怪盗インコンビニエンスからのお手紙
人はみんないろいろなものを気づかないうちに奪われながら生きている。そうして、たまにそれに気づいたときに、怒
ったり抵抗したりして、少しずつ世の中はよくなっていくし、少しずつ争いに傷ついた者が退場していくわけだ。
だけど、君たちは自らの属するグループの利益にしか興味がないのだから、どうしたって気づけないものがある。時間を無駄遣いされたり、お金を搾取されたり、尊厳を奪われたり、自由を制限されたら、怒り出す人たちから盗んでも怒られないものがある、そう、たとえば不自由とか。
ポストに入っていたチラシをゴミ箱に捨てているとその中に手紙が入っている事に気づいた。綺麗な白い封筒。なんら心当たりのなく消印もない封筒をあけるとたった2行だけ書かれたカードが入っていた。
あなたから不自由を盗みました。
怪盗インコンビニエンスより。
よくわからない。子供のいたずらだろうか。とりあえず捨てる対象とはせず机の上に放った。盗んだと書いてある、でも不自由とはなんだろうか。お金を盗んだとか物を盗んだとかなら、被害を受けたくはないが理解はできる。自由を盗んだということならまだぎりぎりわからなくもないかもしれない。それは制限が増えるなどの意味だろう。でも、不自由を盗んだとはどういうことか。とりあえず考えてみたが、私のもちものに「不自由」と名前のついた何かはなかったかと思う。つまり物の名前ではなく概念としての不自由ということで正しいはずだ。
怪盗インコンビニエンス。コンビニが便利で、インがついて逆になり、それの怪盗なので、さしずめ不自由泥棒という感じだろうか。
こんなことを考えていると時間を盗まれているなあ、と思う。
それに思考のリソースや私の大切な休日も消費されていく。
ただ、どうも考えてしまう。自由を盗むということがなにかの制限の増加ならば、不自由を盗むとは制限の削減、つまり制限を盗んだと言えるかもしれない。制限? なんだろうか。たとえば、名目上だけ参加している町内会の決まりなどが減っていたら、特に意識できない範囲で不自由を盗まれたといえるかもしれない。そういうことだろうか? そういった方向でいいのか?
もし仮になにか制限のある状態から解放されたなら、そう、たとえば解放という言葉のほうがこういった場合、使われるものではないだろうか。自由への解放だとか、自由を得るためにだとか、そういった綺麗で強い言葉を並べるのが常套句というものだ。その影でなにかを実際には差し出していたとしても、わかりやすいメリットはありがたいものだし、自由とは基本的には悪いものではない。
しかし、今回は盗まれたとある。
盗まれたのならば私は損をしているのだろうか。
警察に届けるべきなのだろうか。
「不自由を盗まれたので、犯人を捕まえて取り返してください」
言いたくはない。はずかしいし、不自由なんて取り返したくもないものだろう。それがなにかわかれば、本当は取り返したいものだと気づけるかもしれないけど、たんに不自由とだけ言われるなら、どうぞと差し出してあげたいと思う。
トレードオフ。
そこで少し思い立つ。自由を得るためになんらかの犠牲が必要ならば、不自由を盗まれた際にも同様の犠牲が発生しているのではないか? つまり彼奴の目的はその犠牲の方なのかもしれないと。しかし、目的を達成できたのならば手紙で知らせる必要はないのではないかとも思う。普通に考えれば、盗んだ者が盗んだことを報告する意味がない。気づかれないのが一番安全だし、なにか意味があるかと言えば、くやしがらせることなどだろうか。もしくは名前を売るため?
携帯電話でネットやSNSを検索してみたがこの怪盗の名前はでてこなかった。つまり、世に多く出ているいたずらではないらしい。私がひとりめか、それともわりとはやいほうの被害者ということだと考えられる。
チラシのゴミを捨て終わって、もう一度カードを手にとった。
少し硬い。光を反射している。こんなカード程度なのでそんなに高級というわけではないだろうけれど、だからといって、紙にボールペンで書いたような安物らしさもない。相応に手間はかかっている。
不自由を盗まれた。
つまり私は自由を得た。
なんの自由?
自由。フリーダム。リバティ。無制限。
自由とはいつのまに増えていても気づかないものだということだろうか。制限されていると認識している状態でそれが撤廃されれば、きっと歓喜にわくものなのだろう。でも、認識していなければ、喜びようもないということなのかもしれない。本当に不自由が盗まれていればという話だが。
このカードをどうしようか。
ゴミ箱に捨ててしまうのもどうかという気もするし、額にいれて飾っておくものでもない。なにせ私は盗まれた被害者なのだ。怒りこそすれ、感謝するようではいけないのではないか? 『盗む』という言葉が選択された意味はそう受け取るのが正しいように思うのだ。仮にそれが素晴らしい結果だとしても勝手に盗まれた結果だということに感謝するのはおかしいだろう、という。
そういった考えを持つことができるのが、不自由を盗まれたがゆえの自由という権利だろうか。
そういった選択しなければならないなら、自由ではない不自由だとも言えてしまうが。
私は盗まれたことに不満を持つ道を選ぶことにしよう。
だって盗んだというのだから。
不自由を盗んだ怪盗は、
そんなに不自由がほしかったのだろうか。
どうして自由では満足できなかったのだろうか。
今頃きっと新しい不自由を探しているのだろうか。 <了>