こいつ……てやがる」
 青年は、巻き絞ていたゼンマイを突然思い出したブリキ人形のように、げらげらと笑い出した。暁の空へ響きわたる笑い。それは、『ねじれのハンス』そのままの彼であることを、連合軍兵士たちは知る由もない。
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