時間泥棒
ひとのものを奪う行為は許されるべきではない。
労苦の末に手に入れた、価値のあるものを奪うことは、いわば時間泥棒だ。
価値そのものを云々することは、問題の本質を見誤ることに繋がる。
たとえば、や
っとのことで手に入れた、愛する恋人を奪われたら?
そう、その男には恋人がいた。
残念ながら、世にいう美人ではない。
経済的に恵まれてもいない。
さらに言うなら、ことあるごとに男に対して不満を言い連ねる。
最後には必ずこう言った。
「私がいなければ、アンタは一生、女なしで終わってたよね」
それは全くの事実だった。男は気弱げな笑みを浮かべるだけだった。
その恋人がある日、見知らぬイケメンに奪われたのだ。
聞くところによると、それは幼稚舎から通った某名門私立大学の学生だった。
家に金はあり、就職先は親が社長を務める大会社に決まっていた。
そのイケメンが、およそなんの取り柄もない恋人を奪って行ったのだ。
男は驚愕した。
そもそも男とて、恋人の人となりについて思うところはあった。見た目については、叫びたいくらいの嫌悪があった。それでも、男にとってはかけがえのない恋人だった。ほかに選択肢がなかったから。この恋人とともに過ごす将来は、すくなくとも幸せのかけらもないことだけは予想できた。それでも男は恋人を手放したくなかった。もとより男は周囲のあらゆる女性から蔑みの眼差しを向けられていたが、その恋人と付き合うに至って視線は恐怖の色を帯びていた。
「あの子と付き合ってるの?」
「いくらなんでも、ないわー」
つまり、恋人と付き合うことにより、男は他のあらゆる可能性を失っていたのだ。これで恋人を失えば。考えたくなかった。
そもそも、男は安心していた。
こんな恋人だからこそ、ほかの男は手を出さないだろう、と。
自分のような非モテのブサ男でも、この恋人となら末永く付き合って行けるだろう、と。
それがなんの幸せも生まないことは分かっている。それでも「恋人がいる」という肩書は男にとって無上の価値があった。「恋人」という言葉には、恋人の画像が添付されているわけではない。もし自分が死に、恋人も亡くなったら、忌まわしい要素はすべて消えてしまい、「恋人と付き合っていた男」という抽象的な定義のみが男を飾るはずだった。そのため、男は恋人に関するあらゆる画像・動画データを消去していた。
それほどまでに、男にとって恋人は重要だったのだ。
その恋人が、奪われた。
男は半狂乱になった。イケメンのもとに何度も出向いて、非道な振る舞いを詰った。イケメンは薄ら笑いを浮かべるだけだった。その隣で、男のかつての恋人は、だらしない態度でイケメンにしなだれかかっていた。男はすごすごと引き下がるしかなかった。
やがて、イケメンとかつての恋人は結婚した。
男の悲嘆ぶりは筆舌に尽くし難かった。いつもは汚いものを見るような目だった周囲の女性たちも、さすがに同情した。やがて、男は非モテのブサ男として元の生活に戻った。
やがて、イケメンは正気に戻った。なんの取り柄もない女を娶ってしまったことに唖然とし、別れを切り出した。もちろん、女は応じなかった。
イケメンは窮した挙句、男のもとに行き、どうか引き取って欲しいと懇願した。
男はなにも言わなかった。
やがて、声を上げて笑い始めた。
時間の無駄だ、と男は叫び、イケメンを追い返した。
そう、遥か昔から、男はイケメンを嫌っていたのだ。