「ひよこ豆が売っていたから」
　エアコンの冷気にのって、彼女の言葉は、僕の耳にすべりこんできた。
　それは、平成最後の夏。
　スパイスと湿度たっぷりの暑さの中で、彼女は妖精のように涼やかだった。肩までの髪の毛は、さらさらで、声の調子は、クラッシュアイスのように明快。でも、僕はひき肉のようにぐずぐずとしている。
　ひよこ豆のカレーかぁ。玉ねぎをいためて、ひき肉とスパイス、ナス、オクラ、そしてひよこ豆。さらにカレールウをあわせて、水分少なめにドライカレーのように仕上げる。
　豆は嫌いだ。
　そういえば、僕たちの関係は、変わっていただろうか。
　僕は、その言葉を使わないまま、豆も野菜も肉と一緒に、煮こまれ、とがったところがなくなった。
　とがった大人なんて、むしろイタイ。
　カレーをいれて煮こめば、野菜も肉も豆も、すべてカレー味。そのなかで、いつまで、豆が嫌いだなんて、青いことを言っていられる？
「カレーだったら、次の日も美味しいし」
　その万能すぎる意見に、僕は戦いを挑む。
「駅前にできたラーメン屋、結構おいしいらしいよ」
　彼女の表情は、一切変わらなかった。そのまま、戸棚をあけた。
「カレールウがない。買いに行かなきゃ」
　僕は、自分の主張を２度繰り返すなんて、愚かな真似はしない。もちろん僕の言葉が聞こえていないわけじゃない。彼女は、ダークなシャツで主張する。
「ラーメン？　パスかなあ。実はあんまり好きじゃないの」
　僕の好みと君の好みが同じだと、僕は赤ん坊のように信じきっていた。いつから、君はあいまいな表情を浮かべていた？　君はいつから、僕にあわせていた？

「買い物、行くでしょ？」
　スニーカーからのぞく白い足首が、僕を導くように数歩先をゆく。たやすく人込みをぬけていく。こんなに蒸し暑いのに、その足取りがあまりにも無慈悲で、僕は引き留めたくなる。
　腕をつかむ。
「キミが好きなんだ」
　びっくりしたような彼女の表情。見張ったその瞳に映る僕は、あまりに小さな存在で。
　彼女の口がわずかに開いた。言葉が、ビーズのように滑り落ちていく。

　彼女の返事は！？
　試される僕らの選択。
　ひよこ豆のカレー？　それともラーメン？

　夏野菜サンバを踊り続ける八百屋のにーちゃん。暴言上等！ラーメン屋の店主。スーパーマーケット、禁断のイケメンレジ打ちタイム！
　僕と彼女が駆け抜けるひまわり商店街。
　カギは、もちろん、あ・じ・た・ま。

「ひよこ豆が売っていたから」
　うだるようなこの夏に、近日公開！

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