さようなら、友だった人
「君、見えそうで見えない、というのが一番良いのだよ」
古くからの友人であるデ
ィアック卿はワインを啜りながら、腕を広げた。
「例えば美しいご婦人が、足を剥き出しにした短いドレスを身に纏っていたらどうかね。良家のレディが娼婦のような成りで路上で立っているのはどうか、銀行にある私書箱の壁が硝子で透けて、中が丸見えならどうか?」
「それは……つまらんだろうね」
私は彼が手ずから淹れてくれた紅茶をすすり、苦笑する。今日はメイドにも執事にも暇を出しているのだそうだ。慣れないことをしたせいで、紅茶は酷く苦い。
「そうだろう、そうだろう。だから、なんでもなんでも『見えそうで見えない』というのがもっとも美しく、心落ち着くのだ。そもそも、見えそうで見えないものをじっくり見よう、見破ってやろうというのは無粋だ、紳士ではない」
彼は……ディアック卿は近隣でも名を知られた名士である。しかし一風変わった男だ。
山の奥にある巨大な洋館に妻も娶らずに暮らしている。メイドと執事は古ぼけた老人ばかり雇い入れ、アンティークのスーツにアンティークの調度品に囲まれて暮らしている。
卿、と呼んでいるが、女王陛下が彼にどのような称号を与えているのか私は知らない。
しかし気難しい男ではなく、むしろ明るい男なのだ。打ち解けるまでは時間がかかるが、いざ打ち解けてしまうと冗談を言うこともあるし、金に困っていれば援助だって惜しまない。
……良い男なのである。
「紅茶がすすんでないな。不味いか? 君が風邪気味と聞いていたので、少し濃い目にいれてみたのだが」
彼は姿勢の良い格好で、私のカップに紅茶を注ぐ。紅すぎるそれは、香りからして苦いのだ。しかし断ることもできず、私は渋々とその苦い茶を含む。
「さて……無駄話をしていると随分遅くなってしまった。ほら、もうすっかり夜だ」
私は途中で話を打ち切って、外をみる。山の中にあるこの屋敷は、夜も更けるとひどく暗い。
「帰るかね。馬車を呼ぼうか」
「ぜひそうして貰いたい」
「生憎と、執事が今日は休みを取っているので……なに、案ずることはない、私がちょっとそこまでいってこよう。君の馬車は門に待たせているのだろう。暗い中、門まで行くのは骨が折れるだろうから、玄関まで連れて来よう」
「館の主人にそこまでさせるわけには」
「いいんだ。君は風邪気味、今宵は春の雨だ。こんな雨が一番よくない」
ディアック卿はいそいそと雨用の外套を身に纏うと、杖を手にして立ち上がる。
そしてよく整えられた髭をぴんと弾いて、そして私を見るのだ。
「君の意見はどうかね」
「なにが?」
「見えそうで見えないものが一番いい……どうかな」
「そうだな」
私は冷めつつある茶を飲みながら、曖昧に笑う。
「私も同意見だよディアック卿」
ディアック卿が扉の外に出た途端、時計の音が大きく鳴り響いた。
深夜、23時45分。不思議な時間に鳴る時計である。この時計がこの時間に鳴り響くと、不思議な事に時計の背後の壁がわずかばかり、ずれるのだ。
古い時計、古い壁。大きな時計の音に、ひずむのだろう。
(見えそうで、見えない……)
私は音を立てないように気をつけて立ち上がる。
そうだ、いつも気になっていたのは、この壁である。
ディアック卿との逢瀬はいつもこの時刻まで及んだ。その時、いつも、いつもなのだ。いつも、壁がひずむ。ほんの少しだけ隙間が空く。その隙間の向こうに、何かが見える。
最初それはただの見間違いと思っていた。
二回目、三回目。幾度か見るうちに、それは何か白いものだと確認できた。
きらきらと、輝く白いものだ。
私はふと、思ったのだ。ディアック卿は名士である。金持ちである。実際、調度品は素晴らしい。
しかし彼の出自を知るものはいない。何で財を成したのか、財はどこからくるのか、知るものはいない。
そして、噂があった。
彼は素晴らしい財宝を壁の後ろに隠しているのだ。
それは真っ白なパールである。彼は海を渡る海賊から大量のパールを奪い取り、海賊の報復を恐れてこんな山奥で身をやつして隠れているのだ。
突拍子も無い話だ。そんなものは嘘だ。と、私は思った。
しかし毎日毎日、見えそうで見えないそのひずみを見るうちに私の中に悪魔が住み着いた。
あれが本当に高級なパールであれば?
少しくらい、頂いても構うまい。
彼は友人には優しい。援助も惜しまない。しかし馬鹿な私は最近、競馬で大損をしたところである。父に見つかると勘当ものだ。
少しずつディアック卿に援助をしてもらっていたが、到底、足りない額の穴をあけた。
(まさか、な……)
私はそろりそろり、時計に近づく。時計の音が耳障りだ。他の音がなにも聞こえないではないか。
(しかしこんなチャンスは二度は無い……)
メイドも執事もいない夜。それを聞いたのは一週間前。だから私は雨がふりそうなのにわざと馬車を遠い門の向こうで待たせた。
そうすればきっと優しいディアック卿は自ら呼びに行く、席を外すと思ったのだ。
(少しくらい……少しくらい、一粒あれば……補填ができる、一粒でいいんだ……)
こち、こち、こち、こち。
時計の音がうるさい。
こち、こちこち。
うるさくて何も聞こえない。
私はひずみに指を這わす。覗き込むと確かに白いものがみえる。
見えそうだ。見えない。
……もう少しだ。
私は何かを指に引っかけた。
冷たくて、固い。細長いもの……。
「……君」
何かを掴み、引き出した。その時、私の肩に何か冷たいものがのる。
「……ねえ、君」
恐る恐る振り返ると、そこにディアック卿が立っている。
彼の雨避け外套は、水に濡れててらてら光っていた。
……否。
「見えそうで見えないというのが一番いいと」
彼の体は、雨と紅いもので光っているのだ。彼のもつ杖の先は赤く、何かが滴っている。
彼が片手に持つのは……見覚えのあるものだ。
馬車の、私の馬車の……馬丁の、首である。
「何度もそう言っているだろうに」
ディアック卿はにやりと笑った。私は今、壁から引き出したばかりの……白いものをみる。
それは、誰のものか分からない、白い骨である。細い、指の骨だ。
ひずみの奥を覗けば、そこには無数の骨が見えた。
真っ白な骨である。それは何百体と、そこに積まれている。
「残念だ、友よ。君は初めての……人間の友になれると思ったのに」
ディアック卿の明るい声が、私の耳をつらぬくのと同時に彼の杖が私の胸を貫く。
熱い痛みの中で私は思い出していた。
かつて、この地には……化け物の伝説があった。
それは姿の無い化け物の話。
姿を見ようと探索に出た男たちは皆、帰らなかった。
「君……は」
「さようなら、友だった人」
何故か、ディアック卿の目が薄く、濡れているように見えた。
しかしそれもまた、はっきりと見えるより前に、私の全てが闇に落ちたのである。